東大元学長の有馬朗人さん死去 90歳

物理学者で、東京大学の学長や文部大臣などを歴任した有馬朗人さんが亡くなりました。90歳でした。

有馬さんは昭和5年、大阪市生まれで、昭和28年に東京大学理学部を卒業し、その後東京大学の教授となり、平成元年から学長を務めたほか、平成5年からは理化学研究所の理事長も務めました。

原子核物理学の研究で優れた業績をあげ、平成5年に「日本学士院賞」を受賞したほか、平成10年にはフランスで最も名誉ある国家勲章「レジオン・ドヌール勲章」を受けています。

また、平成10年に参議院議員選挙で初当選し、文部大臣や科学技術庁長官を務めたほか、日本科学技術振興財団の会長などを歴任し、日本の科学技術の振興や教育改革などに取り組みました。

平成16年に文化功労者に選ばれたほか、平成22年には文化勲章を受章しています。

平成18年からは中高一貫校や大学を運営する武蔵学園の学園長を、平成22年からは静岡文化芸術大学の理事長を務め、平成27年からは安全管理上の問題が相次いだ高速増殖炉「もんじゅ」について議論するために設置された文部科学省の検討会で座長を務めました。

また、俳人としても知られ、句誌「天為」を主宰していたほか、平成29年の句集「黙示」などで毎日芸術賞を受賞しています。

平成29年には世界の伝統文化などを保護するユネスコの無形文化遺産として、新たに「俳句」の登録を目指そうと、協議会を設立しました。

一方、有馬さんは平成17年の新聞社への寄稿で、「物理学者としてノーベル賞を受賞してこそ認められるが、研究以外のいろいろなことをやり学問を究められなかった」と振り返っていて、政治や行政に携わったことは「人生の痛恨事」だったと語っています。

関係者によりますと7日午前、東京・世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、その後、死亡が確認されたということです。

原子核物理学の研究者

有馬朗人さんは原子核物理学の研究者で、原子力行政に深く関わったほか、臨界事故の対応などにも当たりました。

有馬さんは、将来にわたってエネルギーを確保していくには、使用済みの核燃料を再処理して何度も利用する「核燃料サイクル政策」が欠かせないとし、政策の中核的な施設として開発された高速増殖炉「もんじゅ」などに関わってきました。

平成11年には科学技術庁長官として、ナトリウム漏れ事故で「もんじゅ」が長期停止する中、運転再開に向けて取り組み、現地を訪れた際には「高速増殖炉は、日本が世界に誇れる最先端の技術であり、21世紀の日本のエネルギーを確保していくうえでも、できるだけ早期に運転を再開したい」と述べ、地元、福井県の知事に理解や協力を求めていました。

平成27年からは、安全管理上の問題が相次いだ「もんじゅ」の運営を立て直すため、文部科学省が設けた検討会で半年間、座長を務めました。

平成28年5月の最後の会合で報告書が取りまとめられた際、有馬さんは「将来の日本のエネルギー、人類のエネルギーをどうするのか、きちんと考えていくべきだ。新エネルギー、再生可能エネルギーの必要性は十分あるわけだが、同時に原子力などの新しい技術を国を挙げてしっかり検討をしてほしい」と要望していました。

ただ「もんじゅ」は、その後、相次ぐトラブルやコストを理由に、政府が廃炉を決めました。

有馬さんは、科学技術庁長官だった平成11年9月に、茨城県東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」で起きた臨界事故で当初、対応にも当たりました。

事故の8日後には村長に対して、国が得た事故に関する情報を十分伝えられなかったことや、科学技術庁として、事前の審査が甘かったことなどを陳謝しました。

この事故では、2人の作業員が大量の被ばくで亡くなったほか、周辺の住民など600人以上が被ばくするなどしていて、当時、国内最悪の原子力事故とも呼ばれました。

また、平成23年に起きた福島第一原発の事故のあとは、有馬さんは政府へ提言する活動などを行い、この中で福島の復興と廃炉に全力を尽くすとともに、徹底した安全性の確保を前提に、原発を再稼働することを訴えていました。

有馬さんはNHKの取材に対して、高速増殖炉や再処理工場といった核燃料サイクルの中核施設が行き詰まっていることに触れ、経済産業省や文部科学省など、政府が具体的に進めなければ、開発が進む中国やロシアなどと比べて原子力技術の後進国となるおそれもあると懸念を示していました。

そのうえで有馬さんは、原発事故の反省を踏まえ、将来の世代のためにエネルギーをどうするかや、原発から出る廃棄物処分の問題をどうするのかなどについて、自分たちの世代が考えて進めていく責任があるとしていました。

原子力規制委 田中初代委員長「臨界事故で落ち着いて対応」

原子力規制委員会の初代委員長を務めた田中俊一さんは「戦後、日本が原子力利用を推進しようと動いてきた中、いろいろな立場で支えてきた方だった。もともと有馬さんが専門とする原子核物理学と、原子力を広く利用研究しようという学問の間には、研究者どうしに壁があったが、それを乗り越えて発展させようとする道を作ってきた」と振り返りました。

茨城県東海村の事故対応について、田中さんは「私も専門家のひとりとして事故の収束に臨んだが、施設の周辺に影響を与えるようなとても大きな事故で、現場は非常にばたついていた。そうした状況にあっても落ち着いて状況を科学的に分析し、対応していたのを覚えている」と話していました。