「お母さん、ごめんなさい」

「お母さん、ごめんなさい」
「お母さん、ごめんなさい。私の渡航は失敗です。お父さん、お母さん、心から愛している。息ができなくて死にそう」

家族のスマートフォンには、今も娘からの最後のメッセージが残されています。家族の負担を少しでも減らしたい。彼女はこんな思いを胸に、異国の地で働くことを目指しました。でも、その願いがかなうことはありませんでした。
(ハノイ支局長 道下航)

親思いの女性

彼女は、親思いの女性でした。

田畑が広がる田舎町で育った彼女の名前は、ファム・ティ・チャ・ミさん(享年26)。再び海外で働くことに、父親は強く反対しましたが、「家族のために私が行くしかない」と話したといいます。弟が購入したばかりの車で事故を起こし、多額の借金を背負うことになった彼女の家族。

当時、彼女は、日本で働いてふるさとに戻ってきたばかりでしたが、海外で働くことを決めたのは、そんな両親の負担を少しでも減らそうと思ったからです。イギリスでネイリストの仕事が見つかったから、中国とフランスを経由してイギリスへ向かうと話していました。

しかしおととし10月、母親のスマートフォンに彼女から1通のメッセージが届きました。
「お母さん、ごめんなさい
 私の渡航は失敗です
 お父さん、お母さん、心から愛している
 息ができなくて死にそう」
その日、イギリス・ロンドン近郊で、トラックのコンテナから39人の遺体が見つかりました。

15歳から44歳の男女で、いずれもベトナム人。彼女も、その中の1人でした。10代も10人含まれていました。
イギリスで働くため、コンテナに隠れて密航しようとしたところ、低酸素状態に陥ったとみられています。

世界に衝撃を与えた事件でした。

娘に会いたい

あれから1年あまり。

ミさんのための小さな追悼式が行われると聞いて、およそ1年ぶりにベトナム中部のハティン省にある彼女の実家を訪れました。
事件直後に生まれた彼女の兄の赤ちゃんは、よちよちと歩けるようになっていました。

でも、その子を眺めながらたたずむミさんの父親、ファム・ヴァン・ティンさんは、あのときから時間は止まったままで、眠れない日が続いていると話していました。

さらにティンさんに追い打ちをかけるようにのしかかるのが多額の借金でした。ミさんは、イギリスに行くために、渡航を仲介するブローカーへの手数料として、日本円で250万円近くを銀行から借りていました。

しかし、採石関係の仕事をするティンさんの月収は2万円あまり。月収は、利子の返済分にしかなりません。
「私はすでに年だし、家計は厳しく、いつ完済できるかわかりません。ただ、何よりもう一度娘に会いたい。毎日、娘のことを思っています。渡航に1%でもリスクがあると知っていたら、決して娘を行かせることはありませんでした」

「夢」を乗せていたコンテナ

コンテナの中で亡くなった人たちの多くは、ミさんのように、異国の地で働くことを望んで、密航することを選んだとみられています。しかし、コンテナは密閉されたまま、ベルギーから船でイギリスの港に運ばれたあと、トラックに積み込まれていて、その密航はとても危険なものでした。

しかし、この事件のあとも、違法な方法で海外で働くという「夢」を追い求めるベトナム人は後を絶ちません。

なぜ彼らは、それほどの危険を冒してまで、海外で働くことを目指すのでしょうか。ベトナムで取材を続けると、密航をして海外で働こうとしている21歳のベトナム人男性に話を聞くことができました。
男性は、ベトナム中部の生まれ。この地域は、事件で犠牲になった39人のうち35人の出身地でもありました。

ベトナム中部は、農業や水産業以外、主だった産業がなく、経済発展から取り残されているところも多くあります。中部のある省では、1人あたりの平均月収が日本円で1万3000円足らず。ホーチミンやハノイといった大都市の半分以下というのが実情です。

男性もこうした背景から、高収入を得られることを期待して、去年、ロシアを経由してドイツに密入国し、不法滞在で働く計画を立てていました。

しかし、新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大する中で、一時、計画を断念。それでも、ことし4月か5月にも、カナダに入国して不法滞在で働きたいと考えているといいます。

違法ルートはシンプル

どうして正規のルートを選ばないのか。
男性は2つの理由を挙げました。
1 早く、安く、行ける
正規のルートで海外で働くことを目指すと、就労ビザなどを準備する手間や資金がかかりますが、違法ルートであれば、安く短期間で目的地にたどりつけるのだといいます。

2 言語や専門知識を学ぶ必要がない
そして、正規のルートでは、一定の語学力や仕事に関する専門知識が求められますが、密入国で現地に入りさえすれば、ベトナム料理のレストランなどで仕事を見つけられると男性は説明しました。
密航には、去年の事件のように、命に関わるリスクがあるのではないかと尋ねたところ、男性はちゅうちょなく答えました。
「あのような事件はめったに起きないから、別に気にしていない。違法ルートはシンプルで、多くのチャンスがある」

暗躍するブローカー

一方で、多くのベトナム人が密航できてしまう背景には、暗躍するブローカーの存在があります。

人身取引を防ぐ取り組みをしている団体「パシフィック・リンクス・ファンデーション」に話を聞いてみると、ブローカーを通じて、ベトナム人が違法なルートでヨーロッパを目指す動きは、過去数十年に渡って続いているのだそうです。
そのため密航のルートができあがっていて、一般的なルートは、ロシアや東ヨーロッパの国々に入り、そこからドイツやフランスなど西ヨーロッパを目指すというものです。

そして、その中でもイギリスが不法就労の主な目的地になってきました。

ヨーロッパの各国も、規制をかけるなどして対策を講じてきましたが、すでに張り巡らされたベトナム人のネットワークも使って、ブローカーが違うルートや方法で、規制をかいくぐることが繰り返されています。

国連によると、このようにして、ヨーロッパに入るベトナム人の数は、1年間に1万8000人に上るといいます。

“コロナ後”への危惧

この団体が危惧するのは、“コロナ後”です。

いま、ベトナムでは新型コロナウイルスの影響で、仕事を失う人が出てきています。一方、世界的に人の往来が制限されたことで、ブローカー側も「打撃」を受けています。

ワクチンが普及するなどして、人の往来が以前のように活発になれば、ブローカーは新型コロナウイルスの影響などで仕事を失ったベトナムの若者を、これまで以上にヨーロッパに向かうよう「勧誘」する恐れがあると指摘します。

その上で、密航と不法就労への「誘惑」を断ち切るためには、甘い言葉にだまされないよう、基本的な教育や啓発など根本的な取り組みを地道に続けることに加え、ベトナム政府のブローカーに対する取り締まりの強化が必要だとしています。
「コンテナで大勢のベトナム人が亡くなった事件は、世界に衝撃をもたらしました。しかし、事件のあと『では、どうすべきか?』ということが議論されているとは思えません。ベトナム政府も、ブローカーの取り締まりに取り組んでいますが、より厳しい姿勢で臨まなければ、密航や人身取引のリスクは、いつまでたってもなくならないのが現実です」

二度と同じことが起きないように

「娘と同じルートを選び、悲しい結果が再び起きないように願っています」
事件で娘を失ったティンさんが、私に対して絞り出すように訴えたことばです。

コンテナの事件のあとも、ベトナムでは違法なルートを通じてヨーロッパに向かおうという若者たちが後を絶ちません。

彼らの多くは、ふるさとへの仕送りがうまくいき「仕送りで家を建てた」といった親戚や同郷の人の“成功談”を信じ、同じ「夢」を追いかけてしまいます。

この連鎖を断ち切るには、背景にある経済発展の遅れ、それに伴う格差を当然と受け止める社会のあり方など、構造的な問題を少しずつ解消していくしかないのかもしれません。

ベトナムの「今」の取材を続けることで、引き続きこうした問題に向き合っていきたいと思います。
ハノイ支局長

道下 航
2009年入局
仙台局、国際部を経て
2019年から現職