大リーグ 歴代2位ホームラン ハンク・アーロン氏 死去

大リーグで歴代2位の755本のホームランを打ったハンク・アーロンさんが22日、亡くなりました。86歳でした。

アーロンさんは1954年にブレーブスでデビューし、7年連続で30本以上のホームランを打つなど大リーグ屈指のホームランバッターとして活躍しました。

1974年には、当時の最多ホームラン記録だったベーブ・ルースさんの714本を上回って記録を更新し、1976年に42歳で引退するまでに記録を755本まで伸ばしました。

アーロン氏のホームラン記録は、2007年にバリー・ボンズさんが塗り替えるまで33年間歴代1位で、日本のプロ野球では1977年に巨人の王貞治さんがアーロン氏を上回る通算756本目のホームランを打ち、大きな話題となりました。

アーロンさんは大リーグ通算で打率3割5厘、ホームラン755本、2297打点をあげ、通算打点は今も大リーグ歴代1位です。

引退後は1982年にアメリカ野球殿堂に選ばれ、背番号44は在籍したブレーブスとブルワーズでそれぞれ永久欠番となっています。

アーロンさんは1月5日には新型コロナウイルスのワクチンを接種したと発表し、接種を広く呼びかけるなど元気な姿を見せていましたが、アメリカ野球殿堂などによりますと、22日、86歳で亡くなったということです。

バリー・ボンズやオバマ元大統領も追悼

2007年にアーロンさんの記録を更新し、大リーグ歴代1位の762本のホームランを打ったバリー・ボンズさんは、インスタグラムにアーロンさんとの写真を投稿しました。

ボンズさんは「逆境を乗り越えた第一人者であり、あなたの後に続いた多くのアフリカ系アメリカ人の選手たちにとって模範となってくれたことに深く感謝します。あなたは伝説で、多くの人にとって真のヒーローです」とコメントしています。

また、オバマ元大統領もツイッターで「アーロンさんは私たちが今まで見た中で最高の野球選手の1人で、私が出会った中で最も強い人間の1人でした。アーロンさんの家族と、彼に影響を受けたすべての人に祈りをささげます」とコメントするなど、野球界にとどまらず多くの著名人がその死を悼んでいます。

米メディア「人種差別の脅威に耐えた 国の宝失った」

アーロンさんは1952年に黒人選手のプロ野球リーグ、「ニグロリーグ」でプロ生活をスタートし、その2年後に大リーグデビューを果たしました。

1974年にはベーブ・ルースさんの最多ホームラン記録を上回りますが、アーロンさんは自伝で当時、殺害をほのめかす手紙が数多く届くなど、黒人選手が白人選手の記録を更新することに対する反感や、差別に苦しんだことを明かしています。

それでも、アーロンさんは「ベーブ・ルースの記録を抜きたいわけではなく、わたし自身の記録を残したい」と強い信念を貫いて大リーグにその名を刻みました。

アーロンさんは去年、アメリカで黒人などマイノリティーに対する差別撤廃を求める大規模な抗議運動が広がった際も積極的にメッセージを発信し「私たちの国では何かがひどく間違っている。白人、黒人にかかわらずアスリートには発言力を行使してほしい。私ももし足腰が元気ならば、先頭に立ってデモ行進するだろう」とコメントしていました。

アーロンさんの死去を受けて、アメリカのメディアは「人種差別の脅威に耐えたアメリカの最も象徴的なスポーツ選手だった」と改めてその功績をたたえたうえで、「ベーブ・ルースやモハメド・アリなどと並ぶ真の国の宝を失った」と伝えその死を悼んでいます。

ソフトバンクの王貞治球団会長「すばらしい野球人生」

ハンク・アーロンさんが亡くなったことについてプロ野球、ソフトバンクの王貞治球団会長は「755本という当時の世界記録をつくり、すべてにおいてすごかった。長く現役でやって、メジャーリーグの選手のかがみだった。世界少年野球推進財団では彼はアメリカを、私は日本をということで一緒に世界に野球を広めようとスタートした。子どもたちの野球の普及に貢献してくれた。とにかくすばらしい野球人生だったと思う」と球団を通じてコメントを発表しました。

ハンク・アーロンさんと王貞治さん

野球の普及を進め、子どもたちの交流の輪を広げようと、ハンク・アーロンさんと王貞治さんの呼びかけで平成2年に始まったのが「世界少年野球大会」でした。

公式ホームページによりますと夏に開催される大会には、例年15か国ほどの子どもたちが参加し、これまでに大会に出場した国と地域はおよそ100にのぼっています。

平成27年に千葉県成田市で大会が行われた時には、アーロンさんが王さんとともに同時に打席に入って始球式に臨みました。