コロナ禍で吹き出す 中国残留孤児の苦しみ

コロナ禍で吹き出す 中国残留孤児の苦しみ
太平洋戦争の混乱の中で、多くの子どもたちが残留孤児として中国に取り残されました。戦後、その多くが帰国しましたが、半数は肉親と再会できないまま、日本社会の中でひっそりと暮らしてきました。戦争の終結から75年。コロナ禍のいま、自宅に閉じこもり社会から孤立する中で、戦中戦後のつらい記憶がよみがえり苦しむ人が増えています。
(横浜局 カメラマン 桑原義人・首都圏局 ディレクター 柳田理央子)

次々に吐き出される戦争の記憶

8月上旬、都内にある介護施設で、太平洋戦争の体験を語る会が開かれました。

過去のつらい経験を分かち合うことで、心の傷を少しでも癒やしてほしいと開かれ、中国残留孤児のお年寄りなど20人が参加しました。

思い出したくないはずの過去のつらい体験を、参加者は涙ながらに、時には声を震わせ、せきを切ったように語り始めました。
「ロシア軍から逃げ惑い3つの村を転々とした、母親がおぶっていた妹を降ろした時、すでに亡くなっていた」
「収容所で母親は『あなたに教えたいことがある。ふるさとは山形県だよ』と言いながら息を引き取った」
「逃げ惑ううち、人々が次々に撃たれていった。私も撃たれ、悲鳴をあげた。今もその傷痕が残っている」

寄り添い生きる中国残留孤児の老後

語る会が開かれたのは、東京都板橋区にあるデイサービス「一笑苑・板橋」です。

3年前に、日本に住む中国残留孤児の老後を支えようとオープンしました。

通ってくるお年寄りのおよそ9割が、孤児とその家族です。

施設内の会話は中国語。

昼食には、中国東北部の家庭料理がふるまわれています。

平均年齢は80歳を越え、通所者の多くが認知症や身体的困難を抱えるなどして要介護認定を受けた人たちです。

日本語を流ちょうに話せないため、近所づきあいも少ないと言います。

同じ境遇の孤児たちが集まる一笑苑へ、居場所を求めてやってきます。

「せめて人生の最後は笑って過ごしてほしい」

施設を立ち上げたのは、残留孤児3世の三上貴世さん(48)です。

三上さんの祖母・政恵さんは、晩年は親しく話せる友人も減り、地域から孤立し、寂しそうに過ごしていました。

祖母のような孤独な老後を送ってほしくない。

みずからの後悔を胸に、施設を始めました。
残留孤児3世 三上貴世さん
「苦難の人生を歩んできた残留孤児の人たちに、せめて最後は笑って過ごしてほしい。これが私の使命だと思っています」
一笑苑に通うお年寄りは、戦中戦後に過酷な経験をしてきました。

施設では日常的に戦争体験の話が飛び交います。

しかし、コロナ禍となった今年は、施設に通えず自宅にこもる日が続きました。

感染への恐怖や先行きの見えない不安から、いつにも増して過去の記憶がトラウマとなってよみがえり、苦しむお年寄りが多いといいます。
残留孤児3世 三上貴世さん
「昼夜を問わずひっきりなしに不安を訴える電話がかかってきます。昔の敗戦で逃げ回る話や、孤児になって養母に売られた話とか悪いことを思い出してしまう。また自分が捨てられるんじゃないかとか、いろいろな妄想や幻聴が聞こえるとか。コロナに感染したとか言ってパニック状態になる人もいます」

帰国した孤児の多くが日本社会になじめず…

太平洋戦争中、国策により多くの日本人が中国東北部(旧満州地区)に渡りました。その数は32万人とも言われています。

しかし、終戦直前の1945年8月9日にソ連軍が参戦し満州へ侵攻します。戦闘の中で、多くの日本人の子どもが現地の中国人に預けられました。

厚労省の調査によると、中国残留孤児の数は2818人に上りました。

1972年に日中の国交が正常化し、1981年から日本政府による訪日調査(孤児の家族捜し)が始まりました。

孤児たちは連日テレビや新聞を通して家族との再会を訴え、感動的な再会の場面が大きなニュースとなりました。

現在までに合わせて2557人の孤児が日本に永住帰国しました。

しかし、その半数ほどの孤児は、親の身元が今も分かっていません。

多くの孤児たちは、文化の違いや言葉の壁によってなかなか日本社会になじめず、仕事に就いても安定せずに、ひっそりと暮らしてきたといいます。

「私を殺してくれればよかったのに…」

「両親に会いたい。でもどうしようもないの。今は親を恨んでいる。私を殺してくれればよかったのに…」
一笑苑での語る会で、苦しい胸の内をこぼした、稲葉富子さん(83)です。
富子さんは幼い頃に中国で親と生き別れ、孤児となりました。

しかし、そのいきさつや家族の顔、そして名前すら覚えていません。

5つの家に転々と売られ、労働力として家事や家畜の世話をして生き延びてきました。

1982年、訪日調査団の一員として、富子さんはようやく帰国します。

44歳の時でした。

家族を探すために、テレビや新聞で詳しい経歴が何度も伝えられ、富子さんは必死で訴えました。
「私の家族の皆さん、私を見てください。今回別れたら、もう会えるかわからない。できれば会いに来てください。私は自分の過去をはっきり覚えていません。すべて忘れてしまいました。許してください」
幼い頃から願い続けた帰国、そして家族との再会。

しかし、家族が見つかることはありませんでした。

中国名「富秀雲」から1字とり、富子。

名字はお世話になった人からもらい、「稲葉富子」として日本国籍を取得。

しかし、本当の名前は今も分かっていません。

帰国した稲葉さんを待ち受けていたのは、厳しい日本社会の現実でした。

小学校にも通えず、読み書きも不十分な稲葉さんにとって、日本語の習得は難しく、肉体労働など限られた仕事にしか就くことができませんでした。

日常生活でも周囲から中国人として扱われ、差別的な言葉をかけられてきたと言います。

それでも昼と夜の仕事を掛け持ちし、必死で3人の子どもを育てあげました。

肉親に会えると信じて帰国した祖国。

しかし、苦しい生活を送る中で、富子さんの気持ちは、憎しみへと変わっていったと言います。
そんな中で、コロナ禍で家にこもる日々が続き、戦中戦後の過酷な記憶を思い出すことが増え、さらに苦しむようになったと言います。
稲葉富子さん
「最近、夢の中にはいつもお墓が出てきて、みんなが倒れて亡くなっていくんです。不安で夜も眠れなくて、いろいろと考えてしまいます」
ある日、富子さんは繁華街に買い物に出かけました。

バス停に一人座る富子さん。

しばらくするとしきりに辺りを見回し始めました。
稲葉富子さん
「年配の人の顔を見て、私に似ているかを確かめる。バスに乗っても道端を歩くときにも。家族が見つかっていないから心が痛い。家族に会いたい」
日本に帰国して38年。

「恨んでいる」と言いながらも、今も変わらず家族を探し求めてきた富子さんの姿がありました。
8月15日。

富子さんは、全国戦没者追悼式をテレビで見つめていました。

1分間の黙とうを終えた富子さんは、静かに語りかけ始めました。
稲葉富子さん
「お母さん、お父さん、どこに居るの?戦争はいや。今まで苦しかったよ。お父さん、お母さん、娘は心配よ。どこに居るの?」
目に涙を浮かべながら、しばらく立ち尽くしていた富子さん。

「75年もたちました。ママ、毎日思っているよ…」

そうつぶやきました。

そして、私たちに心の内を語ってくれました。
稲葉富子さん
「悔しい思いをするとき、家族に会いたい、抱きしめたい、泣きわめきたいと思って生きてきたの。今まで味わった苦しみや心の悩みを母や姉弟に打ち明けたい」
「私が死んだら遺骨を海にまいてほしい。海の中でお母さんを探し続けるの」

「兄によって中国人に売られたと思って生きてきた」

「最近になって兄の手記を読んで涙が止まらなかった。どれほど苦労したのか、初めて分かった」
施設の集まりでそう語った佐藤勇吉さん(84)です。
勇吉さんは、4歳の時に開拓団として家族とともに中国へ渡りました。

戦後の混乱の中で、両親が相次いで亡くなり、兄によって中国人に売られたと思って生きてきました。
38歳の時に帰国し、30年ぶりに兄・竜太郎さんと再会しました。

「なぜ自分を中国人に売ったのか?」

竜太郎さんに尋ねても、当時の話をしたがらなかったといいます。

そして竜太郎さんは14年前に他界し、勇吉さんは長年心の中に抱えてきた兄へのわだかまりを取り除くことができませんでした。

しかし今年、勇吉さんに転機が訪れます。

長年介護を続けてきた妻が2月に亡くなりました。

さらに、コロナ禍で一人、家にいる時間が増えた勇吉さんは、今までの人生を思い返すようになったといいます。

「私の人生の80年余りはいったい何だったのか。幸せな日なんて1日もなかった」

コロナ禍をきっかけに初めて知った兄の思い

そんな時、兄が生前に書き残していた手記を改めて読み返したというのです。

兄の死後に家族から譲り受けた手記。

しかし長年妻の介護が忙しく、さらに手記が日本語で書かれていて、あまり理解できずに、しまい込んでいました。

しかし、今年に入り妻の死とコロナ禍がきっかけとなり、手記を通して、兄、そして自分の人生と向き合おうという思いが強くなりました。

勇吉さんは辞書を使い、時間をかけて読み進めました。

すると、両親の死後に生き残った兄弟3人が、収容所に身を寄せていた時の思いがつづられていたのです。
兄の手記より
「残された妹弟は今後どうなってゆくのだろう。生きなければ。妹にこのまま収容所にいれば、兄弟3人で餓死するようになるだろうから、弟と一緒に中国人のところで生き延びてくれるように話した。遠ざかっていく妹と弟の姿はあわれでならなかった」
さらに、兄は中国で別れたあと帰国せず、亡くなった日本人の死体を片づけるという過酷な労働を強いられていたことも知りました。
佐藤勇吉さん
「兄が私と姉を人にあげなければ、私たちも死ぬ運命にあった。初めて兄がどれだけ苦労してきたか理解できた」
戦後75年たって初めて知った兄の気持ち。

手記を通して兄と向き合うことで、わだかまりがようやくとけたと、勇吉さんは涙ながらに話してくれました。

コロナ禍となった戦後75年の今年。東京都内の片隅に、いつにも増して戦争の記憶がよみがえり、苦しむ中国残留孤児の姿がありました。

「恨んでいる」と言いながらも、「自分は何者か」とみずから問い続け、今も家族を探し求める稲葉富子さん。

手記を通して兄と向き合い、読みながらおえつした佐藤勇吉さん。

2人のまなざしは、戦争を知らない私たちの世代に、「戦争で受けた心の傷は一生涯癒えることはない」と、静かに訴えかけています。
横浜局 カメラマン
桑原義人
平成14年入局。沖縄、大阪、東京などを経て現職。フィリピンと中国の戦争孤児を長年取材。
首都圏局 ディレクター
柳田理央子
平成25年入局。松山局、「おはよう日本」を経て現職。戦争とマイノリティーをテーマに取材を続けている。