男の子は9歳から介護を始めた ~「幼き介護」の現実~

男の子は9歳から介護を始めた ~「幼き介護」の現実~
その男の子が、祖母の介護を始めたのは9歳のころからです。祖母が亡くなったあと、母親の介護が続きました。大好きな家族に元気になってほしい、その一心で、つらいと思ったことはないといいます。でも、母親が亡くなり介護が終わった時、男の子は38歳になっていました。
「外の世界とのつながりがほしかった」
大人になった彼が、漏らしたことばです。
(さいたま放送局記者 大西咲)

「ミキサー食」を食べる彼

カズヤさん(仮名・42歳)は、ワンルームの部屋で、母親の遺骨が入った骨つぼと遺影を前に、食事をとっていました。

食事は、パンや野菜ジュースなどをミキサーにかけ、ペースト状にした「ミキサー食」を6年ほど食べているといいます。
カズヤさん
「こんなものでも、お母さんも『おいしい』って言ってくれたから、うれしかったです」
幼いころから介護をしてきたカズヤさんは、母親のために食事を作り、料理の手間を減らそうと母親と同じものを食べてきました。

寝たきりになった母親が「ミキサー食」を食べるようになると、カズヤさんも同じように食べるようになりました。
こうした生活が長かったからか、今では「普通」の食事が食べられなくなりました。

始まった介護

カズヤさんは3歳の時、交通事故で父親を失いました。

その時から、母親と祖母とカズヤさんの3人暮らしになりました。
家計も少しの貯金と祖母の年金が頼りとなりました。
まもなくして、もともと心臓の悪かった母親は体調を崩しがちになり、家の外に出ることもほとんどありませんでした。
また、高齢になった祖母は、カズヤさんが小学3年生になったころから介護が必要になりました。

腰を痛め歩けなくなり、母親に代わってカズヤさんがひとりで、病院に薬をもらいに行くようになりました。

祖母は自分でトイレまで行くことができなかったので、カズヤさんが手をつないで一緒に行きました。立ち上がってトイレに行き、部屋に戻ってくるまで30分ほどかかることもありました。

祖母のトイレの介助が、カズヤさんの日課になりました。

もっと頑張らなきゃ

このころ、母親は体調がいい時には料理を作ってくれました。

でも外出はできなかったため、毎日の買い物や洗濯はカズヤさんの担当でした。
日用品も合わせて買うため、まだ小さかったカズヤさんにとって、買い物袋はとても重かったといいます。

でもカズヤさんにとっては、こうした日常が「当たり前」でした。

大好きな家族に早く元気になってほしい。
その思いから、トイレの介助や買い物を必死に頑張りました。

ただ、子どもを連れて歩く家族を見かけると「自分もお母さんとおばあちゃんとお出かけしたいな」と思ったそうです。

だから、カズヤさんは「自分がもっと頑張らなきゃ」と思いました。
カズヤさんの生活は、母親と祖母のことが中心になっていきました。

そのせいか、中学生になると頻繁に体調を崩すようになり、学校を休みがちになりました。

介護中心の生活

高校進学の際、カズヤさんが選んだのは定時制の学校です。
夕方から始まる授業の時間以外は、できるだけ、母親と祖母のために時間を割こうと思いました。

そのころ、母親は頻繁に倒れるようになりました。
病院で検査を受けると、更年期が原因のめまいだと診断されたといいます。

母親は立ち上がることすらできなくなり、トイレの際は、カズヤさんが祖母と同じように手をつないで、介助しなければなりませんでした。

母親の体調が悪化したため、カズヤさんの生活は、これまで以上に介護が中心になっていきます。

日中は、食事の準備や買い物。洗濯や掃除もしました。

夕方から高校に行き、夜、帰宅したあとは、トイレの介助をしたり、2人の体を拭いたりしました。
高校時代は、気付くといつも日付は変わっていて、朝食の準備を済ませたあと、明け方に、母親と祖母の隣で布団に入るという生活でした。

「遊びたい」「誰かとつながりたい」

そう思うこともありました。でも“本当の気持ち”は誰にも打ち明けられませんでした。

とにかく、目の前のこと、その日のことだけを考えて、毎日を過ごすしかなかったといいます。

戻りたかった、でもできなかった

そんなカズヤさんにも、心から「楽しい」と思えた時期がありました。

それは、高校を卒業したあと、少しでも家計のためになればと始めたアルバイトです。

このころ、自宅で療養していた祖母のために、初めて訪問看護師やヘルパーが家に来るようになり、数時間だけでしたが、カズヤさんが自由に使える時間を持てるようになりました。

好きな本に触れていたい、そう思って選んだのは近所の本屋でした。
週に2回、1日3時間ほど、棚に本を並べたり、会計の際に客とことばを交わしたり。

アルバイト先では友だちも、好きな女の子もできました。
本を話題に会話がはずんで笑い合ったこともあります。

そんな何気ない会話、時間が、とても新鮮で、幸せでした。

しかし、アルバイトを始めて6年ほどがたったころ、母親が足の骨を折って寝たきりになりました。

カズヤさんが付きっきりで介護をしなければなりませんでした。
アルバイトは辞めざるを得なくなりました。

また、家族以外とは誰ともつながれない生活に戻りました。
カズヤさん
「唯一の、外とのつながりでした。だから本当は辞めたくありませんでした。戻りたいと思いました。でも、できませんでした」

2人だけで生きる世界

母親が寝たきりになってまもなく、祖母は亡くなりました。

当時28歳になっていたカズヤさんは、それからおよそ10年の間、ほとんどの時間を母親と2人きりで過ごしました。
寝たきりで床ずれができるようになった母親。

ヘルパーにお願いしようとしましたが、カズヤさん以外に体を触られるのを嫌がりました。

このため、カズヤさんが母親の背中をきれいに洗い、薬を塗りました。
また、体が硬直してしまい、うまく排せつができなかったため、たびたびシーツが汚れました。

シーツを洗っては排せつ物の片づけをする、その繰り返しでした。

カズヤさんは、時間さえあれば母親の体をさすりました。

少しでも楽になってほしい、そう思い、母親のそばに座り続けました。

母親のベッドの隣、いつの間にか、そこがカズヤさんの居場所になっていました。

母親のそばを離れられないので、働きにも出られず家計もひっ迫していきました。

親族などからの支援を受けて、やりくりしていたといいます。

長く続いた介護のあとに

4年前の3月、母親は67歳で亡くなりました。
同時に、およそ30年続いた介護生活も終わりました。

その時、カズヤさんは38歳になっていました。

気付くと、友だちも彼女もいませんでした。

仕事も家庭も、何よりも社会との「つながり」がありませんでした。

だから今、カズヤさんは「人並みの幸せ」を感じたいと話しました。
カズヤさん
「仕事して、結婚して、子どもができて。それが大きな夢というか、それしか考えてないですかね。半分諦めているんですけど、お父さんとお母さんが僕を生んでくれたみたいに、僕もそうなっていきたいと思っています」

支援の手が差し伸べられるように

カズヤさんのように、幼いころから家族の介護やケアを担っている子どもたちは「ヤングケアラー」と呼ばれ、ようやく、支援すべき対象と認知されはじめています。

埼玉県が支援に動き出し、国も全国的な調査を実施しています。
カズヤさんは、家族の「世話」をするのは自分の役目で、子どものころから介護やケアをするのは普通のことだと思っていました。

誰かに相談して助けを求めようと考えたことすらなかったといいます。
だからこそ、今、カズヤさんは「周囲の人や行政の人たちから、ちょっとした声かけのような『優しさ』があったら、ずいぶん救われると思います」と話し、今もどこかで孤独に頑張っている「ヤングケアラー」に手を差し伸べてほしいと願っています。

カズヤさんは、去年10月、スーパーでパートを始めました。

働くのは本屋のアルバイト以来で、ゆくゆくは正社員になりたいと話しています。

カズヤさんは、前に進んでいくことを決めました。

彼の人生が、少しでも幸せになってほしい。

心からそう願っています。
さいたま放送局記者
大西咲
平成26年入局
熊本局、福岡局を経て去年夏から現所属。
介護福祉分野を6年取材。