“新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見

室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。

見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。

東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。

義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。

史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。

中世に描かれた将軍の肖像画が新たに見つかることは非常に珍しく、足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されていないということです。

東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は「義満という有名な人物の新しい肖像画が出てきたということは非常に驚きだ。権力者として最高潮だった時の姿を描いていて、この肖像画から新しい義満像を読み取ることができるのではないか」と指摘しています。

室町幕府 最盛期の将軍 義満

足利義満(1358~1408)は、室町幕府の2代将軍、義詮の子として生まれ、西暦1367年に義詮が亡くなったあと家督を譲られ、翌年、3代将軍となりました。

1392年には、北朝と南朝に分かれていた朝廷を1つにまとめる「南北朝の合一」を果たし、長年続いた動乱を収束させました。

その後、中国の明との間で勘合貿易を始め、義満のもとで室町幕府は最盛期を迎えました。

また、京都にある相国寺や金閣寺の名で知られる鹿苑寺を創建し、「北山文化」をもたらしました。

肖像画から読み取れることは

調査を行った研究者は、実物を丹念に観察して、絵の内容や時代背景などの「謎解き」に当たりました。

まず注目したのは、顔の様子です。
今回見つかった肖像画では、黒々としたあごひげが生えているほか、目元が少しつり上がっています。

鹿苑寺の足利義満像が、ひげが白く目元がたれているのと比べると、力強い印象があります。

出家直後の姿を描いたか

さらに、日本中世史が専門の村井祐樹准教授は、人物の手前に描かれている「包み」に注目しました。

この包みには、出家をした際に授けられる衣などが入っていると考えられるとして、若々しい顔の表情と合わせて、出家直後の30代後半の姿を描いたと判断しています。

一方、日本の中世絵画が専門で東京大学大学院人文社会系研究科の高岸輝准教授は、今回の肖像画には手本となる別の絵が存在し、その絵を写す際にひげの色の情報が失われて黒く描いたという、別の可能性も指摘。

「もととなる絵を写したときに、ひげが黒かったのか、白かったのか、そういう情報が失われたとすれば、白いひげが黒に変換される可能性もあります。顔の様子も、何度も何度も転写をしていくとシワのような細かい情報が消えて表面がつるっとして若く見える。そういう可能性も考えられます」と話しています。

いつ誰が描いたのか

この肖像画はいつ、誰が描いたのか。

その謎を解く鍵は、肖像画の右下にある印が押された形跡です。

印の部分は削り取られていて、肉眼ではよく分かりませんが、ALSライトと呼ばれる特殊な光線を当てることで、「つぼ」の形をしていることが明らかになりました。

高岸准教授によりますと、つぼの形をした印は室町時代後期に活躍した絵師、狩野元信をはじめとする狩野派のグループが使用していました。

また、布地に使われた絹は、織り方から西暦1500年代に使われていたものと考えられるほか、顔の描き方にも狩野派の特徴が見られるということで、高岸准教授は、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に狩野派の絵師が描いたと想定しています。

高岸准教授は「印を参考にすると、狩野派の工房が描いた可能性が高く、顔の印象も元信周辺の画風に大変近い。美術史の流れを考えるうえで、大変重要な作例だと思います」と説明しています。

なぜ150年後に描かれたのか

それではなぜ、亡くなって150年がたってからこの肖像画が描かれたのか。

村井准教授が着目したのは、義満が京都の相国寺に創建した鹿苑院という建物です。

村井准教授によりますと、鹿苑院には義満の肖像画があったという記録がありますが、建物は西暦1520年代に火災で焼失し、その後、再興の動きが起きました。

村井准教授は、その際に、創建者である義満の肖像画が必要で、今回見つかったものはこの時に作られたのではないかとみています。
村井准教授は「将軍家が弱くなってきた時期だからこそ、幕府の全盛期を創った義満の肖像画を作り直して、足利氏の存在意義を改めて確かめる必要があったのではないか。建物が焼けたままだと将軍家の権威に関わるので新たに造り直し、そこで立派な儀式、仏事を行うというのが重要だったのではないか」と指摘します。
一方、高岸准教授は、義満の150回忌が行われているとすれば、その際の仏事で使用するために描かれたのではないかと推測しています。

高岸准教授は「幕府の力が弱ってきた段階で改めて幕府全盛期の将軍の姿を描くという現象は、16世紀の社会や政治を考える上でも重要な手がかりになるのではないかと思います」と話しています。