【外交文書 公開】政府 天安門事件当日 中国に融和方針決める

1989年に起きた中国の天安門事件で、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが、23日公開された外交文書で明らかになりました。人道的見地から容認できないものの、中国の国内問題だとしていて、専門家は「改革開放を支援して中国を安定させることが世界の利益になると判断したのではないか」と指摘しています。

公開された1万ページ余りの外交文書には、1989年6月4日に中国の北京で、民主化を求める学生や市民の運動が武力で鎮圧され、大勢の死傷者が出た天安門事件に関連する記録が含まれていて、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが明らかになりました。

この中で、日本は自由、民主という普遍的価値を西側諸国と共有しており、中国政府が学生や一般市民を武力鎮圧し、多数の死傷者を出したことは、人道的見地から容認できないと指摘しています。

一方で「今回の事態は、基本的にわれわれとは政治社会体制や価値観を異にする中国の国内問題であり、対中国非難にも限界あり」としています。

そして「西側諸国が一致して中国を弾劾するような印象を与えることは、中国を孤立化へ追いやり、長期的、大局的観点から得策ではない」として、各国が一致して中国に制裁措置を行うことには反対すると明記しています。

また、中国が改革開放政策を維持することは西側にとっても望ましいという観点から、国際的にも納得が得られる国になることを表明するよう働きかけ、関係を徐々に修復していくことが必要だとしています。

中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「人権じゅうりんに強く抗議するのはいいが、それによって何が実現できるのかという問題がある。改革開放を支援して中国全体を安定させることが、日本やアジア太平洋地域、そして世界にとって利益になるという基本認識は、事件が起きても変えないという判断だったのではないか」と指摘しています。

天安門事件後 経済協力懸念のアメリカへ外務省反論

1989年の天安門事件のあと、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に対し、外務省の担当者が「非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と反論していたことが、公開された外交文書で明らかになりました。

中国への経済協力をめぐって、日本政府は、1989年6月に北京で天安門事件が発生した際、ODA=政府開発援助の大部分を占める円借款をいったん延期しましたが、翌年の7月には再開することを表明しました。

23日公開された外交文書では、天安門事件から10日余りたった6月15日、外務省の幹部がアメリカ政府の高官との会談で、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に反論している様子が記されています。

この中で、アメリカのロバート・フォーバー国務次官補代理は「日本政府が中国に対する経済協力案件を次々と承認すればワシントンを刺激することになる」と指摘しました。

これに対し、外務省アジア局の鈴木勝也審議官は「天安門における発砲事件については、われわれも遺憾と考えている」と述べる一方、「西側の価値観や体制とは、ともに異なる中国に同様の物差しをあてはめるのは無理がある。非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と主張しました。

宮本雄二 元中国大使は「中国のいわゆる『改革派』と呼ばれる人たちは、『改革開放を進めたから天安門事件が起こったんだ』という中国国内の批判にさらされ、窮地に立っていた。われわれには、改革開放が正しい道であり、円借款を決して途絶えさせることはできないという明確な認識があった」と話しています。

日中関係に詳しい東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「アメリカには、自分たちは人権問題を重視して中国との交流をセーブしているのに、日本の企業は構わず活動していると見えたのだと思う。日本と中国が、いわば結託するのではないかという懸念があったのではないか」と指摘しています。

天安門事件直後のサミット 中国の孤立回避へ日本が働きかけ

1989年の天安門事件直後に開かれたサミット=先進国首脳会議で、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指す各国に対し、日本政府が中国の孤立化を防ぐため、より穏当な表現にするよう働きかけていたことが、24日公開された外交文書で明らかになりました。

1989年6月に起きた天安門事件直後に、フランスのパリ郊外で開かれたアルシュサミットでは、民主化を求める学生や市民を武力で鎮圧し、多くの死傷者を出した中国政府への対応が最大の焦点となりました。

公開された文書では、議長国のフランスをはじめとする各国が、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指したのに対し、日本政府が中国を孤立化させないよう、より穏当な表現を目指して各国に働きかけていたことが明らかになりました。

当初、フランスが各国に示した宣言のたたき台では、中国政府の対応を「凄惨(せいさん)な鎮圧および処刑」と表現し、ハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期などといった制裁の実施に言及していました。

これに対し、日本側は、中国への非難は抑制的にしたうえで、制裁には言及せずに、「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨みました。

これに、各国が強く反発したため、日本側は、制裁に言及することは受け入れるものの、中国の孤立化を防ぐ趣旨の文言は必要だとして粘り強く交渉を続け、当時の宇野総理大臣みずから、フランスの交渉担当を務めるジャック・アタリ氏への説得を試みました。

その結果、宣言には「中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれました。

当時、外務省職員として政治宣言をめぐる協議に携わった宮本雄二 元中国大使は「中国を孤立させることは正しくないし、中国を不必要に刺激し、中国国民の感情をあおることもよくない。ほかの国から『日本だけが浮き上がってしまうぞ』と言われたが、みな確信を持っていた」と話しています。

中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は、「今の中国の状況からすれば、『なぜそんなに助けたんだ』と思うかもしれないが、今の尺度で当時を判断するのは間違いだ。中国の改革開放政策を支援しなければ、もっと大変なことになるという見方を多くの日本人がしていた。長い発展プロセスの中で起きた非常に不幸な事件と捉えるべきだというのが日本の立場だった」と指摘しています。

1989年サミット“水面下の駆け引き”明らかに

公開された外交文書には、1989年の天安門事件の直後に開かれたサミット=先進国首脳会議を舞台に、政治宣言で、中国政府を厳しく非難すべきだとする各国と穏当な表現を目指す日本が水面下で駆け引きを繰り広げた様子が記録されています。

サミットの議長国、フランスが、7月4日に各国に示した政治宣言のたたき台では、中国政府の対応を「凄惨な鎮圧および処刑」と表現し、閣僚などのハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期など、ヨーロッパ4か国が実施した制裁に言及していました。

これに対し、日本側は同日、日本が中国への制裁に賛同したと受け取られないよう「各国の措置については言及しないほうが望ましい。各国の立場が固い場合はできるだけ抽象的な表現にするよう努める」などとした基本方針を確認しました。

そして、中国への非難は抑制的にしたうえで、制裁には言及せず「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨みました。

7月7日に行われた事務レベルの協議では、日本側がまず「中国に関して特別の宣言を発することを望んでいない」と述べたのに対し、ほかのすべての参加国が「宣言は必要だ」と主張したため、具体的な宣言案の検討に入りました。そして、日本側が中国への制裁については抽象的な表現とするよう求めたのに対し、アメリカが「具体的な措置への言及は不可欠だ」と主張したほか、西ドイツも「具体的な措置に言及しない宣言は無意味だ」などと発言しました。

このため7月11日に行われた日米の交渉担当者による協議で、日本側は妥協案として、中国への制裁の言及を受け入れる代わりに「われわれは中国が孤立化することを意図するものではない」という文言を加えるよう求めましたが、アメリカ側は「迫力が落ちる」と難色を示しました。

宣言が採択される前日の7月14日、宇野総理大臣が、議長国フランスの交渉担当を務めるジャック・アタリ氏との昼食会で「中国がみずから孤立化しないような改革を進める必要がある。それまではこういう姿勢をとる、あるいは見守るというような案文ならいいのではないか」と説得し、アタリ氏から「それなら巧妙な言い回しであり問題ない」という回答を引き出しました。

宇野総理大臣は、7月15日の討議で「心に留めておくべきは、今の中国は『弱い中国』であるということだ。歴史的に中国は、弱い時には常に強い排外的な姿勢を取ってきた。宣言を公にするにあたっては、ことばを慎重に選び、いたずらに中国人の感情を刺激し、彼らの態度を硬化させるべきではない」と発言しました。

結果として宣言には「中国当局が、政治、経済改革と開放へ向けての動きを再開することにより、中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれました。

天安門事件後 英サッチャー首相が香港の将来不安視

中国政府が民主化を求める学生や市民を武力鎮圧した1989年の天安門事件後、イギリスの当時のサッチャー首相が、中国への返還で合意していた香港の将来を不安視する発言をしていたことが外交文書で明らかになりました。

1980年代にイギリスを率いたサッチャー首相は、香港の返還をめぐって、当時の中国の最高実力者、※トウ小平氏との交渉にあたりました。

香港の返還合意から5年後の1989年9月、サッチャー首相が日本政府の関係者に対し、6月の天安門事件を受けて、トウ小平氏の考え方や香港の将来を不安視する発言をしていたことが、公開された外交文書で明らかになりました。

日本訪問を5日後に控えた9月14日、サッチャー首相は千葉一夫イギリス大使との夕食会で「かつてトウと話し合った際、イギリス政府も法律の下にあることをどうしても理解せず、『国家が欲すれば法律をそのように変えればよい』と主張した。こんにちの中国の問題は、まさにこの考え方に根源があると思う」と述べ、法に基づく統治に対するトウ小平氏の考え方に懸念を示しています。

そして、日本を訪問したサッチャー首相は中山太郎外務大臣と会談した際「トウ小平や趙紫陽と話し合った経験からは、天安門のような事件が起きることは予想できず、極めてショックだった。こうした事態は二度と起きてはならない」と指摘しました。

そのうえで「香港には500万の住民がいるが、自国民にあんなことができるのなら、自分たちはどうなるのかと不安を持っている」と述べ、8年後に返還する香港の将来に懸念を示しています。

戦後外交史に詳しい九州大学の中島琢磨准教授は「サッチャー氏は、まるで現在の香港の状況を予見していたかのような話しぶりだ。トウ小平氏との会話の中で抱いた『法の支配』に対する危機意識も明らかになっており、非常に興味深い。現在の日本の視点から見ても非常に示唆に富んでいるのではないか」と指摘しています。

(※トウは「登」に右が「おおざと」)

天安門事件とは

天安門事件は、1989年の6月4日、北京の天安門広場に集まり、民主化を求める学生や市民を中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧したものです。兵士が市民に向けて銃を発砲するなどして、大勢の死者やけが人が出ました。

きっかけは、1989年4月15日、保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことでした。これを機に北京にある天安門広場では学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変わっていきました。

事態が急変したのは4月26日。中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの過激な行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われました。

事態を重く見た中国共産党は、5月20日に北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲し、武力で強制的に鎮圧しました。この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。

外交文書とは

外務省は、作成から30年以上が経過した公文書のうち、歴史上、特に意義があり、公開しても支障がなく、国民の関心も高いと判断した文書を、毎年1回公開しています。

今回、公開された外交文書は、1987年から1990年に作成された1万600ページ余りで、合わせて26のファイルに収められています。

この中には、
▽1989年に中国の北京で起きた天安門事件をめぐって、日本政府が対応を協議した際の記録、
▽天安門事件直後に開かれ、中国への各国の対応が焦点となったフランスでのサミット・先進国首脳会議に関係する記録、
▽当時の海部総理大臣のアメリカ訪問に関する文書などが含まれています。

文書には、極秘扱いとされていた公電も含まれていますが、現在も外務省の情報源となっている人物の名前が記されるなど、引き続き、外交交渉への影響があると考えられる部分などは一部が黒塗りになっているものもあります。

公開された文書は、外務省外交史料館のホームページに、23日から掲載されるほか、外交史料館では原本を閲覧することもできます。