「007」が見られないのは、誰のせい?

「007」が見られないのは、誰のせい?
スパイ映画「007」の最新作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、シリーズ25作目。主人公ジェームズ・ボンドを演じるダニエル・クレイグにとっては「最後のボンド役」とも言われる話題の映画だ。封切りは、ことし4月、のはずだった…
(10月31日、“初代ボンド”のショーン・コネリー氏の死去が明らかになり、クレイグ氏も「スクリーン上でのウィットと魅力はメガワット級だった」と追悼。筆者の世代には初代も印象的だった)
日本では今、『鬼滅の刃』が人気沸騰中だが、世界規模の新作映画が新型コロナウイルスの影響で次々と公開延期になっている。日本では映画館も開いているのに、なぜなのか。
(アメリカ総局 記者 野口修司)

再びの「全館営業停止」

10月5日、イギリスとアメリカで660余の映画館を運営するシネワールドが全館の再休止を突如発表した。コロナ禍による閉館から復活したばかりの映画館も含め、イギリスとアメリカで営業する映画館すべてを、だ。
関係する従業員は4万5000人に上る。
その理由は「007」の公開延期だった。

直前の2日、「007」の配給元は、11月に予定していた公開を来年4月に再延期することを明らかにしていた。

「007」はイギリスのスパイが主人公。ドル箱のアメリカ市場も合わせ、米英で展開する映画館チェーンにとってはこれ以上ない痛手だろう。

ただ、話はこれで終わらなかった。

ニューヨークのせいだ!

そのシネワールドの経営トップがニューヨーク州知事にかみついたのだ。

映画専門メディアのインタビューで「世界中の映画館は、クオモ知事に柔軟性がないために営業できないでいる」(グライシンガーCEO)と公然と批判。ニューヨークで映画館が営業できないから、すべての休止を判断したのだ、と。
タイムズスクエア近くにある彼らの映画館のネオンには「クオモ知事よ、なぜなんだ」とのサインがあった…。
新型コロナウイルスの感染拡大がアメリカで最も深刻だったニューヨーク州は、経済活動の再開が進んでいない。

あの悲惨な状況にだけは戻りたくないと、レストランの屋内営業も9月末にようやく客席25%分が許可されたばかりだ。
慎重にも慎重を期している。

ヨーロッパとの往来を遮断しているため、海外からの観光客もほぼおらず、ブロードウェイのミュージカルは年内いっぱいの休止期間を来年5月末まで「再延長」した。

有名な交響楽団ニューヨーク・フィルハーモニックも公演中止を延長し、ニューヨークが世界を魅了する文化、芸術、エンターテインメントは、一部の美術館・博物館などを除き「止まったまま」の状態だ。

映画館の苦境

ネットフリックスなどの自宅で見られる動画配信サービスが普及しても、コロナ禍以前の劇場で見る映画産業は好調だった。

去年の世界での売り上げは425億ドル、日本円で4兆4000億円余りと、過去最高だった前年に次ぐ記録だという(ビルボード誌調べ)。
そのうちの4分の1はアメリカとカナダが稼ぎ出していた。

アメリカの映画館と言えば、“ポップコーンとコーラ”。そのポップコーンの入れ物の大きさも印象的で実にアメリカ的なのだが、コロナ禍の休館で、目にする機会がない。

シネワールドだけでなく、全米最大手のAMCも「このままいけば、年内で手元資金が底をつく」と悲痛な叫びをあげている。
感染再拡大を恐れ、ニューヨークやロサンゼルスの映画館が再開されなければ、こうしたドル箱地域の興行収入を足がかりにしたい大作映画は公開に踏み切れず(日本でも当然見られない)、それが映画館産業を直撃する。

ニューヨーク州知事に恨み言を言いたくなるのも、よくわかる。

だが、再開のメドは立ってない。

関係者たちの切実な声

全米監督組合、全米劇場所有者協会、それにアメリカ映画協会は、9月末、アメリカ議会に対して嘆願書を送っている。

そこには、クリント・イーストウッド氏や、最新作『テネット』が公開されているクリストファー・ノーラン氏など、多くの映画監督、俳優が名を連ね、政府による公的な支援を求めている。
「映画館というものがもたらす、社会的、経済的、文化的な価値が失われてしまうことに、この国は耐えられない」-。
嘆願書では、今のままでは中小の映画館のうち69%が閉鎖や破産を余儀なくされ、映画館産業に従事する人の66%が路頭に迷うと危機感をあらわにしている。
こちらも公開日程が二転三転した『ワンダーウーマン 1984』の監督、パティ・ジェンキンス氏はインタビューでこう答えている。
「映画館産業は“巻き戻し”“やり直し”がきかない。そう、一度ダメになったら、元には戻れないのです」
そして、こんなつぶやきも目にした。
ホラー小説家として知られるスティーブン・キング氏のツイッターだ。(10月11日)
「昨夜、シアターに映画を見に行った。2月以来、久しぶりだ。ソーシャル・ディスタンスもとられていて安心して鑑賞できた。だが、どうだ。観客はおいと私を入れて、たったの4人。映画産業にはとんでもないことが起きている。土曜の夜なのに。」

大統領選挙も絡んで…

アメリカ経済には今、「2番底」を懸念する声がある。
日本円で300兆円の大規模な景気対策が一巡し、市場も期待する追加の経済対策は成立のメドがなかなか立たないからだ。

大統領選挙が近づき、与野党の対立は先鋭化した。
「本格対策は年明けか」とも言われる中、上述のAMCのように「もう、もたない」という企業も出てくるのではないだろうか。
シネワールドのトップから批判されたニューヨーク州のクオモ知事。
10月半ばに、この半年間のコロナとの闘いをつづった『アメリカの危機』という本を出版した。
危機管理にどう臨んだか、感染拡大をどうやって抑え込んだか、トランプ大統領との激しいやり取りも書かれている。

発売日にニューヨークの書店で取材したところ、「彼は立派だ。将来の大統領に!」という若い人の声も聞けたが、ある初老の黒人男性のことばが印象に残った。
男性
「私は彼を評価していないよ。図書館も映画館も、彼は閉めてしまった。うちにはインターネットなんてないんだよ。最後にネットを使えたのは3月さ。図書館を開けてくれれば、映画館を開けてくれれば、いろいろできるのに…」
感染防止と経済活動の両立。
その困難さは、映画産業にも深刻な影を落としている。
アメリカ総局 記者
野口 修司
平成4年入局
政治部、経済部、ロンドン支局などを経て現職