50年後の若者へ 三島由紀夫の青年論

50年後の若者へ 三島由紀夫の青年論
「数々の名作を残した天才作家」「自衛隊で割腹自殺した政治的な人物」。
そんなイメージが強い三島由紀夫ですが、次のような文章を書く一面もありました。
「自分の恋愛経験が、友だちとくらべて少い人があつても、決して人をうらやんだり、人まねをしようとしてはなりません。/あなたは一つのくだものをゆつくりと味はつて、そのくだもののほんたうの味を知つてゐるのかもしれないのです」(「わが思春期」より)
実は三島は、若者に向けたメッセージを数多く残していて、今読んでも共感できる言葉がたくさんあります。さらに晩年には、若者との対話を大切にしていた三島。没後50年の今、その言葉の意味をたどってみました。
(科学文化部記者・河合哲朗)

「思春期の思ひ出は、実に恥づかしい」

昭和を代表する文豪、三島由紀夫。『潮騒』や『金閣寺』など、詩的で華やかな文体と人間の心理への深い洞察に裏打ちされた時代を超える名作をいくつも残しました。

しかし、1970年11月25日、自衛隊の駐屯地で憲法改正のためのクーデターを呼びかけたのちに割腹自殺し、45歳でその生涯を閉じます。あまりに衝撃的な最期を迎えたこともあり、“理解しがたい人物”というイメージもあるかもしれません。

一方、三島が書き残したものをたどっていくと、『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』のような大衆誌にも多くの文章を残していることがわかります。こうした雑誌での三島の言葉はフレンドリーで軽みがあり、若者に語りかけるような印象です。
例えばこの文章。1957年に娯楽雑誌『明星』に書いたものです。
「思春期の思ひ出は、実に恥づかしいものです、ニキビの思ひ出が恥づかしいやうに。しかし、/さういふ恥づかしさを忘れ去つてしまふことが、人間の成長の道ではありません。/どんなに恥づかしい思ひ出もどこかで人生にプラスになつてをり、やがてそれがほほゑましい思ひ出にも変り、楽しい思ひ出にも変るものです。ですから、思春期の自己嫌悪は、自分で自分を、世界で一番醜悪な人間だと考へがちですが、時がたつにつれて、そのころの自分を、一番純で美しかつたと思ふやうになります」(「わが思春期」より)
半世紀以上も前の文章ですが、誰もが体験するような思春期の苦い記憶をそっと肯定してくれる言葉は、今もすんなりと響いてきます。

“弱さ”にまみれた思春期

若者へのメッセージを多く残した三島。では、自身の青年時代はどんなものだったのでしょうか。
三島が青年期を過ごしたのは戦時中。その内面はコンプレックスにまみれたものでした。

1925年に東京の裕福な家庭に生まれた三島は、生まれつきの病弱で過保護に育てられます。入退院をたびたび繰り返し、学校は頻繁に病欠。家では不要な外出は許されず、折り紙におはじき、近所の女の子とのままごとなどをして幼少期を過ごしました。

20歳の時に召集令状を受けましたが、やはり虚弱が理由で病気だと誤診されて徴兵を免れます。同級生が戦地に向かう中、弱さを理由に戦争を逃れたことは、三島自身ものちに、安堵と罪悪感が入り交じる複雑な心境だったと打ち明けています。
戦後に専業作家となった三島は、目を背けたい自分の弱さに向き合い、そのコンプレックスを作品に昇華させていきます。同性愛の葛藤を描いた自伝的小説『仮面の告白』(1949年)はその代表的な作品です。さらに三島は30歳でボディービルを始め、肉体的なコンプレックスの克服にも励みながら、傑作と称される『金閣寺』(1956年)を生み出します。

青年像に持ち込む「可能性と夢と理想」

三島が若者に向き合う姿勢は、文章だけでなく、実際の行動にも表れていました。

40代に入った三島は、創作のかたわら政治的な言動を強めていきます。一方で三島は、複数の大学を訪れて学生と自由に議論を交わす“対話”の場を設けるなど、若者と直接向き合う機会をみずから作っていました。

なぜ三島はこのように若者と向き合っていたのでしょう。1969年の「現代青年論」という文章の中では、年長者が青年に抱く羨望に近い心情について、こう記しています。
「年長者は、壮年になり、中年になり、老年になるにつれて、動物園の獣が自分の糞(ふん)にまみれてゆくやうに、利害の打算と遂げられなかつた野心への絶望にまみれてゆく。人生はだんだん面白くないことの連続になつてゆく。そのときになつて夢みるのは、自分がもう一度青年だつたらなあ、といふことしかなく、あらゆる可能性と夢と理想を青年像に持ち込む」

若き自衛官との交流

当時、大学4年生の時に三島由紀夫と出会い交流を重ねた人が、去年、その日々を1冊の本にまとめました。
この本を書いたのは元自衛官の西村繁樹さん。この本を書き上げてまもなく病気で他界し、直接話を聞くことはできませんでしたが、家族が取材に応じてくれました。

1968年7月、三島が静岡県にある滝ヶ原分屯地で自衛隊の体験入隊を行っていたとき、当時防衛大生の西村さんは「三島由紀夫が来ているらしい」と聞きつけ、数名の仲間とアポなしで三島の部屋を訪ねたといいます。当時三島はノーベル賞候補にも名前があがる、時代を代表する大作家。面識もない学生たちの突然の訪問でしたが、三島は愛想よく招き入れ、車座になって1時間近くも話に応じてくれたといいます。
体験入隊が終わってからも手紙の交流が続き、2年後の1970年には西村さんら10人ほどを自宅に招いてくれました。豪華な中華料理で歓待した三島は、「紹興酒にはざらめ糖を入れるんだ」と酒のたしなみを教え、「カニは切っても血が出ないから嫌いだ」などと談笑していたということです。この時期、三島はすでに自決の計画を具体化していましたが、この場ではただ、若き自衛官たちとの防衛談義に花を咲かせていたといいます。

「諸君の熱情は信じます。これだけは信じます」

三島の若者との対話を大切にする姿勢は、思想信条が異なる相手でも同じでした。

中でも世間の注目を集めたのが、1969年の東大全共闘との討論です。

当時は、ベトナム反戦運動や安保闘争を機に若者の熱が社会を揺り動かしている時代。その中でも東大全共闘は、大学の自治を求めた学内紛争が機動隊との衝突にまで広がるなど、活動を先鋭化させていました。
討論会は、東大安田講堂が機動隊に制圧されたあと、5月13日に開かれました。武力闘争に行き詰まりを感じた一部のメンバーが、文化による闘争に活路を見いだそうと、思想的に対極に位置する三島由紀夫を招くことを決めたのです。

企画した1人、元東大全共闘の木村修さんに、その時の会場だった「駒場キャンパス900番教室」で話を聞くことができました。木村さんがこの教室に入ったのは半世紀ぶりです。
木村さんは三島がこの誘いに乗るか半信半疑だったそうですが、電話で参加を打診すると意外にも「行きましょう」と応じたといいます。

三島はのちに、この討論に参加した心境について、「よく『最近の若いものは乱暴で困つたものだ。なんとかしなくちやいかん』といふことを年寄りは言ひますけれども、彼らの心のなかへ入つてみて、そこでぶつかつてみなくちや何も分からん。/敵に呼ばれて背中を見せるわけにはいかない」と語っています。(「日本とは何か」より)

当日の会場には、右派と左派、両者の舌戦を目撃しようと1000名を超える学生が詰めかけました。
木村修さん
「なんでこんなに数が多いんだと、三島さんの力をあらためて感じたな。満員も満員で、2階の床が抜けるんじゃないかと大学当局が心配したくらいで。三島さんが何を言うんだろうと、学生たちが聞こうとしている雰囲気がありありと出ていた」
教室の入り口には三島のことを「近代ゴリラ」と揶揄(やゆ)するポスターが貼られ、会場は緊張感に包まれていましたが、その場に現れた三島が見せたのは、敵対の姿勢ではなく、真っ向から学生に向き合おうという態度でした。

学生からは、思想、政治、国家観などについての観念的で難解な質問がぶつけられますが、三島はそれを受け流すことなく真っ正面から応えていきます。
立場を超えた“対話”を実現しようとことばを返す三島の姿を見るうちに、木村さんは気持ちが変わっていったといいます。
木村修さん
「若者に対して真っ正直な人。若者だからとかいう変な理屈がなくて、真っ正直に若者に向き合っている印象だった。三島さんはあくまで“教師”という立場を崩さなくて。僕はあの人に包容力を感じないわけがない」
2時間にわたった対話。最後に三島は次のように語ります。
「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。/その言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」
(「美と共同体と東大闘争」三島由紀夫・東大全共闘 より)
木村修さん
「最後の『諸君の熱情は信じる』という言葉。右とか左とか表面上はあったとしても、『根底まで考えろ』ということだと思う。根底まで考えた人は三島さんは認めるわけよ。根底的な対話が人間には必要だということ。あの議論に参加した1000名は、みんなそう思って大きくなったと思う」
若者と真摯(しんし)に向き合い、さまざまなメッセージを発していた三島由紀夫。没後50年の今、その言葉はどんなふうに響くでしょうか。
科学文化部記者
河合哲朗