そして、街は炎に包まれた ~消えない怒りと、不条理と~

そして、街は炎に包まれた ~消えない怒りと、不条理と~
「限界に来た怒り」

「怒り猛った街」

いまから半世紀前、沖縄で起きたある事件を、地元紙はこう表現した。

「コザ暴動」

アメリカ統治下の沖縄で、人々が80台ものアメリカ軍関係者の車に火をつけた事件だ。地元紙は、人々の思いを代弁するように、こうも伝えている。

「これは、人権無視への反発だ」

この事件を現場で取材した、1人のジャーナリストがいる。
齢、83。東京出身で、「沖縄を伝えたい」と記者になった彼は、「コザ暴動」以降も消えることのない“沖縄の怒り”に向き合い続けてきた。彼は言う。

「私たちはいまも、沖縄に不条理を押しつけながら、痛みを感じず、安穏として暮らしている。そのことに、早く気づかなきゃいけない」
(社会部記者 山口健)

“沖縄の怒り”が爆発した夜

森口豁(かつ)さん、83歳。
約5年間、沖縄の地元紙の記者をしたあと、1963年、在京民放の沖縄特派員になった。

「沖縄のことを、本土に伝えたい」
そのためには、地元紙に記事を書くだけでは、足りないと思ったからだ。

そして7年後、「コザ暴動」に出くわすことになる。
(注:地元では「コザ騒動」、「コザ事件」とも呼ばれる)

事件が起きたのは1970年12月20日の未明。
きっかけは、1件の交通事故だった。

当時のコザ市(現在の沖縄市)で、アメリカ兵が運転する車が、道路を渡っていた住民をはねたのだ。

事故の処理にかけつけたアメリカ軍の憲兵を、近くにいた人たちが取り囲んだ。それを威嚇するように、憲兵が発砲。

これをきっかけに、人々が米軍関係者の車に次々と火をつけた。
被害にあった車は82台にのぼると、伝わっている。
のちに「暴動」とも称される人々の行動には、理由があった。

この3か月前、いまの糸満市でアメリカ兵が車で女性をひき、死亡させる事件が発生。

ところが、12月11日、このアメリカ兵が、無罪になったのだ。

アメリカ統治下の沖縄に、裁く権利はなかった。
無罪判決は、アメリカの軍事裁判で言い渡された。

「私たちは、いつまで虐げられるのか」

人々のアメリカ軍に対する不満や怒りは、かつてなく高まっていた。

森口さんが現場に到着したのは、深夜1時過ぎ。
現場周辺にはアメリカ軍が規制線を張っていたが、それをかいくぐるようにして、取材を始めたという。
森口さん
「真っ暗闇で、街灯なんかほとんどなくてね。米兵相手のバーやキャバレー、そのほかの店のネオンがついてる程度で、それ以外、真っ暗闇です。そんな中で、米軍のヘリコプターが低空飛行でコザの街の上を旋回して、サーチライトで事件の現場を照らして移動するんですよ。騒然とした雰囲気でしたね」

「車に火を放っている青年たちが、口々に怒りのことばを叫んでいました。『アメリカ、タックルセー』、つまり、『アメリカ兵を懲らしめるんだ』と。1台、車が炎に包まれるごとに歓声があがる。車が燃やされると同時に、一斉に拍手が起こるような状況ですよね。変な表現だけども、『祝祭』っていうか、お祭りの現場にいるようなそんな雰囲気でしたよ。もちろん、怒りに包まれた場なんだけどね」
森口さんは、この時、取材で使ったカメラを今も大切に保管している。

そして、このカメラを見るたびに、思い出すことがあるという。
森口さん
「暴動の参加者の青年が、『兄さん、兄さん』って、僕の肩を抱いて、僕を引き寄せながら、『いい写真撮ってくださいね、いい写真撮ってくださいね』って。『僕のあとついてきてください』みたいな感じで、現場を案内するっていうかね。当時は沖縄の現状、沖縄の人たちの悲しみや怒りが、ほとんど本土には伝えられない時代だったんで、とにかく、『ニュースにして、これをちゃんと伝えてくれ』という、そういう気持ちに支えられて、とにかくカメラを回し続けましたね」

変わらない「不条理」

この2年後、沖縄は日本に復帰。

それをきっかけに、森口さんも東京に転勤した。
1990年までは民放で、そして退職後も、フリーのジャーナリストとして、沖縄に足を運び、取材を続けてきた。

森口さんを突き動かすのは、日本に復帰した後も、それ以前と大きく変わることのない、沖縄の姿だという。
平成7年に起きたアメリカ兵による少女暴行事件。
これをきっかけに基地の縮小や、日米地位協定の見直しを求める大きなうねりが起きた。
その9年後に起きた、アメリカ軍のヘリコプターが大学の敷地内に墜落する事故。
日本側は警察が現場に近づくことさえできず、再び、基地や地位協定のあり方が問われた。
悲劇が、理不尽が繰り返されるたび、クローズアップされてきた沖縄の基地をめぐる問題。

しかしいまも、沖縄には在日アメリカ軍の専用施設の約7割が集中している。そして、日本に復帰して以降、沖縄で、刑法犯罪で検挙されたアメリカ軍関係者は、約6000人にものぼる。

「コザ暴動」につながった沖縄の人々が感じる不条理は、半世紀たったいまも、解消されてはいない。

森口さんの目に焼き付いて、離れない光景がある。

5年前に起きた、アメリカ軍の軍属の男が、20歳の女性に性的暴行をしようとして殺害した事件。
その2か月後に行われた、被害者を追悼する「県民大会」に集まった人たちの姿だ。
森口さん
「みんな同じプラカードを掲げたんですよ、『怒りは限界を超えた』っていうね。つまり、『もう、ここ(のど元)まで怒りが来ているよ』と。しかも、真夏のものすごい暑い日だったんですけど、みんな喪服を着てね、黒い喪服でない人は、みんな黒で統一してね。何万人もが(注:参加者は主催者の発表で6万5000人)密集して、壮大なる葬儀というか、葬列というか、異様な集会でしたね」

「本土の人間が安穏と暮らしていられるのは、沖縄という地域が、沖縄の人たちがあれだけの重荷を背負っているからですよね。そんな『不条理』を押しつけ、強いておきながら、日本人は痛みを感じないで安穏として暮らしている、そのことに早く気づかなきゃいけない」

「コザ暴動」が突きつけるもの

「コザ暴動」から50年となった先月、沖縄では、事件を振り返るシンポジウムが開かれた。

そして地元紙は改めて事件を特集。

人々は、「コザ暴動」の歴史的な意味を考え続けている。

事件を目の当たりにし、この半世紀、本土出身の立場から沖縄を見続けてきた森口さん。

いま、何を思うのか。
森口さん
「『50年たったから過去のことだ』じゃなくて、今も生々しく語り継がれているってことは、結局、沖縄の状況が変わってないからじゃないかと。本質的に何も変わってないじゃないかと。『コザのあの夜の叫びって、何だったんだ』っていう思いが、ずっと沖縄の人の中に渦巻いていて、ある意味、怒りが、我慢が沸点に達する、そういう状況がずっと続いていると思います」
森口さん
「大きな事件や事故が起きると、一時的に沖縄に対する関心が集まるんですよね。沖縄に思いを寄せて、『こんな状態を直さなきゃいけない』っていうような気持ちが、本土の中ですごく盛り上がる。でも時間がたつと、すっと冷めていっちゃうんですよね。沖縄の苦しみ、沖縄の置かれている状況をみずから知ろうとする人がなかなか出てこない。本土の人にとって沖縄は、観光、移住、文化、芸能、どれをとっても、自分たちのために、沖縄を消費してるだけなんですよね」
森口さん
「本土の沖縄に対する関心を、一過性でなくて、持続させて、そして、それをどんどん周りにまで広げていく。面にしていく。それで、沖縄の問題は、自分たちの問題なんだというところにたどりつく、そういう時がくるのを、沖縄はきっと願っているだろうし、僕もね、そんな思いでいつも沖縄を見つめてますけどね」
森口さんは、おととし2月、血液のがんの一種、悪性リンパ腫と診断された。

ステージは3。

医師からは、余命1年と告げられた。

それでも、命のともし火が消えるその日まで、沖縄を思い、伝え続けるつもりだ。

私は記者として、そして本土に暮らす1人として、いったい、何ができるだろうか。

何をしなければならないだろうか。

森口さんのことばを思い返すたび、胸が締め付けられる。

来年、沖縄は、日本に復帰してから50年目の節目を迎える。
社会部記者 
山口健
東京出身 
2011年から2年間、沖縄局で基地問題などを取材
現在は社会部で戦争、平和などのテーマを担当