お墓を見れば政治が見える

お墓を見れば政治が見える
政治家のお墓と言えば、さぞかし立派なものだろうと想像するかもしれない。
実際に訪れてみると、その人となりや信条、生前の人間関係までも見えてくる。
政治家たちは、お墓にどんな思いを遺したのか。
お墓を見れば、政治が見える?
(「政治家のお墓」取材班)

墓に宿るものとは

お盆でもない9月の墓参り。
総理大臣に就任したばかりの菅氏が訪れたのは、小此木彦三郎 元建設大臣の墓。かつて秘書として仕えた小此木に就任の報告をするためだった。
この風景、珍しいものではない。小泉純一郎 元総理大臣も就任後、やはり秘書を務めていた福田赳夫の墓参りをしているし、安倍前総理大臣も父親である晋太郎の墓参りをしている。

「初当選した」「大臣に就任した」
節目節目に政治家はよく墓参りに行く。墓の主は政治の師や親族などさまざまだ。

政治家としての「決戦」に臨むときにも、そんな姿は見られる。
ことし行われた自民党総裁選挙でも、立候補した岸田文雄 前政務会長は、派閥の事務総長として長く支えてくれた元環境大臣の望月義夫の墓を訪れた。
感謝の意を表すだけでなく、自らの決意を改めて確認しているのか。力を授かろうというのか。
政治家の墓は、死してなお、その影響力が残っているかのようだ。

師の近くで眠りたい

「政治家は師弟関係を重んじる」
中には激しく対立した師弟もいるが、今も昔も政治家が師の恩を重んじることに、おおむね変わりはない。
しかしお墓まで共にする師弟は、なかなかいない。

そんなお墓があるのは、岩手県盛岡市の大慈寺だ。
東や西向きに建てられたお墓の中で、1つだけ南を向いたお墓がある。
ここに眠るのは、明治から昭和初期にかけての政治家、高橋光威だ。
高橋が師と仰いだのは、「平民宰相」で知られた第19代内閣総理大臣の原敬。
高橋は原に長年仕え、原内閣で内閣書記官長を務めた人物だ。
いまで言う官房長官にあたる。

高橋の墓はなぜ、1つだけ違う方向を向いているのか。
その先にあるのが原敬のお墓だ。その距離、大人の足で百数歩という。

原敬の100回忌にあたることし、記念事業の木村幸治事務局長に聞いた。

「高橋光威は新潟県出身で盛岡出身ではありませんが、原総理が亡くなった際には葬儀委員長を務めるまで信頼されていた。高橋が亡くなったのは、それからおよそ10年後でしたが、死ぬ前に『死んでもお守りしたいので、原総理のお墓の近くに埋葬してほしい』と遺言いたしました」
原と高橋が絆を深めたエピソードを紹介してくれた。

2人は記者出身という共通点がある。
「大阪新報」の社長を務めていた原が、高橋を編集長として採用したのは明治36年。
日露戦争をめぐって、当時の新聞がはやすような論調を展開する中、戦争の早期中止を求める記事を執筆した高橋に対し、社内の風当たりは大変厳しいものだった。
しかし原は、あくまで高橋の編集方針を支持。高橋はそれに男泣きしたということだ。
その後、原は政界に転じ、大臣、そして総理大臣を務めることになるが、高橋を秘書に引き抜き、ともに歩んでいくことになったという。

「現在の総理大臣は63人目ですが、総理大臣にお仕えした内閣書記官長、官房長官の中でなくなったあとに、総理大臣のお墓の近くに埋葬してほしいという人はたぶん、高橋光威だけだと思っています。やっぱり男が男に惚れ込むというのはすごいと思う。そういう出会いは、人生最高の出会いじゃないかと感じております」

「平民宰相」の矜持

一方、高橋の師、原敬のお墓はというと、墓石には「原敬墓」とだけ刻まれている。
大正10年、原は65歳の時に東京駅で凶刃に倒れ、その生涯を終えるが、生前、墓に関する遺言を残していた。

「墓石の表面には余の姓名の外、戒名は勿論、位階勲等も記すに及ばず」

まさに遺言通りだ。
日本の政党政治の礎を築き「平民宰相」として親しまれた原敬。
お墓からはその矜持がうかがい知れる。

虎が守る初代副総裁の墓

東京・大田区にある池上本門寺に眠るのは自民党の初代副総裁、大野伴睦。
お墓の前にはそれを守るかのように虎の像がある。立派だ。
大野伴睦は、吉田茂内閣で幹事長を務め、自民党の設立にも尽力するなど、戦後の政治を牽引した重鎮だ。
昭和39年に73歳で死去した。
どうしてお墓に虎の像があるのか。
伴睦の孫で参議院議員の大野泰正に尋ねてみると、たまたま始めたコレクションがきっかけだったと教えてくれた。

「本当は仏像を集めるのが好きだったらしいんです。しかしある日、祖父のお母さんから『凡人がそういうものを集めるんじゃない』と言われて全部手放した。そして、今度はたまたま虎の置物みたいなものをいただいたらしいんですね。本人も自分は寅年だということで、大きなコレクションになっていったと聞いています」
虎のコレクションは絵画や民芸品にいたるまで、その数およそ2000点。
伴睦の自宅の様子を捉えた当時の映像には、見事な虎の屏風、そして足もとには虎の毛皮、さらには欄間にも虎が施されている。
お墓にある虎の像は、もともとは自宅の庭に置かれたコレクションの1つだそう。
「普通は、お墓に虎が置いてあるなんていうのはないですよね。だから、よくあれに乗って遊んだ覚えがあるんです。おやじとおふくろがお参りしている間、私1人で結構、あれに乗って遊んでいたんですよ」

さらに伴睦のお墓の近くには、力道山のお墓もある。力道山といえば、昭和を代表する国民的ヒーロー。
お墓の前には腕組みをする力道山の胸像がにらみをきかせる。
伴睦は力道山と大変親交が深く、当時、プロレス団体のコミッショナーまで務めていたことでも知られる。力道山は昭和38年に39歳で死去したが、伴睦が亡くなったのはその半年後だった。

池上本門寺には、力道山のほかにも「フィクサー」とも呼ばれた児玉誉士夫、当時の実業家、永田雅一など、伴睦と親交のあった政財界の大物が眠るお墓がある。
敗戦から立ち直り日本が再び前を向こうとしていた時代に、陰に陽に活躍した者たちが死後も集う様子が見て取れる。

庶民派政治家の信念を刻む

政治家の信念や信条を表しているようなお墓もある。
都内の霊園にある、日本社会党の委員長を務めた浅沼稲次郎のお墓がそうだ。
浅沼稲次郎は巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から「人間機関車」とも呼ばれ、生涯アパート暮らしを貫いた庶民派政治家として親しまれた。
昭和35年10月、日比谷公会堂で開催された立会演説会で演説中に暴漢に刺殺され、61歳の生涯を終えることとなった。
いまも残る当時の映像は、あまりにも衝撃的だ。
墓地にどっしりと構える墓石には生前の姿に通じるものがある。
お墓の後ろには「解放」という文字が刻まれていた。
浅沼が好んで使っていた言葉だそうだ。
浅沼を研究している同志社大学法学部の松本浩延助教は、こう読み解く。
「浅沼には、民族や階級や人々が対立するのは人間の本来の姿ではないという強い信念があった。対立から人々を解放することにその生涯を捧げた浅沼らしい言葉だ」

“解放”には搾取や貧困、差別などの苦しみから人々を解き放ちたいという浅沼の信念が込められているようだ。

浅沼のお墓にあった“解放”は現在は見ることはできない。
取材では、どういう事情があるのかまではわからなかった。

“縁”を尊んだ大勲位の墓

さらに去年11月に亡くなった中曽根康弘 元総理大臣はどうか。
墓は東京・多摩地域の自然豊かな丘陵地にある。アメリカのレーガン大統領を招いて、日米首脳会談を行った日の出山荘にもほど近い。
2人でちゃんちゃんこを着てほら貝を吹いてみせるなど、趣向を凝らしたもてなしは今もなお多くの人の記憶に残っている。
お墓を訪れたのは12月初旬、日ざしはまだ暖かく穏やかな日だった。
お墓は区画こそ広いものの、ほかに並んだお墓とあまり変わらない様子だ。
墓石には家名だけが刻まれている。
墓には、さしてこだわりはなかったと聞く。
なにゆえ出身地ではなく、この地を選んだのだろうか。
ひとことで言うと、それは「縁」。故人がとりわけ大切に考えてきたものだ。

「結縁、尊縁、随縁」
毎年、手帳には最後のページに必ず書きこんだというこの言葉。
著書には「縁を結んだら、その縁を尊び、その縁に従う」とある。

この世に生を受けたことも、中曽根家に生まれたことも、自分の意志ではなく、すべて「縁」だということ。そして「縁」を結んだ人たちとの間で、せめて生きているうちは互いに睦み合うこと。さらに一度結んだ「縁」を恣意的に破ったりしないこと。

そして、次のように語っている。
「永い人生で最も尊く大切なことは、結局、常に平静で穏やかな心、平常心を維持することに尽きると私は信じています。私は、現世でこのような縁が織り成す業を心ゆくまでしみじみと味わいたいと願っています」
(出典『自省録ー歴史法廷の被告としてー』)
「晴耕雨読の心持ちで、中央政治の喧噪を離れ、沈思黙考、自らを見つめ直し、あすの鋭気を養った」と振り返る山荘には、レーガンだけではなく、旧ソ連のゴルバチョフなど多くの外国要人を招いた。

政治の世界での紆余曲折にも、「縁」に随(したが)い、「縁」に報いようとした101歳の生涯。
眠るのは「縁」も深い、自然豊かな丘陵地だった。
(文中敬称略)