生き残って、すみません

生き残って、すみません
「すみません」
当時13歳だった女の子は、あの日から、ずっとこんな思いを胸に抱えたまま、きょうまでの長い人生を生きてきました。偶然、その日学校を休んだから、みんなと一緒にいられなかった。そして、生き残ってしまった。だから、彼女は「すみません」ということばしか見つけられないのです。(国際部記者 栄久庵耕児)

あの日、みんないなくなった

「自分が悪いことをした感じがずっとあって、それは今も消えません」
ことし88歳を迎えた関千枝子さん、旧姓・富永さんは、75年前のことを思い出しながら、ゆっくりと話しました。

あの日の朝、富永さんを自宅まで迎えに来てくれた同級生の声を思い出すたび、「すみません」と思うのだそうです。

何が起きた

「富永さん」

8月6日も、仲よしの同級生、為数美智子さんの声が家の外から聞こえました。

当時は、戦時中で、女性も子どもたちもがれきの片づけなどをするために働かなければならず、この日も、その「勤労奉仕」の日でした。

でも、富永さんは前日に食べ過ぎた果物のせいか、おなかを壊して寝込んでいました。

学校を休めば、非国民と言われる時代。休みたくありませんでしたが、母親から休むように言われ、しかたなく横になっていました。

美智子さんは母親からそのことを伝えられると「先生に言っておきます」と言って、1人で学校に向かってしまいました。

それからほどなくたった時でした。

一瞬の閃光と強烈な爆発音。

午前8時15分、原爆が投下されました。
爆心地から3キロほど離れた家にいた富永さんにはけがはありませんでした。

翌日、友だちのことが気になり、学校へ向かいました。大勢の人たちが横たわっていました。

その中に同級生の文枝さんの姿を見つけました。

でも、顔は焼けただれ、膨れ上がっていました。

変わり果てた友だちを前に、涙を流すことしかできませんでした。

前日の朝迎えに来てくれた美智子さんも探しました。

やっとのことで会えた彼女は、顔や手足が焼けただれ、同じくやけどを負った母親と一緒に、自宅で寝ていました。

「学校を休んでよかったね」

そう言ったのは、美智子さんの母親でした。怒っているのではなく、優しい口調。

でも、とても悲しい気持ちになって、返事をすることができませんでした。富永さんは、逃げるようにして美智子さんの家を出ました。

その後も、何度も美智子さんの家の前を通りましたが、どうしても家の中に入ることができませんでした。

そしてその後、人づてに亡くなったことを知りました。
広島市内で空襲による延焼を防ぐため、瓦を運ぶ作業にあたっていた同級生の少女たち。

原爆の投下から2週間以内に、およそ40人が亡くなりました。

お許しください

「お許しください 級友のみなさま」

原爆から7か月後の3月。広島市内で、追悼行事が行われました。

富永さんの同級生で、勤労奉仕の作業をしていながらも1人だけ奇跡的に生き残った坂本節子さんは、弔辞の最後、涙を流しながら、みんなに謝っていました。

会場の後ろでそのことばを聞いていた富永さん。

自分は生き残り、変わり果てた姿の友だちに何もしてあげられなかった、こうした思いは、お互い生き残った者どうし、あえて触れないでいました。

亡くなった彼女たちのことを思うと、「すみません」という気持ちになり、ことばにすることができませんでした。坂本さんも一緒でした。

原爆のことを話さない。

これは富永さんたちに限ったことではありません。

娘が書いた習字1枚まで遺品すべてを焼いた父親がいます。原爆について話すことを一切禁じた家族もいます。

原爆は、被爆者を寡黙にさせる。

多くの人たちにとっての現実でした。

記録に残すことが供養

ずっと、みんなのことが心の片隅にありました。

あの日になるたび、生き残ってしまったことを悔いる、あの気持ちがよみがえるのでした。

原爆から30年ほどの歳月が過ぎたころ、富永さんは、広島の原爆に関する本の編集に携わりました。

何もしてあげられなかった級友のためにと、遺族に本を贈りました。そして家を訪ね、遺族から話を聞きました。

ある家族は、失った娘のことを語ってくれました。それは、あふれるような娘への思いでした。

亡くなった人たちのことを話さないからといって、家族への思いが消えるわけではない。一方で、彼女たちのことを記録したものは残されておらず、遺族も年老いていずれ亡くなってしまう。

彼女たちの生きた証しは、いつしか忘れ去られてしまうのではないか。

「同級生の生きた記録を残すことが、みんなの供養になる」

富永さんは、クラス全員の遺族などのもとを訪れて、少女たちの人となり、そしてその最期を記録していきました。

およそ40人の記録は、10年近くかけて1冊の本になりました。

原爆で死んだ級友たち

本を書く過程で、富永さんは、自分がたまたま学校を休んでいたことで見ないで済んだこと、そしてみんなが見ていたことを知ることができました。

8時15分の直前。

同級生たちは、B29が上空に飛んでいることに気づきました。

担任の先生や何人かの生徒たちが瓦を持ったまま空を見上げます。

パラシュートが落ちてくるのが見えました。

指を指して騒いでいる子もいました。

その瞬間、空が真っ黄色になり、ピカっと光ったと思うと体が吹き飛ばされ、あたりは真っ暗になっていました。

気づくと担任の先生が病院に向かうように叫んでいます。

目が見えなくなり、友だちと手をつないで病院を目指す子がいました。

やけどのせいで、手の皮がどろどろにめくれ、手を握り合うこともできずに、離ればなれになった子もいました。
そして富永さんは、母親や父親をはじめとする遺族から彼女たちが亡くなる直前の様子を聞き、改めて「生き残って、すみません」と心の中でみんなに謝りながら、彼女たちのことを本につづりました。
田中マサ子さん、活発でクラスで目立つ存在だった。
「マサ子は、意識だけははっきりしていた。友だちの名をよび、波多先生の名をよんだ」
「予科練の歌を歌い出し、お母ちゃんも一緒に歌って、というので歌ってやりました」
(母親の綾子さんの話として)
森沢妙子さん、運動神経が良く、豪快な性格だった。
「妙子は、身体中が焼けただれ、見ても自分の子と信じられないような姿である」
「うなされ、うわごとをいいつづけましてな。あまり、お父さんとか、お母さんとかいわんのですよ。仕事のことというか…、あんた、あれをしんさい、とか、ちゃんと並びんさいとか、指図しよりましてな…」
(父親の雄三さんの話として)
石川清子さん、叔父の家が文房具屋、連れられてよく一緒に行った。
「水をやると死ぬからと禁じられ、十分やれなかった。今でもこれが心残り」
「どろどろになった指がくっついてしまうのを気にして、お母さん、指開く?ときく。開く、開く、直してあげるけん、というとうなずき、痛いとは絶対にいわなかった」
(母親のチエ子さんの話として)
※「」内はいずれも本からの引用。

折り鶴のペンダント

本を出版してから、富永さんは各地の学校などを訪れ、あの日のことを伝える取り組みを続けています。

亡くなった彼女たちのことを通して、多くの人たちに核兵器のことを考えてもらいたかったからです。
富永さん
「ある夏、夢の中で美智子さんが私を呼ぶ声が聞こえたんです。そしてクラスのみんなが言うんです。『なんでこの爆弾がなくならないの?』って」
世界から核兵器がなくなってほしい。

富永さんが、伝えたいメッセージです。

その思いは、若い世代にも伝わっています。

富永さんが「宝物」として大切にしているものがあります。

手作りの折り鶴のペンダントです。
原爆の投下から75年となることしの夏、かつて富永さんの話を聞いた大学生の女性から贈られたものです。
富永さん
「彼女は、8月6日のことを知らない人たちに、SNSを使って伝えてくれています。それぞれができることをやる。それが本当の継承だと思います」

核兵器の廃絶に向けて

ことし10月。核兵器の開発、保有、使用を禁じる核兵器禁止条約が来年1月に発効することになりました。

日本政府は、核廃絶というゴールは共有しているとした上で、安全保障上の脅威に適切に対処しながら、核軍縮を前進させる日本のアプローチとは異なるとして、署名は行わない考えを示しています。

富永さんは、条約が発効することについて、「大きな一歩だと思います。級友たちの本当の供養は、核兵器がなくなることしかないんです」と力強く話しました。

核兵器で命を奪われるようなことが二度と起きないように。

誰も「すみません」という気持ちにならなくてすむように。

私たち1人1人が考えていかなければならないと思います。
国際部記者
栄久庵耕児
平成21年入局
松山局・盛岡局・横浜局を経て現所属
中国の取材を担当
原爆で祖父と伯母を亡くす