BMX選手 榊原魁 ~たとえ、いまは走れなくても

BMX選手 榊原魁 ~たとえ、いまは走れなくても
「死にかけて多くのことに気付いた。諦めたらそこで終わりだ」

新型コロナウイルスで多くの人が困難に直面する中、SNSに投稿されたメッセージ。投稿したのは、去年、突然の事故で生死をさまよい、東京オリンピック出場という夢を絶たれた選手だ。
事故からまもなく1年。ことしを再起の年にしようと、一歩ずつ歩み続けるあるトップ選手の記録だ。

(ネットワーク報道部 小宮理沙)

BMX選手 榊原魁

選手の名は、榊原魁(24)。明るい笑顔が印象的な日系オーストラリア人だ。

彼と初めて会ったのは去年(2020年)1月。自転車競技・BMXレーシングでオーストラリア代表として東京オリンピックをめざし、激しい練習に打ち込んでいる最中だった。

自転車の格闘技「BMXレーシング」

「BMXレーシング」は、アップダウンの激しい400メートルほどのコースで、スピードを競うオフロードの自転車競技だ。

高さ8メートルの場所からスタートし、坂を一気に下って時速およそ60キロまで加速。高速でのコーナリングや位置どりで、選手どうしが激しくぶつかり合って転倒することもしばしばあり「自転車の格闘技」とも呼ばれている。

スリリングな競技として人気が高まり、2008年の北京大会からオリンピックの正式種目にもなった。
魁さんは、3つ下の妹の爽さんとともに、世界トップ選手として知られ、子どものころから、数々の国際大会に出場し何度も表彰台に上がってきた。

強い脚力を武器に、2017年にはきょうだいそろってオセアニア選手権で優勝。去年(2020年)1月時点では、2人とも世界ランキング10位以内で、きょうだいでの東京オリンピック出場が有力視されていた。
魁さん(2020年1月)
「(東京オリンピック出場の)自信はある。毎回、自分のベストを出し切るような走りができれば、問題ないと思う」

第2のふるさと、東京

東京で開かれるオリンピックに、きょうだいでどうしても出場したい。

魁さんが東京オリンピックに特別な思いを抱いていたのには、理由があった。
イギリス人の父親と日本人の母親のもと、オーストラリアで生まれた魁さん。4歳の時に母親の実家がある東京・府中市に家族で移り住み、6年間を過ごした。魁さんにとって東京は、幼稚園や小学校の友人と楽しく遊んだ思い出の場所なのだ。
本格的にBMXを始めたのも東京に来てから。才能はすぐに開花し、8歳の時には日本代表として、世界選手権の年齢別部門に初めて出場し入賞を果たした。

オーストラリアに戻ってからも、日本代表として活躍を続けてきたが、17歳の時、悩んだ末、生活の基盤があるオーストラリアの代表として活躍していく道を選ぶ。
それでも、BMXを教わった日本への強い思いは、変わることはなかった。
魁さん(2020年1月)
「東京は『第2の故郷』でもあり、BMXをまじめに取り組み始めたのも日本。オリンピックを東京で開くとなったら、もうワクワクでしかありません。親戚も日本にいるし、小学校の頃から応援してくれている友達も日本にいるので、その人達の前で、スポーツ最高の舞台で、いいパフォーマンスを見せたい」

レース中の事故

しかし、夢に手が届きかけていたそのやさきの去年(2020年)2月、オーストラリアで行われたワールドカップで突然のアクシデントに襲われる。
いいスタートを切り、先頭争いをしながら2つ目のカーブにさしかかった瞬間、ハンドルが突然、大きく曲がったかと思うと、自転車ごと倒れ頭を強く地面に打ちつけた。
さらに、すぐ後ろを走っていた選手がよけきれずに衝突。魁さんは意識不明の重体となり、ヘリコプターで病院に運ばれたのだ。
頭部に外傷を負った魁さんは、生死の境をさまよい昏睡状態が続いた。ICUで人工呼吸器と点滴につながれた姿をみて、家族は次の誕生日を迎えられないかもしれないと不安に襲われたという。
爽さん
「本当に信じられなくて、意識もないし、医療機器が息をさせてくれているだけだった。(意識が戻らないかもしれないと)本当に怖かった」
幸いにも手術は成功し、数週間ぶりに意識が戻ったが、目を覚ました魁さんを待っていたのは、過酷な現実だった。

待っていた過酷な現実

魁さん
「意識が戻った時は(事故の数日前からの)記憶が全然なかった」
体中の筋肉がすっかり落ち、体重は20キロ減少。左脳に「外傷性脳障害」を負ったため、右半身と言語を発する機能に深刻な影響があることがわかった。右半身を動かすことも、自由に話すこともできなくなり、医師からは何かしらの障害が一生、残るだろうとも言われている。

どんなに意識を集中しても、思うように動かない腕、そして脚。日常生活もままならなず、選手生命の危機に立たされていた。

それは、東京オリンピック出場という夢に向かって走り続けていた魁さんにとって、受け入れがたい現実だったに違いない。

事故の8週間後。リハビリを始めたものの、最初の頃はすぐに疲れてしまい、昼ごろには数時間の休憩が必要だった。思いをことばにうまく発することもできず、自分にいらだつこともしばしばあったという。

日本にも広がる支援の輪

そんな魁さんを支えようと、事故の知らせを聞いた世界各地の人たちが立ち上がり、支援の輪が広がっていった。
ゆかりがある府中市は、事故と魁さんの状況についてSNSで発信し、一日も早い回復を祈るメッセージを投稿してきた。
6月には、日本企業などによるオンラインのプログラムを使ったチャリティーイベントが行われ、魁さんの背番号の「77」にちなんで、77分間、自転車で走り続けリハビリ費用などの寄付を募った。世界中のアスリートが参加し、日本からはBMXレーシングの畠山紗英選手や、スキー・ノルディック複合の渡部暁斗選手などが、魁さんのためにペダルをこいだ。

その様子はSNSでライブ配信され、魁さんの回復を願う人たちの声が次々と届いたという。
こうした声が、魁さんに勇気を与え、つらいリハビリに取り組む後押しになった。
魁さん
「何もかもがつらかった。特に最初のほうがつらかった。でも、少しずつ何かができるようになって、そのたびにうれしかった」

きょうだいでオリンピックに

ひとつでも、できることを増やしたい。

魁さんが前に進む原動力となっているのが、妹の爽さんの存在だ。爽さんは、新型コロナウイルスの影響でオリンピックが延期となり、練習が満足にできない中でも黙々とトレーニングを続けている。
爽さん
「東京オリンピックにきょうだいで一緒に出場するという大きな目標に向けて、準備やトレーニングを一緒にやってきたので、自分と魁のために絶対に出場する責任があると思っている」
「いま、どんなトレーニングをしているのか?」
「タイムは伸びたのか?」

爽さんの走りが気になる魁さんは、練習風景が撮影された動画を見て、アドバイスを送ることが次第に増えてきた。一時帰宅をした際には、爽さんのトレーニングを手伝っている。

たとえ一緒に練習ができなくても、爽さんの支えになっていることが、自信と喜びにもつながっているという。
魁さん
「いま爽はいい状態なので、これからもっと成長(レベルアップ)してほしい。目標は、必ず爽にオリンピックに行ってもらって、メダルを獲得してもらう。そのために応援したい」
オリンピックの競技会場から、爽さんを応援したい。

一緒に東京に行く夢は、少し形を変えて、2人の間で共有されるようになっていった。

もう一度、ペダルをこぎたい

事故から5か月後の去年7月、魁さんは久しぶりにホームグラウンドを訪れた。まだ車いすに乗っていた魁さんは、コースの外から爽さんや地元の人たちが走るのを見守っていたが、練習を見ているうちに、もう一度ペダルをこぎたいという思いが募っていった。
魁さん
「自分がまだ自転車に乗れないのがすごく悔しかった。全く歩けなかったのがちょっとずつよくなって、いまは歩けるようになったので、今度は自転車に乗れるようになりたい。もうその気持ちしかない」
リハビリにも一段と力が入り、1人でもゆっくりと歩けようになった魁さん。去年11月下旬には、リハビリのため半年にわたって過ごした施設を退院し、いまでは右腕を支えていたスリングも外れ、上下に自分で動かせるまでに回復した。

“諦めなければ乗り越えられる”

事故からまもなく1年。どこまで回復するかはわからないが、再び自転車に乗れる日を信じて懸命にリハビリを続けている。

意識が回復した直後は、ことばを発することができず、「YES」「NO」と書かれた紙を指し示すことしかできなかった魁さん。リハビリの一環として取り組んでいるスピーチの様子をSNSに投稿した。
魁さん
「死にかけて多くのことに気付いた。つらくても諦めなければ乗り越えられる。諦めたらそこで終わりだ。実現したいことがあるなら、諦めるな」
いま、世界中の人たちが新型コロナウイルスで苦境に立たされている。

誰に向けたメッセージか尋ねると、未来の自分、そして同じように困難に直面する人たちに向けたことばだと明かしてくれた。

この先、もっとつらいことが待っているかもしれない。
どんなに努力を重ねても、うまくいかないことがあるかもしれない。
そんな時、事故から立ち上がり、前に向かって進み続けている自分を思い出してほしいという思いが込められている。
魁さんからのメッセージ
゛If you think you can, you can(できると思えば、できる)”