没後50年 三島由紀夫と自衛隊

作家の三島由紀夫が、自衛隊駐屯地の一角を占拠してクーデターを呼びかけ、その後、自ら命を絶った事件から、25日で50年です。
自衛隊を治安出動させ、政府に憲法改正を認めさせようとした三島。事件の3年前、三島と接触を重ねていた、ある自衛官がいました。
のちに陸上自衛隊のトップ・陸上幕僚長を務めた冨澤暉さんです。
三島とどんなやり取りがあったのか、話を聞きました。
(聞き手:政経・国際番組部 宮川徹志 社会部 南井遼太郎)

(記者)
三島由紀夫と出会ったのは、何がきっかけだったのでしょうか。

(冨澤さん)
その前に、きょう、ちょうどここに持ってきたものがあります。僕が三島に会った証拠品っていうのはないんだけれども、三島の書簡集というのがあるんですよ。

ここにね、昭和42年5月11日の封書が義理の父の藤原岩市のところに来ているんですよ。

ここに何が書いてあるかというと「前略その後御無沙汰してをります。日外(いつぞや)御出での節は、実に嬉しく、お懐かしく存じました。冨沢一尉のお宅まで御帯同下さつて、忘れがたい愉しい一夕でありました。その後、お蔭様で、元気でスケジュールを消化してをり、昨日を以てAOC(注:陸上自衛隊の幹部上級課程)を離れ、今日はレンジャー部隊へ入校いたし、張り切ってをります」と。

「AOCではすつかり戦術が面白くなり、なぜ早く、こんなに面白い学問を知らなかつたのか、と悔んでをります。AOCの中にも、胸襟を開いて話せる友を得ました」

これはもう明らかに私の同期のことなんだ。それで、この人と話せるなと思ったんだね。

「冨沢一尉にも親友の方々を集めていただき、一夕、相当突つ込んだ議論をして、青年将校の意気に触れました」と書いてあります。

ここに出てくる冨澤一尉が私のことです。
(記者)
まさに、この手紙に書いてあることについて詳しく聞きたいんですが、藤原岩市さんがきっかけで知り合ったのでしょうか?

(冨澤さん)
おっしゃるとおり、手紙に出てきた藤原岩市っていう男は、私から言うと女房のおやじなんですよ。藤原は、田中清玄と比較的自衛隊を辞める前後から親しくなっていた。それで、東大の先輩の田中のところに三島が行ったらしいんだ。「自衛隊っていうものを体験したい」と。

三島が「誰か自衛隊の人を紹介してくれ」って言ったら、田中が「自衛隊のことなら今ちょうど自衛隊を退職したばかりの人のほうが動きやすいだろうから、退職したばかりの藤原さんのところへ行きなさい」って言って藤原を紹介したっていうのが、最初なんだ。

それで、藤原と三島は田中の紹介で会って、どういうところに意気投合したのか知らんが意気投合したんでしょう。

「じゃあ、できるだけのことはやりましょう」と言って、藤原が三島に紹介したのは、まずは自分の先輩と同期だった人物。

藤原は、さらにこれから部隊の現場を見ないといかんでしょうということで藤原は小平の調査学校の校長をやっていたので、何でも言うことを聞いてくれる調査学校の後輩を紹介したわけですよ。

その後輩に三島を預けると、後輩が得意になって「情報っていうのはどうやって取るか」と言って、三島に手ぬぐいか何かをかぶせて「山谷の近くで何かやってるから、それを見に行こう」って言って、山谷に汚い格好をして三島を連れて行って情報収集っていうのはこういう風ににやるんだと教えていた。

そして、藤原が「情報は情報として大切なんだけど、やっぱり自衛隊ということになれば歩兵戦を行う部隊や大砲の部隊など主力部隊を知る必要がある」と。「将来の自衛隊を背負った多くの自衛官は富士学校へ行くから、そこに行きなさい」と。「富士学校に行って勉強したらいいよ」と。

富士学校にも藤原は親しい後輩がいたので、後輩が三島の希望に応じて教育してくれるはずだと。そういう経緯で、三島は富士学校へ来ることになったわけです。

三島は富士学校に行って、富士学校の独身宿舎に彼が入って何日かした時に藤原が三島の様子を見に来たわけです。

当時、私は富士学校の戦車教導隊というところにいて、静岡県の御殿場に住んでいたのですが、藤原が三島に「実は、私の娘夫婦が御殿場に住んでいるんだけど、今の若い自衛官の生活ぶりっていうのも、ちょっとご覧になりますか」と言ったわけね。

そしたら「それは願ってもない。ぜひ行きたい」ということで、私たちのところに連絡があり、藤原が「三島さんを連れてくる」と言うから女房が準備して待っていたわけですよ。

ある日の夕方です。藤原が三島を帯同して連れて、私の家へ来たわけですよ。4畳半にちゃぶ台を置いてね、藤原と三島が座って、僕も座って話したんですよ。

うちの娘が2歳ぐらいでね、ちょろちょろ出てきたわけですよ。そしたら、しかたがないから三島が少しかまってくれてね。うちの娘に「なかなか良いお顔したお嬢さんですね」とかお世辞を言って、犬の絵と猫の絵を描いてくれたんですよ。
(記者)
ご自宅に来られたのが初めての対面だったのですね。ほかにはどんな話があったのでしょうか。

(冨澤さん)
あとはつまらん話ですね。その中でやや面白かったのは、僕もね、当時、三島の「憂国」は読んでいたんですよ。僕はあまり文学好きじゃないけど、「憂国」という本はちょっと面白いと思った。

「憂国」は、二・二六事件の将校の話なんですよ。三島は二・二六事件を鎮圧した石原莞爾という男を尊敬していたんです。それで石原の話になったんです。

僕は、実父が冨澤有爲男という芥川賞作家だったんですが、戦時中の昭和19年に各地の造船所の工員を励ます活動を行っていた。慰問みたいなものです。

東北地方を回った時に僕も幼稚園を卒業する前に実父に連れられて、山形県鶴岡市を訪ねた時に、当時、石原が鶴岡市に住んでいてそこで会ったことがあると三島に伝えました。

そうすると、三島は「えっ」て驚いていた。私が石原に会った話をしたら、三島がすごく興味を持って「冨澤さん、石原さんはどんな感じでした」と聞いてきた。

私はその時は子どもでしたが「何か精神的な病気をしているような顔をしていた」と記憶していて、それを伝えたら三島が急に怒り出したんだよね。

「石原閣下は、そんなファナティック(狂信的)であったはずがない」と言った。それだけが印象的だ。あとは自衛隊の階級の話とか、階級章の話とか。「今、何をやっているんですか」とかね。

あの頃、戦車教導隊の中隊長代理だったんだね。隊員が何人いるかとかね、そういう話しかしなかった。ただ、三島が帰る時に「冨澤さん、誰でもいいんですけども、あなたの同期生とお話ししたいんで、ちょっと呼んでくれませんか」と言ってきた。「その代わり食事代は私が出しますから、どんなところでもいいです。セットしてください」って。

それで、御殿場なんて田舎ですから大した料亭はないんだけど、あの頃、御殿場で一番高級だと言われた料亭でセットして集めたんですよ。
(記者)
そこでの会合が、2回目の接触になるわけですね。三島は若手幹部たちを前に何を語ったのでしょうか。

(冨澤さん)
三島に依頼されて、私は教導隊に勤務している連中とそれから教官をやっている連中で親しいやつを集めたんですよ。僕と、たぶん5人だったと思うんですけど、それで三島と会って飲み始めてね。

最初は他愛のないものを話したんだけども、そのうち彼がこの話をしたんですよ。要するに、治安出動訓練の話もしていたんだと思うんですよ。「あなた方は、治安出動訓練をやっていますか」っていうような話でね。
実際、昭和42年には訓練をやっていましたから。だから、僕らは戦車部隊なのに治安出動には合わないんだけども「一応やっているんですよ」なんて言ったんでしょう。

そして三島が「東京の学生運動で連中が騒いで石を投げて騒いだ時に、あなた方出るでしょう?」と言うから「いや、その時は出るか出ないかは分かりませんけど」と答えた。

昭和42年ですからね、まだまだ出る可能性があった訳ですよ。だからこそ治安出動訓練をやっていた訳ですよ。僕らね。

でも、だいたい戦車部隊なんていうのが治安出動で出たらおしまいでしょう。だけど、訓練しろっていうから、実際、富士の演習場で僕らはやったんですよ。戦車を並べて。

それでね、学生の連中は火炎瓶を投げるというんですよ。そしたらね、僕らの戦車には、もうディーゼル式の戦車も少しはあったけど、61式戦車っていうのがね、ほんの国産のわずかなんですよ。あとはアメリカの戦車。

アメリカの戦車なんか、みんなガソリン車なんですよ。ガソリン車に火炎瓶投げられると、大変なんですよ。だから、鉄のかごを作って戦車の上に載せるんですよ。だから、戦車の一番上の板のところに網の目があるんだけど、そこから火炎が中に入らないように、その上にさらにかごを作って、かごに火炎瓶を引っかければ、戦車は燃えなくて済む。

そんなことをやってんだって、たぶん言ったんじゃないかと思う。そして、三島は「いよいよ、あなた方が出る時には、私がその間に入って仲間とともに作った民兵が中に入る」と言った。

しかもね「クーデターで学生なんか“イチコロ”でしょう」って言うから、「まあ、そうでしょうね」と。「だけど、我々はそういうことはやらないんですよ」って言ったんだよね。「そんなことやるように教育されていないし、やれないですよ、現実に」って。
そしたら、そこにいた同期が「そうだ、そうだ」って、みんなそう言ったんだよ。「いや、それはできないですよ」と。

5人が5人ともそう言ったもんだから、三島は、からからと笑って、明るいですから、何せあの人は。

で、あはははと笑ってね「いや、それはそうですね。あなた方はそんなことできるわけないですよね」って言って、もうそれで終わりですよ。

それで、同期の1人に弁の立つ者がいて、三島が何か言うといろいろと食いついて「そういう考え方もあるけど、こういう考え方もある」と意見を言った。

そうすると、三島は「あなたのようなインテリにはかなわないな」って言ったんですよ。

東大の法学部を出て大蔵省に入った、天下のインテリが「あなたのようなインテリにはかなわないな」って言った時ね、要するに「おまえたちは“えせインテリ”だ」って言った。すごい皮肉を言った訳ですよ。

それを聞いた時に、もうこの人とはお互いに付き合ってもね、ばかにされた以上、付き合っても仕方がないなと僕は思いました。

その時から、僕はもう三島さんとは、もうお別れですよね。向こうもそう思っただろう「もう冨澤の仲間はやる気がない」と。

そういうことで、僕はよく三島のことを聞かれるけど、三島とはそんなに話したことないし、三島さんのお宅に呼ばれて、ロココ風の家にお呼ばれ頂いたこともないし、ご馳走も頂いたことないから、これ以上、言うことはないんですよ。

ただ、言えるとすれば、三島が一番最初に会った若手幹部であったっていうこと。年配の自衛官とはその前に会っているけども、若手幹部として一番最初に会ったのは、僕と僕らの仲間であることは間違いないです。
(記者)
なぜ、クーデターには賛同できないと言ったのでしょうか。

(冨澤さん)
要するに、三島の頭には二・二六事件があるんです。二・二六事件の時の旧日本軍と自衛隊とは全然違うんです。将校っていうのは何でもできる。三島はそう思っている訳ですよ。

自衛隊ではそんなことできないんだから、クーデターなんて能力がないんですよ。

(記者)
戦前の反省から出発した自衛隊として、思想としても受け入れられないという思いがあったのでしょうか。

(冨澤さん)
もちろん、そうです。法律的には治安出動はできるんです。警察力で抑えられない時、治安出動で弾を撃つことができる。自衛隊法には暴徒鎮圧のための武器使用においては、人に危害を与えてはいけないとは書いてない。
ただし、そういうことはやるべきじゃないというのは、僕らは防衛大学校の頃からこんこんと言われていた。せっかくここまで作った陸上自衛隊がやるべきではない。

デモをやる人たちだって、いろいろいるわけですよ。幅の広いデモをやる人たちと軍隊が対立したら、国が壊れてしまうということは僕らはみんな知っていたわけです。

戦後の自衛隊っていうのは私は旧軍に比べて進歩していると思っています。全然悪くないと思います。それは、やっぱりああいう感覚を作ったのは、旧軍の間違いの中の一つの大きな間違いです。

だからそういうことはやりませんし、できませんということなんです。

だから、アメリカのトランプ大統領が人種差別への抗議デモを抑えるために「連邦軍を出せ」って言った時に、エスパー国防長官が「それは出しません」と言った。残りわずかだけれども「辞職します」と。

そのあたりも、日本人は冷静に見てもらいたいと思うんです。自衛隊っていうのは、任務は国を守ることだって書いてあるんですよね。

それは国の独立と平和を守って、我が国の安全を確保することであるとか、そんなことが書いてある。独立と平和なんです。

国の安全のために、日本の国の独立と平和を確保するっていうことが自衛隊の任務なんですよ。