ママはぼくのすべてを覚えていた

ママはぼくのすべてを覚えていた
“もう一生、心の底から笑うことはない”
そう思っていた2人のお母さんに会いました。耐え難い体験から立ち上がるには時間がかかりました。2人を支えたのは育んだ命を忘れないという思い、そして出会ったたくさんの人たちです。
(ネットワーク報道部 記者 大窪奈緒子)
取材に応じてくれたのは、いずれも40代のお母さんです。
2人は互いの子どもを通して知り合いになりました。

かんちゃんのママの場合

ぼくの名前は、しまかんたろう。

生まれたときから小さかった。妊娠30週で生まれて身長が35センチ、体重が1008グラム。

肺の機能が未熟ですぐに集中治療室に行く予定だった。

たけどぼくは奇跡的に小さな産声をあげた。

ママはそれに気付いて手を伸ばし、ぼくは集中治療室に入る前にほんの一瞬だけ、ママの手を握った。
パパは先生に呼ばれて、ぼくにはたくさんの病気があると説明された。

体の性を明確に区別できない「性分化疾患」もありエコー検査をしないと性別も分からなかった。

生まれて3日目には腎臓がうまく働かなくなり、大きい病院に転院した。

ミルクや薬はだいたい鼻に入れたチューブから入れられた。

5月に生まれたけれど、初めて家に行ったのは10月だった。

笑顔

家では毎日3時間おきにミルクの注入やたんの吸引などがあった。

ぼくは夜泣きもひどかったからママはまとめて寝る時間がなかった。

いろんな病気があってたくさんの科にかかっていて病院に毎週行っていた。気管支炎や肺炎、肝機能不全。

入院したり家に戻ったりも繰り返した。

0歳9か月の時の検査では、骨髄異形成症候群という病気もわかった。

また、病気が増えてしまった。

そのすぐあとにも「かんちゃんは数年内に急性骨髄性白血病になる可能性があります」と先生に言われた。

ママはつらい気持ちになりながらも、頑張ってぼくを育て、1歳でようやく体重が3000グラムをこえた。
ママの手につかまれば、立っちだってできるようになった。

そのころのぼくの写真は笑顔しかない。

帰ろうとしたら急変

10月30日。

「その日は、朝からかんちゃんの調子がちょっと悪かったのかもしれない」

ママはそう言うけれど、ぼくはよくわからない。

ちょうど、その日の朝に写真を撮っていて、ご覧のとおりぼくはニコニコだ。
「写真を見返すと、いつもより顔がむくんでいる気がする」

ママはやっぱりそう言うけれど、よくわからなかったのは仕方ない。ひなたぼっこをしながら、右足をあげ、元気な顔をしているのはいつもどおりのぼくなのだから。

ベランダでのひなたぼっこの後、ぼくは月に一度の血液内科の診察を受けに病院に行った。体重の増え方も順調で、体調もいいと太鼓判を押されて家に帰ってきた。

その日の夕方。
ママは、なんとなくぼくの泣き方がいつもと違うと感じた。

熱を測ると38度。ママはぼくをいつもの病院の救急外来に連れて行った。すると熱はもっと高くなっていて、43度以上あり計測不能と言われた。

発熱の原因がわからなかった。

ママは会社にいるパパに連絡して、すぐに来てもらうことになった。呼吸をするため管がのどに入り、体への負担を軽くするために薬で眠らされた。

パパが病院に着き、先生から「容体が落ち着いてきた」と言われた。

いったん家に帰るよう促されたパパとママは「あした来るね」とぼくに話しかけて、帰ろうとした。

その時、容体の変化を知らせるアラームが急に鳴った。

パパとママは病棟から出されてしまった。

ぼくに救命措置

外の待合室でママはパパに「大丈夫だよね。助かるよね。こんなの絶対うそ、絶対うそ。いや、いや!」と泣き叫んだ。

ぼくには救命措置がとられた。

次に2人が病棟に入っていいと看護師に言われたのは、夜中の11時半ごろだった。

ママが目にしたのは、心臓マッサージをうけているぼくの姿だった。

口からも鼻からも「ブオーブオー」と吹き出すように血が出ていて、ちいさな体に先生がすごい力で必死にマッサージをしていた。

ママは、それを見て、何が起きているのか理解できず大声で泣き叫んだ。

パパとママはまた病棟から出されてしまった。

お別れ

先生が出てきた。

「危険な状態だ」と言われた。

ママは「うそだ、かんちゃんは死なない、助けて、絶対に助けて」とまた泣き叫んだ。

日付が変わった31日の夜中の0時20分ごろ、病棟の外にいるママのところにまた先生がやってきた。

詳しい説明があったけど、ショックでママは理解できなかった。ただ、もうすべてをやりつくし、希望はほぼないことだけはわかった。

先生はつらそうにママに聞いた。

「どうしますか?」

ママは泣きながら答えた。

「もうやめてあげてください」

今までぼくがいっぱい頑張ってきたから、これ以上痛い、苦しい思いをさせたくなかった。

ママは心臓マッサージをストップしてほしいと伝えた。

ぼくは1年と5か月、それと15日15時間生きて、ママとパパとお別れをした。

深夜

「どうして血だらけのかんちゃんをだっこしてからマッサージをストップしてもらわなかったんだろう」

「腕の中で逝かせてあげられなかったんだろう」

ママはそう思って後悔をした。

パパとママは病院の施設でぼくの体を洗った。
泣きながら、きれいにしてくれた。

それから3人で深夜、病院を出た。
しんとして誰も歩いていない夜道に車を走らせ、死んでしまったぼくを抱きながら葬儀屋を探した。
「24時間、受け付けます」という葬儀屋を見つけて訪ねていった。

ママとパパは、ぼくを冷やすためのドライアイスが欲しくて焦っていた。亡くなった子を抱いて事情を説明する光景に、葬儀屋さんのおじさんも驚いたかもしれない。

だけどおじさんは「大丈夫だよ。ちゃんとしてあげるからね。なんでこんなにかわいい子が」そう言ってくれた。

葬儀屋さんは今でもこの日のことも、ぼくの名前までも覚えていて、動揺する若い夫婦を少しでも安心させなきゃと思ったそうだ。

おじさんは、夜のうちにドライアイスを持って自宅に来てくれた。

葬儀までの3日間は家ですごした。ママは、ぼくに会いに来てくれる人への対応で忙しくしていた。

生きている時、感染症に気をつけてなきゃいけなかったので、ぼくは、なかなか人に会えなかった。

だからママはたくさんの人に会ってもらってぼくのことを覚えておいて欲しかった。

そしてたくさんの人がぼくに会いに来てくれた。

ママはぼくのすべてを覚えていた

火葬の日は雲一つない青空だった。
葬儀場にはぼくの写真がたくさん飾られた。

葬儀が終わり、ママは骨つぼに入ったぼくを抱きながら、「生後1か月のとき、初めてかんちゃんを抱いた時の体重とおんなじだ」と言った。

周りの人は、子どもを亡くしたママが、少しおかしくなってしまったのかもしれないと心配した。

だけど、骨つぼとぼくの重さを量ってみたら1165グラムで、生後1か月のぼくの体重は1162グラム。

ママの手はぼくのすべてを覚えていた。

友達

それからママは悲しくなってずっと家で泣いたり叫んだりしていた。

ぼくのもとにいきたいとも考えていた。

ある日、インターネットで「子どもを亡くしたママ」と検索してみた。そうしたら、子どもを亡くした気持ちや経験を書いたブログやSNSをたくさん見つけた。
「私もそうでした」
「起き上がれないでいます」
SNSを通じてママも思いを伝え合った。

ママは思い切って新宿のホテルのレストランで実際に会ってみることにした。

4人のママが集まった。
「子どものこんなところがかわいかった」
「こんなしぐさが、笑顔が忘れられない」
「お空できょうは何をしているのか?」
話は尽きなかった。

ママは我慢することなく思い切り泣けた。

ぼくとお別れしてから初めて笑うこともできた。なくてはならない友達もできた。

きくちゃんのママの場合

流産や死産などで亡くなった子どもが身につける、市販品よりも小さなベビー服や帽子などを作る活動がある。

ママはきくちゃんのママとその活動で知り合った。
まだきくちゃんを亡くしたばかりで寂しげな様子だったので、ぼくのママが話しかけたのがきっかけだ。

きくちゃんはおなかの中で家族とお別れをした女の子だ。

異変

きくちゃんのママは出産予定日をすぎても、あまり胎動を感じないことが心配になって産婦人科を2度受診した。

心音を確認しては、ほっとして自宅に帰り、そっとおなかをさする日々。

予定日から4日を過ぎた日の朝、おなかに「ドーン」と強い痛みが走った。きくちゃんのママは「娘はきっと大丈夫」と信じて病院に行った。

そのまま入院し出産になると思っていた。

泣いていたパパ

だからきくちゃんのパパには、出産に合わせて病院に来てほしいと伝えていた。

だけど、病院に着いて心拍を確認する装置をおなかにつけたら、きくちゃんの心臓はもう動いていなかった。

きくちゃんのママは泣き声が外に聞こえないように公衆電話ボックスに駆け込んだ。
そしてパパの会社に電話した。

「きくちゃん、心臓動いてなかった。ごめんね」

それしか言えなかった。
家に帰って部屋に入ると、きくちゃんのパパはバスタオルに顔をうずめて、泣いていた。

亡き子の出産

翌日、亡くなったきくちゃんを出産することになる。

きくちゃんのママは早朝に分べん室に入った。陣痛促進剤を使って出産を促す。痛くて痛くて、歯を食いしばって我慢した。

その様子を見た病院の人に「無痛(分べん)にしませんか?」と途中、何度か言われた。

だけど、きくちゃんに向き合えるような気がして、ギリギリまで痛みを我慢し、直前だけ無痛分べんにして産んだ。

「亡くなっているのに、ちゃんと回転して出てきたんだよ」

先生がそう言った。
きくちゃんのママは「おなかの中でずっとずっと、最後の最後までがんばってくれたんだ」と思った。

愛しさ

きくちゃんはママとパパと病院で2日、自宅で1日過ごすことになった。

きくちゃんは、ベットの中で動かず、目を閉じたままだ。

ただママとパパには、悲しみだけではない時間が確かにあった。

新調したカメラで3人の写真をたくさん撮った。

きくちゃんは、今にも笑いそうな、声をあげそうな、穏やかな表情をしていた。

きくちゃんは夜になると準備していたベビー布団に入り、1日だけ親子3人で川の字で寝た。

「自分の子ってこんなに愛しいんだな」

きくちゃんの顔を見た2人はそう感じていた。

私じゃなかったら

翌朝、火葬場に行き、きくちゃんは家族とお別れをした。

きくちゃんのママは、いろいろなことを考えるようになった。
妊娠中、おなかの中のきくちゃんに病気があることがわかってから、ママは出産後の生活に強い不安を感じていた。

「頼りないお母さんだから、生まれてこない選択をしたのかな?」

「お母さんが私でなかったら生まれてこれたんじゃないか?」

自分を責めてばかりだったのが、ぼくのママたちと知り合って少し変わってきた。

「空に旅立った子どもに、しっかり生きている姿を見てほしい」という話を聞いて、「そういう生き方があるのか」と思うようになった。

天使の日

ぼくのように少ししか生きられなかった子ども、きくちゃんのようにおなかの中でお別れをした子ども。

そんな子どものママたちが集まって、10月4日を「天使の日」と決めた。

“天国に逝った子どもたちの日”

そんな日のことだ。

毎年その日はみんなが集まって、空にいるぼくたちに向かって風船を放つようになった。
でもいまは新型コロナのせいで、集まることができない。

だから、それぞれのおうちやお気に入りの場所で空にシャボン玉を飛ばすことになった。

去年の10月4日、10時4分。
きくちゃんのママは、芝生の緑がきれいな公園でシャボン玉を飛ばした。
「きくちゃんがいたからいろんな人と出会い、いろんな思いを知ることができた。きくちゃんが運んでくれたものがたくさんある」

そう思っている。
ぼくのママは、海のそばで空にいるぼくに向かってシャボン玉を飛ばした。

ママは1時間以上飛ばしていた。
ママたちは、ぼくたちを決して忘れない。

そして…。

みんなみんな(お医者さん、葬儀屋のおじさん、ぼくたちに会いに来てくれた人…)ありがとう。

ぼくたちに関わったみんながママを(もちろんパパも)支えてくれた。

ママたちはみんなのことも忘れない。