3兆6000億円が幻に?ジャック・マー発言は“口は災いの元”か

3兆6000億円が幻に?ジャック・マー発言は“口は災いの元”か
「人類史上最大の上場だ!」
こう高らかに宣言したのは中国IT企業のカリスマ、ジャック・マー氏。彼が実質的な経営権を握る金融大手アントグループは、11月に予定されていた株式上場で、3兆6000億円という巨額の資金を得る目前でした。

ところが、このわずか1週間余り後、上場は突如延期に追い込まれます。きっかけはマー氏の、ある発言に中国政府が激怒したことだと伝えられています。

中国は今、世界の中でもデジタル化が進む社会だとされています。その変革をけん引してきた企業の1つ、アントに何があったのか。マー氏の発言をもとに読み解きます。

(中国総局記者・伊賀亮人、上海支局長・柳原章人)

悪すぎるタイミング

「なぜジャック・マーは今こんな発言を?」

冒頭のマー氏の発言が飛び出した10月の金融フォーラムの直後、アントの経営幹部に近い元従業員は首をかしげていました。というのもスピーチでは上場に触れただけでなく、中国の金融当局を鋭く批判したからです。
ジャック・マー氏
「中国の金融は管理する力は強いが、正しく監督する力は明らかに足りない」
中国では公の場で民間企業の関係者が当局を批判することはタブー。しかも「史上最大」の上場を控える中で、当局ににらまれるような言動は本来は避けたいはずです。

市場関係者がざわつく中、マー氏はほかの経営幹部らとともに中国人民銀行や証券監督管理委員会など4つの金融当局から合同で呼び出され、指導を受けます。指導の内容は明らかにされていませんが、当局が合同で1つの企業の幹部を呼び出すこと自体、前代未聞です。

そして、翌日に上場延期が発表。
結果的にマー氏の発言が引き金になったとみられ、最悪のタイミングとなったのです。

発言理由は「未来への責任」

なぜ、誰もが不思議に思うタイミングで発言したのでしょうか。ましてや彼は去年、みずからが創業した中国のネット通販最大手「アリババグループ」の会長も退任し、経営の最前線からは身を引いている立場でした。
実はスピーチの冒頭、そもそもフォーラムに出席するか悩んでいたと切り出しています。しかし「未来に対する責任を感じた」として次のように話します。
ジャック・マー氏
「すばらしいイノベーションは管理・監督を恐れないが、古い方式で管理・監督されることを恐れる。イノベーションにリスクはつきものでリスクをゼロにしようとすることこそが最大のリスクだ」
金融当局がリスクを気にしすぎてイノベーションを阻害していると批判したのです。
マー氏は、中国では珍しく歯に衣を着せぬ発言を行うオピニオン・リーダーとして知られてきました。金融関係者などの間では「使命感」に駆られたことが今回の発言の背景にあるのではないかという見方が多く聞かれます。

3分で融資を決定

それではマー氏の発言の裏にある「使命感」とは何なのでしょうか。

アントグループといえば、中国を中心に10億人以上のユーザーを抱える決済サービス「アリペイ」で知られます。ただ、実は現在の収益の主力は決済サービスではなく、投融資や保険の事業で、その売り上げは677億人民元、日本円にして約1兆円と、全体の56%を占めています。

特に中小企業や消費者向けの小口融資の残高は、ことし6月時点で日本円にして34兆円余りと国内1位で、圧倒的な存在感を示しています。
特徴は融資の迅速さで、申請書の記入に3分、AIによる融資の審査に1秒、関わる人間はゼロと、「3・1・0」というキーワードを売りにしています。
利用者の評判はどうでしょうか。

話を聞いたのはアントの融資を利用して農作物を販売する陝西省西安に住む男性。当初は大手銀行からの融資を考えていましたが、条件が厳しいうえ、手続きにはIDカード、戸籍簿、結婚証明書まで必要で煩雑さから断念。

これに対してアントの融資に必要なのはスマホアプリ1つでした。
アントの融資を利用している男性
「銀行からは親戚にまで問い合わせが必ずくるけどそれでも融資を受けられる保証はない。アントから速やかに資金を得られて安心してビジネスができるようになった」

中国金融業界の問題

こうした融資を可能にしているのがビッグデータです。

グループ企業の中国ネット通販最大手「アリババ」を中心に、日本円で年間1800兆円余りという巨額の決済データなどをAI(=人工知能)が分析し、信用度を瞬時に判断します。
もともと中国の銀行の融資はリスクの低い国有企業や大企業などに偏り、中小企業へ資金が十分に行き渡っていないと常々指摘されてきました。こうした状況が最新技術を活用してリスク判定を行うアントの融資事業の急成長を生む土壌にもなってきたのです。

マー氏にしてみれば、中国の金融システムの問題点をイノベーションで解決してきたという自負もあったものとみられます。

これに対し、金融当局はマー氏らへの指導を行ったその日に、オンラインの小口融資の過熱にブレーキをかけるべく、規制を強化する方針を示しました。タイミングが重なりすぎているようにも思えますが、こうした規制の強化は通常は短期間で決まるものではなく、一定期間検討が行われます。

このため、当局側の動きを事前に察知したマー氏が「使命感から批判に踏み切った」という見方が出ているのです。

金融当局の“怒り”のわけ

一方で、中国の金融業界に詳しい専門家は、アントが中小企業などに資金を供給してきた点を評価しつつも、本来、銀行であれば課されるはずの規制を受けず、いわば規制の“抜け穴”をつくように成長してきたとして次のように指摘します。
エコノミスト 劉勝軍氏
「アントは(事実上は)金融機関であり、倒産すれば社会の安定に大きな影響を与えるので厳密に管理しなければいけない。上場前にして、すでに巨大な力を持つようになったアントを政府は恐れるようになっていた」
実はアントの融資事業で、アント自身が出している資金は融資残高の2%程度にすぎません。融資の主な出し手は銀行で、アントは中小企業や消費者と金融機関を仲介し、その手数料で収益を得ているのです。

圧倒的なユーザー数とそのデータを持つからこそ可能な事業ですが、仮に貸し倒れが起きても、自身は大きく損をしない「おいしい」ビジネスモデルだと言えます。

アントはAIによる審査でリスクは低いとしていますが、当局は秩序のない貸し出しが膨れあがり、コントロールできなくなることを恐れたのだというのです。

習近平国家主席も激怒?

上場延期の波紋をさらに大きくしたのは、アメリカの有力紙、ウォール・ストリート・ジャーナルが「習近平国家主席がマー氏の発言に怒り、延期を命じた」と報道したことです。
この報道の真偽は明らかになっていません。

ただ、上場を止めようと思えば、審査の過程で止められたはずなのに、直前に延期されたため、何か特殊な事情があったのではないかという推測を呼んでいます。

実はマー氏はスピーチの中で習近平国家主席のことばも引用しています。
ジャック・マー氏
「習主席が統治能力を向上せよ、と言っているのは、合理的な管理の下で健全で持続的な発展を維持しろと指示しているのであり、発展できない管理をしろと言っているのではないと理解している」
政府関係者に近い金融筋は取材に対し、アントの影響力が巨大になる中で、マー氏の発言が政府の政策の方向性にまで口を挟むように聞こえたことが許されなかったと漏らしました。

統制強化の行方は?

アントグループは、当局の規制強化の方針を受けて、今後の業績見通しの大幅な修正を迫られることから上場の再申請には時間がかかるとみられます。

中国は今、民間企業に対する共産党の統制を強化し、技術革新も国が主導して進めていく姿勢を鮮明にしています。
しかし、中国のスタートアップ業界が従来の規制の枠に収まらない新たなビジネスモデルを生みだした時、それがグレーゾーンにあっても当局はある程度、黙認してきたことが世界有数のデジタル化社会への急速な変革をもたらしたと指摘されています。

マー氏もスピーチで「イノベーションは市場主導で現場から生まれる」と強調していました。

その後、マー氏は沈黙を貫いていますが、中国政府は民間企業を束縛し、マー氏の発言がむなしく聞こえるような道へと進んでいくのでしょうか。

中国経済の今後を占う分岐点に立っているのかも知れません。
中国総局記者
伊賀 亮人
平成18年入局
仙台局 沖縄局 経済部などを経て
8月から現所属
上海支局長
柳原 章人
平成20年入局
鹿児島局、中国総局を経て、現在は上海を拠点に中国の社会・政治情勢を取材