“ラストバンカー”が遺したもの ~危機の時代のトップとは

“ラストバンカー”が遺したもの ~危機の時代のトップとは
「三井住友銀行」の初代頭取を務め、その圧倒的な存在感から「顔が見える最後の頭取=ラストバンカー」と呼ばれた西川善文氏。「安宅産業」や「イトマン」など経済史に残る経営破綻の処理から、バブル崩壊後の不良債権処理まで常に危機の最前線に立ち、ことし9月に82歳でその生涯を閉じた。世界が「コロナ禍」という経験したことのない危機に直面する今、日本経済の難局に挑み続けた西川氏が遺したものとは一体何だったのか、改めて考えたい。(経済部記者 渡邊功)

お別れの会

11月25日、都内のホテルで西川善文氏の「お別れの会」が開かれた。新型コロナウイルスの感染防止を考慮し、時間帯を分散させての開催となったが、西川氏とゆかりがあった大企業のトップをはじめ、総理大臣経験者などおよそ1380人が参列した。

会場には、生前、熱烈なファンだったという阪神タイガースの法被を着た写真なども用意され、出席者たちは思い出話に花を咲かせていた。

危機の時代の頭取

日本の金融史に名を残す西川善文氏とは、一体どういう人物だったのか。

西川氏は昭和13年、奈良県高市郡畝傍町(現在の橿原市)で5人姉弟の長男として生まれた。

学生時代、新聞記者を志していた西川氏だったが、昭和36年、住友銀行に入行。面接時には、後におよそ15年にわたって住友銀行のトップを務め、「住銀の天皇」とも言われた磯田一郎氏にも出会っている。

その後、企業の実態調査を行う調査部や、審査部をへて、経営危機に陥った総合商社・旧安宅産業やイトマンの処理などで手腕を発揮して頭角を現す。

平成9年には住友銀行の頭取に就任。同年は、北海道拓殖銀行や山一証券など、大手金融機関の経営が破綻し、金融危機がまさに顕在化した年だ。
平成13年には、強いリーダーシップで旧財閥系の垣根を越え、旧住友銀行と旧さくら銀行との合併を実現させ誕生した「三井住友銀行」の初代頭取に就任した。

その後、ゼネコンやダイエーなど取引先企業の経営悪化に次々と直面し、不良債権の処理にあたった。

どんな危機でも“逃げない”

日本経済の「負の遺産」処理の最前線に立ち続けた西川氏。

危機に立ち向かうリーダーの姿を部下たちはどう見ていたのか。まず訪ねたのが、三井住友フィナンシャルグループの國部毅会長だ。國部会長は、通算でおよそ17年にわたって西川氏に仕え、その仕事ぶりを間近で見てきたという。

バンカーとしての西川氏の神髄は何か。それはどんな局面でも「逃げない」姿勢だったと國部会長は語る。
國部会長
「逃げずに立ち向かって解決策を考え、それをとことん実行していく。何か相談に行っても、その場でじっくり考えて結論や方向性を出していた。『ちょっと預からせて』というのは無く、決断力がすごかった」「トップは、時代が求める部分が大きい。西川頭取の時の最大の課題は不良債権だったので、それに対応できるほどの決断力を持つ人でないと務められなかった。まさにあの時代が求めたトップなんだと思う」
西川氏の逃げない姿勢は、頭取を退いたあと就任した日本郵政の社長時代も一貫している。
経営再建の一環として進められた「かんぽの宿」の売却をめぐり、取得価格よりはるかに安い価格で、特定企業への譲渡を急いだのではないかと、当時、強い批判を受けた。しかし西川氏は、当時、正規・非正規含めて3000人余りいた社員の雇用を守ろうと、売却価格よりも雇用の継続を優先条件とし、一括での売却を目指したためだったと、後に明かしている。

どんな難題も、逃げずにすべてを受け止め、決断する。そこが西川氏の真骨頂だった。

西川氏は、組織を率いるトップの心構えについて、自著で次のように記している。
「ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録」より
「リーダーシップとは、直面する難題から逃げないことである。リーダーが逃げないから部下も逃げないし、前のめりで戦う。経営の責任者とはそういうものではないだろうか」

顔の見える頭取として

どんな危機にも逃げることなく正面から向き合ってきた西川氏。その本領は大手スーパー「ダイエー」の経営再建でも発揮された。

ダイエー側は当初、民間の投資ファンドの活用などを盛り込んだ再建計画を検討し、自力での経営再建を主張した。一方、西川氏率いる三井住友銀行は、主力取引銀行として、当時、初めてとなる「産業再生機構」の活用を表明。
西川氏は、ダイエーの創業者、中内功氏と、月に1回、極秘裏にホテルの部屋で話し合いを重ね、決着に道筋をつけたという。

どんな相手にも1対1で向き合い、みずからのことばで語りかける。その様子から、顔が見える最後のバンカー「ラストバンカー」と呼ばれるようになった。
銀行再編の焦点になっていた当時の「UFJグループ」を巡り、三菱東京フィナンシャルグループとの争奪戦を繰り広げた時の対応も語りぐさだ。
2004年当時、UFJホールディングス傘下のUFJ信託銀行は、住友信託銀行に売却されることで合意していたが、UFJ側が白紙撤回。直後に三菱東京フィナンシャルグループとの経営統合協議を開始すると発表した。これに対抗しようと、西川氏は交渉に割って入る形でUFJ側に経営統合を申し入れるという奇襲に打って出た。

交渉は不調に終わったが、UFJ側の価値を当時の株価水準より高く評価し、一対一の対等の形で統合するといった具体案を公表して統合を迫るなど、それまでの企業再編には見られなかった手法で豪腕ぶりを見せつけた。

引き継がれる“西川イズム”

数々の修羅場を踏んできた西川氏。その姿勢は、いまも一線のバンカーに引き継がれている。西川氏が住友銀行の企画部長だった時代などに仕えたという同行の幹部はこう語る。
三井住友銀行幹部
「私心がなく、“自分が”という事が本当にない人だった。とにかく自分たちの銀行を強くしたい。それをひたすら考え続け、現状維持は許してくれない人だった」
大阪を創業の地とする住友銀行出身の西川氏。のちに住友銀行は全国区での展開に向け東京に進出したが、当初は富士銀行や第一勧業銀行などに水をあけられていたという。

その後、当時のさくら銀行との合併にもこぎつけ、三井住友銀行をメガバンクの一角にまで押し上げた。西川氏は、いかにトップの銀行に追いつき追い越すか、常に考えていたという。
三井住友銀行幹部
「新しいことをやらないといけない。早く動かないといけない。甘えも排除しないといけない。こうした『住友銀行イズム』を西川さんはもっとも体現していた人だった。それは『西川イズム』としても、今の三井住友に伝わっているのではないか」
金融業界では、長引く超低金利などで厳しい経営環境が続いていることに加え、新型コロナウイルスによって、先行きが見通せない状況が続いている。
三井住友フィナンシャルグループは、従来の銀行の“殻”を破って新たな領域に挑戦するため、デジタル分野の会社を9社設立するなど、金融以外へのすそ野を広げている。

こういったところにも、脈々と伝わる西川氏の哲学がかい間見える。

危機の時代のトップとは

「ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録」より
「日本はずっと危機の時代にいた。(中略)平時であったことのほうがはるかに少ないのである。にもかかわらず、私たち日本人は打ち続く危機を次々と克服して、若い世代に未来を託そうと懸命に努力してきた。現下の危機もきっと克服できる」
西川氏が頭取をつとめた8年間は、バブル崩壊後、日本経済が危機に直面した時代だった。しかし、取引先企業の破たん処理や、不良債権処理という難題にもひるまず、逃げず、正面から立ち向かい、三井住友フィナンシャルグループの経営基盤を築いた。

西川氏の座右の銘は、「孟子」の「為さざるなり。能わざるに非ざるなり」
「できないのは能力がないからではなく、やっていないからだ」という意味だ。

2020年、世界は新型コロナウイルスの感染拡大に揺さぶられている。誰もが予想していなかった異常事態だ。
「平時」とは言えない今、組織を率いるトップの姿勢とは、一体どうあるべきか。口を真一文字に結び、鋭い眼光をたたえる西川氏の遺影を見上げた時、そのことの意味をいま一度考えなければならないと心に誓った。
経済部記者
渡邊功
平成24年入局
和歌山放送局を経て経済部
現在、銀行業界を担当