ゼロ戦 “最期”の痕跡を探す

ゼロ戦 “最期”の痕跡を探す
旧日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」。太平洋戦争では日本の航空戦力の主力とされた。戦時中、千葉県にあった航空基地からは首都圏防衛のため多くのゼロ戦が出撃し、多くのパイロットが戦死したが、最後にどこに墜落したのかはほとんど分かっていない。戦後75年余り、その場所を特定するためにゼロ戦の痕跡を探し続ける男がいる。活動に密着し、執念が実を結ぶその瞬間に立ち会った。
(千葉局記者 尾垣和幸)

「誰かが探さなければいけない」

「自分の町に、もしね、戦闘機が落っこちているのであれば、誰かが探さなければいけない」
幸治昌秀さん、77歳。終戦間際、ふるさとの千葉県に多くのゼロ戦が墜落したことを知り、10年前からその残骸を探し続けている。
幸治さん
「このことは、ずっと伝えていかなくちゃいけないし、どんな方が亡くなられたのか、そういう話も残していきたい」

最期の場所 ほとんど分からず

終戦当時、房総半島には、ゼロ戦の拠点となる茂原航空基地があった。本土空襲のために飛来する、アメリカ軍やイギリス軍の航空機を迎え撃つためだ。
基地からは多くのパイロットが出撃し、墜落して戦死したとされるが、基地に関する資料で残っているものはわずかで、どこで最期を迎えたのか、その場所はほとんど分かっていない。

幸治さんは、ゼロ戦が迎撃のために飛行した基地以南の地域に絞り、何度も現場に出向いて調査を重ねてきた。
とにかく足で稼ぐ、それが信条だという。当時を知る人たちから目撃証言を集め、墜落した可能性が高いと思われる場所で金属探知機を使い、ゼロ戦の部品が出てこないか探す。
こうした丹念な作業の積み重ねで、これまで戦闘機が墜落したとみられる8か所を特定。しかし、このうち2か所については、戦死したパイロットの名前が分からずにいた。

遺族の思いに突き動かされ

幸治さんには、特に思い入れがあるパイロットがいる。
杉山光平さん。ゼロ戦で出撃し20歳で戦死。しかし、どこでどのように亡くなったのか、詳細は分かっていない。
弟の杉山栄作さん、91歳。兄の戦死した場所を探してほしいと、幸治さんに依頼したのは、今から6年前。
私(記者)が幸治さんと知り合った去年の夏も、幸治さんは杉山さんの兄の捜索活動を続けていた。

直後、地元静岡から杉山さんが幸治さんを訪ねてくることになり、同席させてもらうことになった。杉山さんは、遺品も遺骨も返ってこない中、せめて兄の最期の場所を見つけ、手を合わせたいという。
唯一の手がかりは、戦後、国から家族のもとに届いた、戦死調査報告書。
「昭和20年8月15日、千葉県にて、米機と交戦戦死」細かな地名はない。終戦のまさにその日に千葉で死亡したことだけは分かる。

兄弟の両親は、静岡から何度もこの地を訪れ、兄の最期の場所がどこか探し回っていたという。
杉山さん
「哀れなもんだ。おやじが本当にこれで寿命を縮めたぐらい探し回った。なにがなんでも死んだ場所を見つけてやりたいとは言っていたけど、残念がって死んでいったよ」
幸治さんは長さ数センチほどの金属片を見せた。さまざまな資料や証言から絞り込んだ、千葉県大多喜町の水田から見つけたものだ。
当時航空基地があった場所から南におよそ15キロの場所。可能性は高い。そしてゼロ戦の部品に間違いない。
光平さんが乗っていたゼロ戦は、まさにここで墜落した可能性が高いのではないか。
杉山さん
「兄が亡くなった場所が分かったら、線香をあげて、短時間でもいいから座って話をしたいですよ。一番私の面倒をみてくれた…」
一方で、幸治さんは複雑な思いでいた。
国内で戦闘機の部品が見つかることはめったにない。金属片もやっとの思いで見つけたものだ。しかし、亡くなったパイロットの特定につながる証拠が得られるのか、自信が持てなかったからだ。

なんとか遺族の思いに応えたい、その思いに突き動かされて、ここまでやってきたが、どこまでたどり着けるのか。

相次ぐ 思わぬ発見

こうした中、去年12月、同じ千葉県の木更津沖で、驚く物が発見された。
航空機の車輪や脚のような形をした金属製の部品。太刀魚の漁をしていた漁船の底引き網にかかり、引きあげられた。
実物を見た専門家は、機体の特徴などから、戦時中のアメリカ軍の爆撃機「B-29」の部品の可能性が高いと鑑定した。
戦前の航空機に詳しい 中村泰三さん
「完全に形が合致し、間違いない。戦時中、千葉県の空では日米双方の激しい戦闘が繰り広げられ、今でもたくさんの航空機の部品が眠っている可能性がある」
この地で75年以上前、確実に戦いが行われ、多くの命が失われた事実が、改めてあぶり出された。

1歩ずつ核心に近づく

そして、幸治さんにも奇跡のような発見が続いた。
幸治さんの活動に魅せられ、私も一緒になって住民に聞き取りを行っていたときのこと。ある男性に声をかけられた。
男性
「私のおじいさんが、まめに日記を細かく書いていて、終戦の日のことも書いてあります」
男性の祖父が残したという日記には、終戦の日、近くの水田にゼロ戦が墜落し、乗組員を乗せたまま機体が炎上したことに加えて、墜落した地点の住所が克明に記されていた。そして、それは幸治さんが金属片を発見した場所とぴったり一致したのだ。

また、新たに有力な目撃証言も出てきた。近くに住む87歳の女性は、国民学校6年生だった終戦の日、戦闘機が墜落してくるのを目撃したという。
女性
「見てしまったんですよ。そこの山の向こうから飛行機が低空飛行してきて。近所の水田に落っこちて」
その場所もまた、幸治さんが金属片を見つけた水田と一致していた。

確実に、1歩ずつ核心に近づいている、はずだ。

“一大プロジェクト”開始 しかし…

ある日、幸治さんから私に突然電話がかかってきた。
幸治さん
「やはりね、わびしいんだ、このままでは。最後までやってあげないと。やるべきことは、やりきらないとね」
なんと、金属片が見つかった場所を、土地の所有者の協力を得て、ショベルカーを使って掘り起こすことにしたというのだ。

そして、ことし1月22日午後1時、いよいよ一帯の水田の掘り起こし作業が始まった。

幸治さんの準備は完璧だった。土木作業のプロを呼び、土を掘り起こした跡がないか、微妙な地質の変化を探す。戦争当時、墜落した機体は、そのまま住民によって埋められた例もあるためだ。
「ここのところがねえ、層が違うんですよ」
「じゃあ、だいたいこのあたりから。このあたりに一度穴を埋めたような跡が見えるな」

しかし、何も見つからない。
「あっちのほうで、戦後たくさん金属片が見つかったらしい」
地元の人の助言を参考に捜索範囲を広げるが、全く何も見つからない。
幸治さん
「出ない場合のことを考えると、もう夜寝られないような状況になるわけだね。それに近い気持ちだな。それに近い」
一緒にゼロ戦の探索を続けてきた学芸員の仲間にも落胆の表情が見える。
調査にあたる仲間
「悲しくなってきた。兄の亡くなった場所を探し続ける杉山さんのことを思うと。だって、杉山さんはこのままじゃ戦争に終止符を打てないよ。俺、涙が出るな」

「これは機関銃だ」

午後4時。作業開始から3時間が経過した。
もう出ない。捜索を打ち切るかどうか、休憩をはさんで話し合っているときだ。

「出ましたよ、金属片!」調査仲間の男性が倒れんばかりの勢いで幸治さんのもとに走ってくる。手には細長く銀色に輝く物体がある。「掘り起こした土の中に。太陽の光で輝いていて」

その金属片を見た幸治さんはすぐにつぶやいた。
幸治さん
「焼けているな。飛行機の部品で間違いない」
薬きょうや銃弾のように見える金属片が、同じ土の中から次々と見つかり始めたのだ。
さらにその周辺を掘り進めると、円形の物体が地表に姿を現した。
ワイヤーで引っ張り上げると、泥にまみれた、細長い金属の棒のような物体が出てきた。
みんなが口々に声をあげた。

「これは機関銃だ」
その場所は、幸治さんがおととし金属片を見つけた場所とほぼ一致していた。見立ては間違っていなかったのだ。

“76年前の姿”そのままに

見つかった金属の棒の土を洗い流すと、その姿が徐々に見えてきた。
青光りした銃身、暗い緑色の塗装もそのまま。泥に包まれていて酸素に触れなかったために、さびることなく残されていたのではないかという。
さらに調べてみると、銃身とみられる場所には弾のようなものも残されていた。
専門家が鑑定したところ、記されていた刻印から、昭和20年3月以降製造されたゼロ戦に搭載された機関銃の可能性が高いことが分かった。

さらには、同じ場所からゼロ戦のものとみられるエンジンも見つかった。
相次ぐ発見に集まった人たちが興奮する中、幸治さんは優しい表情で、機関銃を前につぶやいた。
幸治さん
「時間が止まっているという感じだね。弾が残っているということは、まだまだ戦おうとしていたということ。やはり『頑張ったね』と、そういう感じでしょうね」
ゼロ戦自体を探すのが本当の目的ではない。捜索を続けてきたのは「どこでどのように、大切な家族が亡くなったのか知りたい」その思いに応えたいという執念だけ。

幸治さんが何よりも思いをはせたのは、まぎれもなくその日に、終戦を迎えることを知らずに意を決して飛び立ち、散っていった、若者の最期の瞬間だった。

「調査は始まったばかり」

その日の夜、兄の亡くなった場所を探してほしいと託されていた杉山栄作さんに、早速報告した。
幸治さん「今日ユンボで掘りました。そうしたら、いろいろな部品が出てきました」

杉山さん「たくさん出てきたなぁ。はぁ、これは大きいなあ」
画面に映されたゼロ戦のものとみられる部品の数々に、真剣に見入る。
幸治さん「ただ、まだこれは光平さんのものかは分かりません」

杉山さん「ゼロ戦のものが出てきただけでも、大変うれしく思います。ありがたい、兄貴もうかばれる」
このゼロ戦に光平さんが乗っていたのかどうか、名前が記されたものや遺骨が見つからないと、特定は難しいという。
調査にあとどれぐらいかかるかは分からない。しかし、幸治さんはその手がかりを探し続けるつもりだ。
幸治さん
「これはとことんまでやらなくちゃいけないね。調査が終わったような気がしていたけど、どうやら始まったばかりのようだな」

終わっていない戦争~取材を通じて~

私が幸治さんに出会ったのは去年夏。そのときも取材の最中に貴重な証言が得られるなど、私も調査に加わったような気持ちで取材を続けてきた。しかし半年後に、このような貴重な瞬間に立ち会えるとは、まさか思ってもみなかった。

調査した学芸員の久野一郎さんによると、機関銃が見つかった周りの地層には、掘り出されたり埋められたりしたような形跡がなく、機関銃は墜落時に垂直に突っ込んだまま残されていたのではないかという。

その後の取材で出会った70歳の地元の男性は、生前、母親が語っていた次のような証言を覚えていた。
「日本の戦闘機が低空できたかと思うと、ぐーんと上に上がって、その後ぐるぐる回りながら、田んぼに真っ逆さまに突っ込んだって」
のどかな田園風景に、当時の光景がまざまざとよみがえるような気持ちになった。
私はことし40歳。学生の頃、祖父のように慕っていた男性から、生還が望めない「特攻兵器」に乗って出撃した、生々しい話を聴かされた。しかし、こうした戦争の体験を語ってくれる人たちも少なくなってきている。

発見された機関銃やエンジンは、戦争の過酷さを伝えてくれている。私たちは、それを受け止め、また次の世代に伝えていかなくてはいけない。なぜなら、遺族にとっては、76年がたっても、まだあの戦争は終わっていないのだから。
千葉局 記者
尾垣 和幸
新聞記者を経て、2017年入局 千葉市政などを担当し災害や教育を取材
戦争に関する取材は記者になった当初から続けている