「ヒロシマの子」森瀧春子 核兵器廃絶 若者たちへのメッセージ

「ヒロシマの子」森瀧春子 核兵器廃絶 若者たちへのメッセージ
1月22日、核兵器の使用や保有、威嚇などを禁じる核兵器禁止条約が発効しました。その原動力となった世界の市民やNGOの連帯に、大きく貢献した被爆地の女性がいます。
「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表・森瀧春子さん(82)。50代から、がんとの闘病を続けながら、世界各地の核実験の“ヒバクシャ”などと連携し、「核と人類は共存できない」と訴えてきました。今、病状が悪化し療養中の森瀧さんが、未来に託すメッセージとは。(政経国際番組部チーフプロデューサー 横井秀信/広島放送局ディレクター 大小田紗和子)

核兵器禁止条約 その意義は

今回の発効について、率直な思いを尋ねると、人々のつながりによる成果だと語りました。
森瀧春子さん
「確信を持って運動しながらも、それでも大変な問題を、国際社会を動かしていく事ができるのかという気持ちが反面あったから。1人ずつの人間の善意とか志とかそういうものがお互いにつながったときに実を結ぶんだなと。気持ちが前向きになるような、うれしい気持ちです」
条約には、核保有国や、日本のように核抑止力に依存する国が参加していないため、「実効性に乏しい」という批判が絶えません。

しかし森瀧さんは、122もの国と地域が署名し、51の国と地域が(2021年1月21日時点)批准した意味は大きいと、力を込めました。
「ただの楽観論ではなくて、今までクラスター爆弾とか地雷とか、化学兵器とか、非人道的な兵器の禁止法(禁止条約)ができていますよね。それには主要な保有国は入っていない。だけど、クラスター爆弾の禁止条約ができて、後に公然と使った国はないわけですから。全く世論を無視してそういう事を強行するという事は、国としての存立基盤を失う事に、信用を含めてなるんじゃないでしょうか。核保有国は非常に強い力を持っている国だが、(批准する国が増えると)やっぱり追い込まれていくと思う」

原爆を体験した父の思い

森瀧さんの父親は、被爆者団体を率いた故・森瀧市郎さんです。
戦後、放射線による病気と貧困に直面した被爆者への支援を訴えるとともに、核兵器廃絶運動の先頭に立ちました。

市郎さんは、原爆の爆風でガラスが右目に突き刺さり失明。

町をさまよう中で、道端に連なる名も知れぬ無数の遺体、溶けた皮膚をさらして助けを求める人々の姿を左目に刻む事になりました。被爆から10年後、活動の一歩を踏み出す時、日記にこう記しています。
「わがうしろには三十万近い広島の犠牲者の声なき声がある」
当時は、実際に原水爆を爆発させる実験がたびたび行われ、新たなヒバクシャが生み出されるとともに環境汚染も広がっていました。市郎さんは勤めていた広島大学に辞表を出し、慰霊碑の前で抗議の座り込みを始めました。

その後、座り込みは500回を超えました。

「ヒロシマの子」の負い目

森瀧さんは、原爆が投下された時は、母親や姉弟とともに広島市外に疎開していて、被爆を免れました。

その3年後、再び市内で暮らすようになった森瀧さんは、川で泳いでいた時に頭の骨を見つけました。とても小さく、原爆で亡くなった赤ん坊の骨のようでした。
森瀧さんは「かわいそうだと思って」拾い上げました。
「お骨を父の所まで持って行ったら、父は物も言わずに捧げ持つようにしてたんです。しばらくしたら泣き出したんですよ。背中を震わせて。原爆の時の、いろんな事がよみがえったんじゃないんでしょうか。私も一緒になって泣いたんですよ。全部は想像できないとしても、広島で育つ、暮らすという事は、日常的にこうした事に触れるという事。自分なりに向き合って、どう捉えるか、どういう事なのか、子どもながらに考えました」
親と離ればなれのまま、冷たい川底に残されていた赤ん坊の遺骨。

森瀧さんは、無事に生きている事が「負い目」のように感じられたと言います。
「私と同年代の人たち(子ども)が、たくさん犠牲になっているんですよ。どうしても私が許せない事だと思うのは、無差別にあれだけ多くの人を一瞬で、自分が殺される理由も何も、考える時間もなく殺されていくわけじゃないですか。そういう人たちは、自分たちがいかに怒っても、ものを言いたくても言えない。私は広島の子、やはりそれを背負って生きていく義務が自分にはあると」
森瀧さんは、父・市郎さんが亡くなったあと、仕事を辞め平和運動に携わるようになりました。

同じ頃にがんが見つかり、「残りの時間をどう生きるか」を考えたと言います。

インドで目の当たりにした“核の現場”

1998年、国境線をめぐって対立するインドとパキスタンが相次いで核実験を行い、世界を震撼させました。

森瀧さんは両国を訪ね、核兵器の被害を市民に伝える活動を始めました。

その中で出会った子どもたちが、活動への思いを揺るぎないものにしていきます。
核兵器の原料ともなるウランを採掘する鉱山の周辺で、先天的な障害やがんに苦しむ先住民の子どもたちでした。

その姿を目の当たりにした森瀧さんは言葉を失い、涙を流しました。

そして「ものを言いたくても言えない」人たちの声を、訴えていかなければならないと感じたと言います。
「水頭症、目が片方しかない、指が多指。想像を絶するひどさがあって、私自身ぼう然となるし、どうしたらいいんだろうと。現実をちゃんと見て、伝えなければならないと。そういう気持ちのくり返しでした。どうしても弱い立場、見捨てられた立場の人たちが被害者になりやすい。そういった人たちを代弁して、その立場に立って、問題を明らかにし、科学的な調査をして、それを世間に認めさせていく」
森瀧さんは、科学者の協力を得ながら、放射能汚染の実態を調査しました。
2003年のイラク戦争の後には、混乱が続く現地に入りました。

核兵器などを製造する時に出る残滓(ざんし)「劣化ウラン」を使った砲弾が使われたからです。

ここでも、生まれてくる子どもたちの異常や白血病が広がっているという声が、市民の間から上がっていました。

森瀧さんは、子どもの体内に劣化ウランが取り込まれている事実などを明らかにし、告発してきました。

世界の“ヒバクシャ”をつなげる

そして2015年、広島で「核被害者フォーラム」を開催します。

広島・長崎の被爆者、核実験のヒバクシャ、チェルノブイリや福島で被ばくした人々、ウラン鉱山や劣化ウランで被ばくした人などが集まり、何人(なんびと)も望まない放射線被ばくを受けない権利を有すると訴えました。

今回の条約を成立させた原動力となり、ノーベル平和賞を受賞した国際NGOのICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のメンバーも、このフォーラムに参加しました。

創設メンバーの一人、ティルマン・ラフさんです。
ティルマン・ラフさん
「このフォーラムで国際的な活動には不可欠な団結力が生まれました。世界各地のヒバクシャ同士の連帯が生まれ、また、ICANも核廃絶に取り組む人たちとの繋がりができたのです。森瀧さんは、自ら注目を浴びようとはしませんが、その貢献は本当に、本当に大きなものでした。多様な国々の人々をまとめ、世界中がつながり、連帯する上で大きな役割を果たしたのです」

条約に結実した“ヒバクシャ”の連帯

森瀧さんが進めた世界各国のヒバクシャの連帯は、核兵器禁止条約にも実を結んでいます。
条約は、前文の中で「核兵器使用による被害者(被爆者)」のみならず、「核実験により影響を受けた者」「先住民にもたらす均衡を失した影響」に言及。

締約国に、核兵器の被害者への支援や、汚染された地域の環境回復を義務づけたのです。

一方、ヒバクシャの願いと苦しみを最も知っているはずの日本は、この条約に署名していません。

条約に核保有国が参加しておらず、非保有国との対立をいっそう深めることにもなりかねないなどとして反対し、各国が集まった交渉にも参加しませんでした。
森瀧春子さん
「(日本政府は)核保有国と非核保有国の溝があるから、自分たちは“橋渡し”になると言うわけですね。だけど、実際に“核を使うぞ”という威嚇、核抑止力に頼った安全保障政策をとっているわけだから。“橋渡し”なら中立の立場でしかなれないはずですが、片方に足を入れてそういう事を言っている。やはり、今の国のありようを見る時に、非常に忸怩(じくじ)たる思いがする」

病床から声を振り絞る

いま森瀧さんは、がんの症状が悪化し、起き上がる事も辛い状態が続いています。

その中でもオンラインでの会議や講演を通じて、発信を続けています。
「本質的に核の問題を終わらせていかなければならない。それは、本当に闘いの連続なんです。世界から置き去りにされた人たちが犠牲になっていくわけですから。そういう事との闘いというのは、真実と向き合う覚悟というのを持ち続けなければならない。それには努力がいると思っているんですよね」
発効が決まった日、原爆ドームの前では「NO NUKES FUTURE!」の文字が、1200個のキャンドルによって浮かび上がりました。

森瀧さんは、「こういう場に参加できるのも最後だと思う」と、ドームに足を運びました。

そこで語ったのは、原爆の犠牲者と、未来を担う人々への思いでした。
「このひとつずつの炎を見ながら思い出すのは、亡くなった人々の魂がここに、炎になって帰って来て私たちを見守って下さっているのではないかと思いました。全ての核のない未来を築く。そのために核兵器禁止条約を私たちの最大の手段として今後活かしていく。それを担って下さる若い人たちの命の輝きではないかと思います」
かつて、作家の大江健三郎さんは、森瀧さんの父、市郎さんを「真に広島的な人間」とつづりました。

大江さんが見いだした「広島の悲惨のうちに芽生えた、強靭なヒューマニズム」は、病身を押して言葉を絞り出す春子さんにも宿っているようでした。

その「ヒューマニズム」の炎を、私たちはしっかりと受け取らなければならないと思います。

※引用:大江健三郎著『ヒロシマ・ノート』岩波書店
政経国際番組部チーフプロデューサー
横井秀信
平成11年から森瀧春子さんを取材。
広島放送局ディレクター
大小田紗和子
銀行員を経て平成29年に入局。
広島局で原爆に関する番組などを制作。