脱ダムを撤回 知事はなぜ

脱ダムを撤回 知事はなぜ
「脱ダム」
かつては“東の八ッ場、西の川辺川”と、ダム計画の白紙撤回で話題を集めた熊本県知事の蒲島郁夫。
そんな彼が12年前の決断を一転し、ダム建設を容認した。
65人の県民の命を奪った豪雨災害から4か月後、彼が翻意した理由とは何だったのか。
(高橋遼平、丸山彩季)

「12年前と同じ使命感」

11月19日、蒲島の姿は熊本県議会本会議場の壇上にあった。

黙とうをささげ、議場を埋め尽くす報道陣と県議たちの視線が注がれるなか、口を開いた。
「12年前、同じ議場において、私自身が決断した問題に再び向き合うことに、重大な責任と、運命にも似た『使命感』を持ち、この場に立っている」
12年前のあの日――
蒲島は同じ県議会の場で「ダムによらない治水対策を、極限まで追求する」と述べ、「川辺川ダム計画」の白紙撤回を表明した。

その自身の決断を180度転換し、国に川辺川でのダムの建設を求めたのだった。

地域を二分する対立が

球磨川最大の支流である川辺川にダム計画が持ち上がったのは、今から半世紀余り前の1966年のことだ。
その前年に発生した球磨川の氾濫がきっかけだった。
この災害で約1万4000棟が被災し、国は80年に1度の洪水にも対応できる川辺川ダムの建設を打ち出した。

しかしダム建設で水没する地域の住民や、川辺川の環境悪化を懸念する流域の漁業者らが反対運動を展開。計画は遅々として進まず、ダムの是非をめぐって地域を二分する対立が続いた。

“脱ダム”の象徴に

そうした中で蒲島は知事に就いた。

蒲島の経歴は異色だ。
県内の公立高校を卒業後、農協職員を経てハーバード大学に留学、政治学者となった。
そして、東京大学の教授から12年前の知事選挙で初当選した。
真っ先に取り組んだのが川辺川ダムの問題だった。折しも「コンクリートから人へ」のスローガンを掲げた旧民主党が躍進するタイミングと重なった。

「民意はダムによらない治水を望み、川を守っていくことを選択している」

蒲島が表明したダム建設の白紙撤回は、地元紙の世論調査で8割以上の県民が支持した。
流域自治体のトップも相次いでダム反対を打ち出していた。
翌年、民主党政権はダムの建設計画を中止に。蒲島は一躍“脱ダム”の象徴となった。

「ダムによらない治水」難航

しかし「ダムによらない治水対策」の具体化は難航した。

国や流域自治体との間で行われた検討では、川底の掘削や川の拡幅、遊水池の整備などいくつものアイデアが打ち出されたが、いずれも治水効果が限定的だった。

そして去年には複数の対策を組み合わせた10通りの具体案がまとまった。
問題は工期と費用だった。
工期は45年から最長で200年に及ぶものだった。
費用も2800億円から1兆2000億円という試算で、実現可能性に乏しかった。

抜本的な対策が講じられないまま、12年の月日が流れた。
その状態の中で7月、球磨川流域を記録的な豪雨が襲ったのだ。

甚大な被害「それでもダム計画復活はない」

浸水家屋は6000棟以上。65人が犠牲となり、今も2人の行方がわかっていない。

被災地に駆けつけた蒲島は、甚大な被害を目の当たりにし、ショックを隠しきれなかった。
「変わり果てた球磨川の姿に驚がくしている。被害を重く受け止めている」
「ダムによらない治水を模索した12年間は結論さえ見いだせず、空白の時間だった」(流域の市町村長)
「ダム工事の着工直前に知事が代わって建設をやめた。一種の人災だ」(経団連幹部)

“ダムによらない治水対策”を主導した蒲島に、各方面から厳しい声があがった。

それでも蒲島は
「私が在任中はダム計画の復活はない。改めてダムによらない治水を極限まで追求する」
とこれまでの姿勢を貫いた。

しかし被害の全容が明らかになるにつれ、
「ダムがあれば救えた命があったのではないか…」
という思いも、蒲島には浮かんだという。

そこに国から、あるシミュレーションの結果が示された。

“ダムで浸水面積6割減らせた”

「川辺川ダムが建設されていれば今回の豪雨で、球磨川の流量を4割程度カットできた」
8月下旬に国が示したシミュレーションの速報値は、ダムがもたらす治水効果を強調したものだった。

これを機に蒲島の姿勢が徐々に変化していく。
「ダムも選択肢の1つだ」と公言するようになり、年内の早い時期に治水対策の方向性を表明する考えを示した。
さらに10月に国は、川辺川ダムがあったとしてもすべての被害を防ぐことはできなかったとする一方、「ダムがあれば浸水面積を6割減らせた」などとする検証結果を示し、流域の市町村長を中心にダム建設を求める声が高まった。

民意を探る旅

ダム建設か、否か。
蒲島は再び決断を迫られることになった。

政治学者として「世論調査の専門家」を自負してきた蒲島は、その判断のよりどころを流域の民意の中に求めた。

10月中旬以降、公務の合間をぬって被災地に何度も足を運び、住民のほか観光業など各団体からも意見を聞いた。こうした意見聴取は1か月で30回を数え、人数はのべ500人近くに上った。
「安心して暮らせるようにしてほしい」
「清流が失われ、観光などのなりわいが衰退する」

賛否は分かれたものの、蒲島はこの時「ダム建設を白紙撤回した当時と比べ、民意は大きく動いているように感じる」と話し、ダム建設に傾く胸の内をのぞかせた。

無視できぬ“清流への思い”

その一方で蒲島は川辺川の環境を守ることにもこだわった。

川辺川は去年まで14年連続で環境省から最も水質のよい川の1つに選ばれている清流だ。
30センチを越える「尺鮎」を育み、地元の産業を支える観光資源となってきた。
「清流を次の世代に残すことが今を生きる者の使命だ」
それはダム建設反対の根底にある住民の共通の思いだった。
ある川漁師は言った。
「ダムができれば川は死ぬ。川が死ぬときは川漁師が死ぬときだ」

「県民の命」と「清流の環境」をどう両立させるのか。
葛藤が続く中で11月に入り、関係者から有力な情報が伝わってきた。

浮上する「流水型ダム」

「知事が念頭に置いているのは『流水型ダム』だ」
「流水型ダム」とは、大雨の時だけ水をためるタイプで、ふだんはそのまま流す。川の水や砂の流れを維持できるため、環境への負荷は小さいとされる。
蒲島は河川工学の専門家らを集めた意見聴取の場で、「流水型ダム」の効果を尋ねた。
そしてダムに否定的な見解を示した専門家には、こう気色ばんだ。
「政治家として理想と現実の間で苦しんでいる。しかし65人の命が失われた事実は重い」

その姿は、何かにすがろうとしているかのようにも見えた。

「単純なダム回帰でない」

「“命”と“環境”を守り、両立すること、この願いを極限まで突き詰めたとき、これまでの『ダムか、非ダムか』という二項対立を越えた決断が必要だ。ダムを流水型にすることで環境に極限まで配慮する」

11月19日、蒲島は12年前に川辺川ダム計画を白紙撤回した県議会の同じ場所で、これまでのダムによらない治水対策を転換。
国に川辺川での流水型ダムの建設を求めた。そして同時に『貯留型』として計画されていた従来のダム計画の“完全廃止”を迫った。
その直後に開かれた記者会見。
蒲島は『川辺川ダム計画は100%否定した』と述べ、単純なダム回帰ではないことを強調してみせた。一方で複雑な心情も吐露した。
「信念をもって政治家として一度決断したことを、自分の手で変えなければいけないというのは本当につらい」

“歴史法廷の被告人”として

県議会でダム建設容認を表明する2日前、蒲島はNHKのインタビューに応じた。

豪雨災害のあと、どう感情が変わったのか。
「12年前の決断はあの時点では正しい決断だったと思う。多くの方がダムによらない治水を求めていて、民意に沿って粛々と進めてきた。しかし7月の豪雨で状況が一変し、その変わり果てた姿に驚がくして、2度とこのような洪水を生じさせてはならないというのが、私の正直な感情の変化だ」
そしてみずからに言い聞かせるように続けた。
「『命』か『環境』かではなく、『命』も『環境』も守ってくれというのが民意だと思う。経験したことがない大きな災害で何もしないという選択肢はない。その選択が正しいかどうかは歴史が判断することだ。『政治家は歴史法廷の被告人』というのは中曽根元首相の言葉だけれども、まさにその通りだ」

政治学者だった蒲島は、昭和の宰相が残した「歴史法廷の被告人」という言葉をみずからの姿に重ねた。

決断の果てに

「英断だ」「拙速だ」「流水型でも環境は守れない」
蒲島が下した決断に反応はさまざまで、対立の再燃も懸念されている。
「流水型ダム」の建設に向けても、環境アセスメントの実施や漁業権の補償問題など課題は山積だ。

ダムの完成には、これから10年程はかかる。
その間の治水対策を含めて、「命」と「環境」をどう守っていくか。
「歴史法廷の被告人」としての彼の決断は、どのような評価を受けることになるのだろうか。
(文中敬称略)
熊本局記者
高橋 遼平
2016年入局。熊本県政キャップ。豪雨直後は人吉の前線で取材。
熊本局記者
丸山 彩季
2018年入局。警察・司法担当を経て20年9月から熊本県政担当。熊本地震や豪雨被災地の取材も継続。