私は規則を破ることにした~ 天安門秘録

私は規則を破ることにした~ 天安門秘録
「命を救うため、私はルールを破った」

その話を彼から聞いたのは、記者になって4年半が過ぎたころ、仙台でのことだった。誰よりも空の安全を守ってきたはずの男の告白。ただ「本当は墓場まで持って行くつもりだった」という話を、私はどう扱っていいか分からず、書くことができなかった。

それから11年余り。外務省担当の記者になった私は、「極秘」の指定が解けて公開された「天安門事件」に関する外交文書を見て、驚いた。

これはあの時、彼から聞いた話ではないのか…。

私は意を決して、すでに引退していた彼に、会いに行くことにした。
(渡辺信)

その人は、空を守る

その人の名を、赤木徹也さんという。

初めて出会ったのは、2008年11月1日。北海道を拠点にする航空会社エア・ドゥが、新千歳空港と仙台空港を結ぶ路線を開設した際の記念式典の取材だった。
彼はエア・ドゥの仙台空港所長として、赴任したばかりだった。
「うちの飛行機が、かっこよく見えるように頼むよ」
向こうからそう声をかけてきたことを、今でも覚えている。
全日空から転職したという彼は、初対面の私にもフレンドリーに接してくれた。

私は彼の人柄にひかれた。飛行機好きということもあって、意気投合するのに時間はかからなかった。

その後、私が彼を何度も何度も取材することになるとは、この時には予感さえしていなかった。
ここから少々遠回りになるが、なぜ私がそれほどまでに彼から話を聞きたいと思ったのか。彼がどんな人物で、何をしてきたのか。天安門事件の話をする前に、まずは紹介させてもらいたい。

海の底より、空の果てを

終戦の翌年、1946年生まれの赤木さん。
大学受験に失敗し、浪人生活を送っていた時、自衛隊に勧誘され、入隊した。

潜水艦乗りか管制官か、どちらかを選べと言われ、
「海の底よりは空を見ていたい」
と管制官を選んだ。

管制官の仕事は、緊張を強いられたものの、楽しかったという。
しかし当時、管制官の1日の勤務時間は、わずか4時間だった。残りの20時間を持て余している自分に気づいた彼は自衛隊を辞め、1969年に全日空に入社。乗客の人数や貨物の量、それに搭載した燃料の重さなどを計算し、飛行計画を作成する運航管理者になった。

飛行ルート上の天候も調べ、出発前のパイロットたちに説明する。それが彼の日常になった。そして定年退職後、エア・ドゥに再就職した。
彼は仙台空港に乗り入れるほかの航空会社の社員など、社の枠を越えて空港関係者に人気があった。彼を囲む飲み会は、いつも笑いが絶えなかった。

「墓場まで持って行く話」

2009年6月11日。仙台空港に近い川沿いの小さな居酒屋で、私は彼とビールのジョッキを傾けていた。

梅雨時の湿気の多い風が、店の奥まで流れ込んでいた。エアコンをまだつけていない店内は、なまあたたかくて自然とビールが進んだ。そのせいなのか、彼はふだんより酔っているように見えた。

「本当は墓場まで持っていかなければならない話だが」

そう、彼は切り出した。

「天安門事件のことは知っているよな」

1989年に中国で起きた天安門事件。この時からちょうど20年前で、当時私は14歳だったが、もちろん覚えていた。
彼はその時、北京にいたという。全日空の運航管理者として、在留邦人を日本に避難させる臨時便の運航を担当していた。

「僕らは『エバキュエイト便(脱出便)』と呼んでいたんだけど、臨時便の運航を担当していたんだ。その時、大げさかもしれないけど、1人でも多くの人の命を救うため、厳密に扱うべき運航規程を破ったんだ」

その告白に、私はショックを受けた。飛行機の運航に関わるルールを破るという行為は、あってはならないことだ。しかも運航管理者その人が…。だからこそ「墓場まで持って行く」つもりだったんだろう。もう、酒の味がしなかった。

記者として、聞いてしまったことは書かなければならないのではないか。しかし「それを書かせてくれ」と言って、彼は納得してくれるだろうか。あとで「酒の上での冗談」と言われて、終わるかもしれない。そもそも、どう扱い、どう書いていいか分からないような話だった。

記者5年目で何にでも飛びつき、ガツガツしていた私だったが、悶々とした気持ちを抱えたまま、デスクにも報告できず、心のメモ帳にだけとどめた――

彼はなぜ「内部告発」をしたのか

その夜の「告白」が、記憶の彼方に消えつつあった1年後。

私は彼から、空の安全に関わる別の重大な「内部告発」を受けることになった。

2010年2月、南米チリで巨大地震が発生。
太平洋をまたいで宮城県の沿岸に大津波警報が出された時のことだ。内陸におよそ1キロの所にある仙台空港で、ある問題が発生していた。
「管制塔を運用する国土交通省は、津波による浸水の危険性はないと判断し、到着機に着陸許可を出した」

「一方、地上で航空機の誘導や荷物の出し入れなどの業務を請け負っていた全日空は、空港の海抜と予測される津波の高さを考慮し、作業員を全員避難させた」

「その結果、台湾のエバー航空の旅客機が、着陸したものの乗客を降ろせないまま、大津波警報が出されている中で30分近く駐機場で立往生することになった」
仙台空港に関わる国や航空会社の間で、意思疎通が図れていなかったために起きたことだ。津波が到達していれば大惨事だった。これはニュースにしなければ。

その時、彼は「インタビューを受けよう」と言ってくれた。現役のエア・ドゥの所長だったにもかかわらず、自ら目撃した問題を、実名で証言してくれたのだ。
このニュースがきっかけとなり、国土交通省の仙台空港事務所は、5月26日に対策会議を開催。各航空会社から空港内の売店、それに交番まで、すべての関係者が参加して、情報共有の連絡網を作成するなどの再発防止策を決めた。会議に参加した彼に、改めてインタビューしたところ、「今回の事例を教訓として、情報連絡を密にして判断を統一できる体制にもっていける地固めができたと思う」と答えた。

勇気のいる告発をした彼のことを心配していたが、物事はいい方に動いてくれたようだ。

それにしても、津波が空港まで押し寄せなかったのは不幸中の幸いだった。しかし沿岸から1キロも離れた仙台空港に津波が押し寄せるなんて、よほどの大地震でないと起きないのではないか。そんな悪夢のような光景を目にすることがあるのだろうか。

だが翌年、その「悪夢」は、東日本大震災という形で現実になった。

2011年3月11日。
その日、私は東京にいた。前の年の7月に、仙台から政治部に異動していたのだ。

東京でも大きな揺れ。テレビには見慣れた仙台平野が、津波にのみ込まれていく光景が映し出されていた。
「前任地で土地勘もあるだろうし、現場に行きたいだろ。とりあえず1週間、頼むぞ」
居ても立ってもいられなかった私を、官邸キャップがそう言って送り出してくれた。

翌日の午後、なんとか仙台放送局に入った私は、夕方、ある電話を受けた。表示されたのは、札幌の市外局番である「011」で始まる番号。なぜ、こんな時に札幌から…。

電話に出ると、男性の声がした。札幌にあるエア・ドゥの本社から電話しているという。
「うちの仙台空港所長の赤木から伝言です」
話を聴きながら、メモ帳に走り書きした。
「仙台空港に1300人。毛布が足りない。毛布は200人分。寒い。あと1100人分の毛布が必要」

デスクに報告すると「すぐ字にして!」と原稿を書くことを指示された。
当時は同じように窮地を伝える膨大な情報が次々と発信されていたので、この情報がどう発信され、役に立てたのかどうか、確信が持てなかった。
後に聞いたところ、エア・ドゥの仙台空港事務所では、津波が押し寄せる前にたまたま富山空港所長と電話をしていた。それをつなぎっぱなしにして、仙台空港の状況を富山経由で札幌の本社に報告していたという。その際、「NHKの渡辺記者に伝えて」と、毛布が足りないという情報を送ったのだとか。それで札幌の本社から、私のもとに伝言が届いたようだ。

仙台空港に勤める人たちに顔が広かった彼は、「ここの状況をわかってくれている人が必ずいるから」と、取り残された人たちを励まし続けたという。
「ラジオだけが情報源でしたからね。NHKの放送で、仙台空港内に取り残された私たちの状況について流れた時は、歓声が上がりましたよ。ちゃんとわかってくれている、これで大丈夫だと」
後にそう語った。
その後、彼は被災した仙台空港で、なんとか運航を再開するために尽力する。そして翌年、退職した。

津波の懸念まで予見し、ひたすらに人々の安全に尽くした。
そんな彼が、過去に中国で何をしたというのか。

外交文書で蘇る「天安門事件」

あの「告白」から、11年余りたった去年12月。

外務省は毎年この時期に、機密指定が解除された30年前の外交文書を公開する。
文書の中から、いわば「掘り出し物」を見つけるのは、外務省担当記者にとっての風物詩ともなっている。過去の外交史に多大な興味がある私にとっては、楽しみにしている取材の一つだ。

今回公開された文書の中には、1989年6月4日に中国の北京で発生した天安門事件に関する記録が含まれていた。全部で1万ページ以上にのぼる。
天安門事件。
民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧し、多数の死傷者が出る事態となった。現地駐在の企業関係者や留学生などの在留邦人は、日本への避難を余儀なくされた。

北京の日本大使館が作成した外交文書には、当時の邦人保護の詳細が記されていた。事件発生後の5日間でバスを105回運行し、現地の在留邦人約1500人をホテルや空港に避難させたという。
邦人保護を担当した外交官の記述から、当時の現場の空気感が漂ってくる。事件から10日ほどが過ぎた6月13日の記録には、次のように書かれていた。

「軍が活発に活動し、市内の道路が各地でブロックされるなど、交通が極めて困難な状況の中で、1台のバスに1名以上の館員が同乗し、う回しながら数か所をまわり、1か所で数名から数十名の者を拾っていった」

「日の丸をつけたバスに乗り込み、救出のために大学などの現地に赴く当館館員の送り出しには、ちょうど館員を戦場に送り出す気持ちであり『ぜひ無事に任務を完了して帰ってきてくれ』と思わず祈らずにはいられない気持ちで、胸が熱くなるのを禁じ得なかった」

「臨時便」のことが文書に

外交文書には、天安門事件後の3日間で、約3500人の在留邦人が緊急帰国したと書かれていた。その手段は、日本への空路の「臨時便」だった。

臨時便か…その時、いつしか頭の片隅に追いやっていた、10年以上前の「告白」と、もやもやしたまま封印していた気持ちが蘇った。

「赤木さんが話していた『エバキュエイト便(脱出便)』とは、このことじゃないのか」

文書には、北京の日本大使館が「外交ルートを通じた着陸許可の支援」を行い、3日間で10便が日本に飛んだとある。外務省は「邦人退避には、日航および全日空の協力なくして、今次作業は遂行しえなかった」と結論づけていた。そうだ、間違いない。彼が「ルール違反」をしたのは、この便の運航に違いない。
いったいなにを、どうしたのか。
今度こそ、もう一度ちゃんと聞こう。あれから10年以上たったけど、今なら向き合える気がする。記者としてもけじめをつけよう。

私は彼に、再び会うことを決めた。

再会

年が明けて1月6日。赤木さんに、電話をしてみた。

すでに退職した彼は74歳になっていたが、思った以上に声は元気そうだった。いまは成田空港に近い千葉県内に住んでいるという。訪問したい旨を伝えると、二つ返事で了解してくれた。
お互いに、マスク姿での再会となった。

私は事前に訪問の趣旨を伝えていた。
赤木さんは避ける様子も、気負う様子もなく、「記憶を呼び覚ましたい」と、天安門事件の当時、北京で一緒に仕事をした整備士の同僚まで招いてくれていた。元整備士のその男性は、当時の詳細なメモを持っていた。
赤木さんは当時の記憶をたどりながら、実に淡々と語り始めた。

中国人スタッフの涙

1989年2月21日、赤木さんは、全日空の運航管理者として北京に赴任した。
同時に、研修員という立場でもあり、運航管理者としての仕事の合間に、現地の大学で中国語も学んでいた。職場では、中国共産党から派遣された日本語が堪能な現地スタッフも一緒に働いていた。

天安門事件が起きたのは、北京に赴任して4か月が過ぎた時だった。

きっかけは、4月15日、保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記(こ・ようほう)の死去だった。これを機に、天安門広場では学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めたが、次第に要求は民主化を求めるものに変わっていった。
赤木さんが通っていた大学でも、学生たちが集会を開き、口コミや壁新聞が媒体となって、さまざまな情報が飛び交い始めた。何かが起きる予感がした。

その瞬間は、沸騰したお湯が鍋からあふれる直前に、冷たい水を差したかのようだったという。6月4日、ついに人民解放軍は自国民に発砲したのだ。
赤木さんも弾丸が飛び交う音を聞いた。自分たちにも危険が迫っていることが、はっきりわかった。彼は、そのさなかで目撃した、一緒に働いていた同僚の中国人スタッフの涙が忘れられないという。

気心の知れた同僚ではあったが、外国人を監視する意味でも送り込まれていたスタッフの女性たち。彼女たちが目を真っ赤にして「これで中国は世界から50年は遅れてしまう」と声を殺して泣いたのだった。

事件の渦中にあって、とにかく情報がなかった。

赤木さんは、香港からの便が到着した時の光景を今も覚えている。北京空港で働く中国人たちが、乗客用に積み込まれた香港発行の中国語の新聞を機内から引っ張り出し、むさぼるように読んでいた。厳しい情報統制下でも、人々は「抜け穴」に真実を求めていたのだ。

銃を突きつけられ、思わず「シェシェ」

北京は、まさに「戦場」だった。
公開された外交文書にも、複数の日本大使館員の自宅に銃弾が飛び込んだことや、日本人のカメラマンが銃弾を受けてけがをしたことが記録されていた。
人民解放軍の銃口は赤木さんにも向けられた。

天安門事件が起きてから4日後の6月8日深夜のことだった。すでに始まっていた在留邦人を日本へ避難させる臨時便の運航の仕事から北京市内の自宅に戻る途中だった。

同僚が運転するワゴン車に乗っていたところ、突然、武装した兵士数十人に行く手を阻まれた。天安門広場から北東に7キロほどの「三元橋」という地点だった。

自動小銃の銃身で、ワゴン車から降りるよう指図された。中国語を話せる同僚の整備士が事情を説明した。そのときだった、赤木さんは、鼻先から30センチほどの目の前に銃口を突きつけられた。まだ顔にあどけなさを残した兵士だった。

赤木さんは、とっさに口走っていた。

「シェシェ!シェシェ!(ありがとう!)」

両手を挙げて降伏するジェスチャーをしたままの姿で。若い兵士は表情を一切変えなかった。

兵士たちはワゴン車の貨物スペースに積んであった業務用の無線機や飛行機の整備用の工具についても、厳しく問いただした。戒厳令が出され軍が市民を武力で弾圧していた時だけに、怪しまれてもしかたのない積み荷だった。

銃口を突きつけられたままパスポートなどの身分証も調べられた。とても長い時間に感じられた。

上官とみられる兵士が、ひと言、「行け!」
ようやく解放された。
その後、赤木さんたちのワゴン車は、帰宅するまでにもう一度、検問に引っかかった。今度は警察官だったが、拳銃を向けてきた。不思議なことに、大きな自動小銃を突きつけられたあとでは、小さな拳銃には怖さを感じなかったという。

一緒だった同僚が、後日、こう言った。
「おい、赤木。あの状況で、シェシェ(ありがとう)はないだろう」

「しかたがないだろ。俺の中国語の知識は、そんなもんなんだから。でも、考えてもみろよ。漢字で書けば『謝る』という字だからな。『ごめんなさい、悪いことはしていません』ということを伝えたかったんだよ」

今では、仲間内では笑い話になっている。

ルールか、それとも…

赤木さんが「規程を破った」と話す出来事は、こうしたさなかに起きた。在留邦人が北京から避難する際に運航された臨時便に、全日空はボーイング747型機、つまりジャンボ機を飛ばした。(以下、B747と表記)
同僚の整備士の記録では、5回の臨時便が運航され、国内線用のSRと国際線用のLRの2種類のB747が使用された。

「規程を破った」のは、このうちSRを飛ばした時のことだったという。

赤木さんが臨時便の運航管理者として、乗客や貨物、それに燃料などの重さを計算したところ、2、3万ポンド(約9~14トン)、最大離陸重量の制限を超えていることがわかった。

航空法に基づく運航規程は厳格だ。これでは飛ばせない。

悩んだ。乗客を降ろすか、荷物を降ろすか。

その時、北京空港の全日空の事務所前の廊下の光景が目に浮かんだ。銃弾が飛び交う中、大使館のバスなどで、やっとのことで避難してきた在留邦人たちが、行列で押しかけていた。皆、一刻も早く北京を脱出したかったのだ。なんとかこのまま飛ばしたい。
ただ規程には違反しているものの、問題はないだろうという確信があった。根拠は、B747の性能と、規程との間のギャップにある。

国内線用の機体であるB747SRの運航規程では、乗客や貨物、それに燃料などを積み込んだ際の最大離陸重量は、約58万ポンド、263トンほどだった。ただ、B747の能力では実際には70万ポンドを超えても大丈夫だった。国内線では、飛行距離も短く、燃料消費が少ないので、着陸時に重さがありすぎると滑走路に接地した際に車輪が壊れてしまう恐れがある。そのため規程では、あえて最大離陸重量を抑えているのだ。今回のように国際線として使えば、国内線用の規程である58万ポンドを超えたとしても、問題なくいけるはずだ。赤木さんはその事情を知っていた。

出発前の打ち合わせで、機長に率直に伝えた。
「重量をオーバーしています。それでも飛ばしたい」
いつ空港が閉鎖になるかもわからず、時間との戦いだった。
機長はどう判断するだろうか…。

すると彼は、さりげなく答えた。
「わかりました。赤木さん、ウエイト・アンド・バランスは2枚ください」

「ウエイト・アンド・バランス」とは、乗客や貨物、それに燃料などを合わせた重量と、それらを搭載した上での重心の位置についてのデータのことで、離陸の前に運航管理者がパイロットに伝える。パイロットは、このデータに基づき、離陸の際の速度などを決めるのだ。

以心伝心だったのか。さっそく書類を2枚作った。
1枚は、規程の範囲内の離陸重量を書き込んだ「公式」のもの。
つまり運航するための、事実ではない書類だ。
もう1枚は、実際の離陸重量に基づく「非公式」のもの。
機長自身が、本当の重さを確認するためのものだった。

B747の性能を熟知した赤木さんと機長の「裏技」だった。

明らかに運航規程に違反する行為、なぜ赤木さんは語ってくれたのか。
「さすがに時効だと思うし、選択肢を間違えたとは思っていない。ジャンボ機の性能の範囲内だったこともある。1人でも多くの人を避難させようという一心で、みんなで力を合わせていた。あの時の機長は、本当のプロだった」

赤木さんの判断は、果たしてどう評価されるべきなのか。

私は赤木さんとの面会後、日本航空の元機長で航空評論家の小林宏之さんに尋ねた。

小林さんは、1970年の初フライト以来、主にジャンボ機の乗務にあたり、総理大臣の乗る特別便や湾岸危機での邦人救出機などを担当。航空機運航のための危機管理に詳しい。
天安門事件の際、彼自身も別の臨時便の機長に任命された。遺書も準備したが、中国当局がフライトを認めなかったため、彼自身が実際に飛ぶことはなかった。

「証言からすれば運航規程に違反しており、離陸重量から着陸料が決まってくるので、本来支払うべき額の着陸料を支払わなかった可能性はある。ただ安全性の面で言えば、国内線の着陸重量のために最大離陸重量を抑えているだけなので、ジャンボ機の性能からしても影響はない。天安門事件の混乱の中では、安全性に影響がなければ、超法規的な対応が必要だったのではないか。危機管理には『優先順位の選択』という考え方があり、在留邦人の命の方が大事だという観点からすれば、妥当な判断だったと思う」

差し入れ作戦で間に合わせろ!

臨時便の運航は、定期便の合間を縫って行われた。
当時の北京空港の運用時間は午前0時までだったので、運用時間内に東京から到着した臨時便に乗客や貨物を乗せて離陸させなければならなかった。

なんとか離陸を間に合わせなければ。
赤木さんは、救援物資として日本から届いたカップラーメンを両手に抱え、日頃から親しくしてきた北京空港のオペレーションルームに「夜食にどうぞ」と差し入れた。
ピリピリしていた中国人の職員たちの雰囲気が和らいだ。狙いは、全日空の臨時便に、できるだけ滑走路に近い駐機場所を指定してもらうなど、便宜を図ってもらうためだ。地上を移動する時間を少しでも節約し、一刻も早く離陸させるための根回しだった。1人でも多く、少しでも早く。できることは何でもしようという気持ちだったという。

「空港の全日空の事務所前の廊下で待ち続けている在留邦人の皆さんの前を、根回し用のカップラーメンを抱えて通った時はつらかった。『それ、私たちにくれないの?』と言われ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」

外交文書には、北京の日本大使館が、混乱の中で異例の対応をとったことが記されていた。
「邦人(特に留学生)の中には、パスポートを学校や職場に置いたまま、安全な地域に避難し、危険があるため取りに戻れない者が続出。このため当館では、本省とも協議の上、かかるケースについては『帰国のための渡航書』を発給することとし、50人弱に発給した」

事件から2週間後、国会での演説で、当時の三塚外務大臣は、こう総括した。
「極めて危険かつ困難な状況の中で、負傷者が2名出た以外は、4000人近い邦人を無事帰国させることができた次第であります」

マニュアルがない時、責任者の決断とは

2012年のエア・ドゥの社内報が残っている。そこで赤木さんは、東日本大震災の際の対応を振り返っていた。最後はこんな言葉で締めくくられている。

「皆さん、将来は責任者になられると思いますが、責任者は必ず指示を出さなくてはいけない。責任者とは指示を出す、決断を下す。一番いけないのは答えを出さないこと。究極の選択の時は、マニュアルがないので、オーバールールなので、自分の経験と、自分の人間性を信じてやるしかない」
天安門事件の修羅場をくぐった赤木さんらしいメッセージだった。
つまり、そういうことだったのか。
私は、マスク姿で私の斜め前にいる赤木さんに質問した。

「天安門事件の時の行動は、同じ考えだったのですね」

赤木さんは、マスク越しでもわかるくらい、てれくさそうに言った。

「やっぱり、あの時の機長はプロだったなぁ」

天安門事件の時の邦人保護を伝える外交文書。
それが蘇らせてくれた記憶が、今回の取材のきっかけだった。
「墓場まで持って行こうと思っていた話」
それを記事にするべきなのか、当時も今も、大いに悩んだが、想定外の時、窮地に陥った時にプロフェッショナルとはどうあるべきなのか、本当の意味での命を守る選択とは何なのかを伝えるためにも、今回は了承を得て書くことを決めた。

赤木さん、ありがとうございました。
11年前の居酒屋のビールの味が、ようやく蘇ってきた気がします。
(了)

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震災対応のあと、各社の有志から赤木所長に贈られた「頑張りましたで賞」。
彼の一番の宝物だという。
「赤木所長が仙台空港を色々変えてくれました」
「仙台空港を良い方向へ変えています!真似できません」
「ガンガンやっちゃってください!次は空港に保育園を!!」
「仙台空港全体の親分として見守ってください」
など、彼の改革者としての一面もうかがえる寄せ書きになっている。

【渡辺記者はこんな記事を書いてきた】

政治部記者
渡辺 信
2004年入局。釧路局、サハリン、仙台局、福島局などで勤務。現在は政治部で外務省サブキャップ。