闇夜に、荒波に叫び続けて

闇夜に、荒波に叫び続けて
彼女の写真は、前を見ず、うつむいたものばかり。
そして、体の右側を写した写真は、ほとんどありません。

「闇夜の中、荒波に向かって叫ぶようなものでした」

絶望の淵にあっても、彼女は、そして仲間たちは、決してあきらめませんでした。

「どんな困難があっても、絶対に、この世から無くさなければならない」

そう、強く、強く、思い続けてきたものがあるからです。

93歳の彼女の思いは、17歳の女子高校生にも受け継がれています。そして来年1月、その思いは、1つの形になります。

(広島局 記者 喜多祐介・長崎局 記者 吉田麻由)

強く願い続けてきて75年

「原爆のことを少しでも伝えられるなら、この命が続く限りご協力します」

半世紀にわたって核兵器の廃絶を訴えてきた、広島の被爆者・阿部静子さん(93)はそう話します。

日本時間の10月25日 午前6時半。彼女が強く願い続けてきた、核兵器禁止条約の発効が決まったことが、明らかになりました。
阿部静子さん
「きょうは記念すべき日です。被爆者一人一人の力は小さいですが、絶えず、たゆまず、『核兵器のむごさ、恐ろしさを繰り返してはならない』と世界に訴え続けてきました。被爆者の小さな声が結集した結果だと、被爆者の1人として自負しています」
「生きていてよかった」「叫び続けてよかった」

時折見せる笑顔から、喜びの深さがひしひしと伝わってきました。

笑顔の裏にある阿部さんの壮絶な体験。阿部さんから語られるひと言ひと言は、とてつもなく重いものでした。

18回の手術「とても痛く、苦しい手術でした」

広島に原爆が投下されたのは、75年前の8月6日。阿部さんは当時18歳。結婚したばかりでした。

空襲で市街地が延焼するのを防ぐため、建物の解体作業にあたっていた時に被爆。爆心地からはわずか1.5キロしか離れておらず、右半身に大やけどを負いました。

その後、18回もの手術を受けることになります。
阿部静子さん
「熱線で皮膚が焼け、その後の強烈な爆風で焼けた皮膚がちぎれ、垂れ下がってしまいました。あのころは麻酔も薬も少なかったので、手術中に麻酔がきれても追加してもらうことができなかった。とても痛く、苦しい手術でした。元の体になりたいと思う一心で、耐えてきました」
その願いはかなわず、顔と体の右側にはケロイドが残りました。阿部さんの写真が、下を向いているか、左側を撮ったものばかりなのはそのためです。

しかし、今回の取材で、阿部さんは右側からの撮影を許可してくれました。

「原爆がもたらしたものを、すべて事実として伝えたい」。

いまの阿部さんの思いです。

“赤鬼”と呼ばれて 「空白の10年」

被爆者たちは、原爆投下からの10年間を「空白の10年」と呼んでいます。

後遺症に苦しむ被爆者に医療や経済的な支援がほとんどなく、厳しい偏見や差別にさらされてきた、昭和30年ごろまでのことです。
阿部静子さん
「傷も治らず、体は弱くなり、貧しい暮らしを続け、何の援護もなく、10年間放置されました。それはとても悲しいことでした。『被爆者ってどんなんだろう』という興味本位の人たちに、鵜の目鷹の目で見られ、慰められるどころか、いじめられました。あの当時の苦しみ、心の傷は、いまも消えることはありません」
阿部さんは、赤くはれ上がった傷あとのせいで「赤鬼」と呼ばれたこともあったといいます。

親族からですら、心ないことばを浴びせられ、傷ついた者どうし、身を寄せ合うようになっていった被爆者たち。

アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が被爆し、全国で原水爆禁止の声が高まる中で、被爆者たちもまた、立ち上がります。
昭和31年、阿部さんたち被爆者は代表団をつくって東京に向かい、当時の鳩山総理大臣の自宅を訪ねるなどして、被爆者の救済と核兵器廃絶を訴えました。

それが、いまも核兵器廃絶運動の中心を担う、日本被団協の結成につながったのです。

“ノーモア・ヒバクシャ” 世界に訴え

「それはとても厳しく、闇夜の中、荒波に向かって叫ぶような運動でした」

当時について、阿部さんはこう、振り返ります。

核兵器の廃絶を訴え続けても手応えはなく、世界では核実験が繰り返され、冷戦の最中、核軍拡競争は止まりませんでした。
人生を一変させた原爆を投下したアメリカを恨み続けてきた阿部さん。被爆から20年がたとうとしていた昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年に、心境の変化が訪れます。

アメリカ、ヨーロッパ、それに旧ソ連などを回り、自らの体験を語る「世界平和巡礼」に出かけた時のこと。アメリカのホームステイ先で受け入れてくれた家族の優しさに触れたのがきっかけでした。
阿部静子さん
「『辛かったですね、大変でしたね』と、とても丁寧に私の話に耳を傾けてくれました。アメリカ人であっても、誰であっても、被爆者を新たに生み出してはならないという思いに変わっていきました」
1980年代になると、阿部さんたち被爆者は、海外での核兵器廃絶運動に力を入れ始めます。

最初に国連で登壇した長崎の被爆者・山口仙二さんの演説は「ノーモア・ヒバクシャ演説」ともいわれています。凄みを感じるその訴えは、40年近くたったいまも、色あせることなく、聞く人の心を打ちます。

国際世論に期待する一方、「日本」の姿勢は…

被爆者一人一人の訴えは少しずつ、しかし着実に、国際社会に広がっていきました。

NHKがことし、インターネットで行ったアンケートでは、アメリカの若い世代の約7割が「核兵器は必要ない」と答えました。

阿部さんは、核兵器禁止条約をきっかけに、国際世論が変化することに期待する一方、残念なことがあるといいます。

それは、私たち「日本」の姿勢です。

日本政府は「安全保障上の脅威に適切に対処しながら、核軍縮を前進させる日本のアプローチとは異なる」として条約に反対の立場をとり続けています。
阿部静子さん
「今の政府を見ていると、被爆からの10年間、何の援護もせず、『原爆の被害が大きいと言ってはアメリカに悪いから』とアメリカに気兼ねしていたころを思い出します。ああいうことは絶対に許されません。核を持っている国、そして、それを支持する国は、原爆の被害を甘く見ている。アメリカに気兼ねすることなく、人間のため、世界のために、核兵器の廃絶のために立ち上がって欲しいです。批准した国々の輪に入って、日本が核兵器廃絶をリードして欲しい」

条約発効決定の3日後に、また1人 被爆者が…

核兵器禁止条約の発効が決まった3日後。広島でまた1人、被爆者が亡くなりました。兒玉光雄さん(88歳)です。

大腸や胃、甲状腺など、様々ながんを発症し、20回以上の手術を受けてきた兒玉さん。がんと闘いながら、原爆の放射線で傷ついたみずからの染色体の写真を見せ、核兵器廃絶を訴え続けてきました。
被爆者の平均年齢は83歳を超え、“生の証言”を聞く機会は、日々失われています。

ですが、被爆者の訴えを引き継ぐ若い世代も確実に育ってきています。

強い衝撃を受けた「赤い背中」

繁華街でマイクを握っているのは、長崎の高校2年生、大隈ゆうかさんです。毎週末のように街頭に出て、核兵器廃絶に向けた署名活動を行っています。

全国の高校生と連携し、平和活動を行う団体、高校生平和大使のメンバーです。

大隈さんが平和活動に参加するきっかけは、この写真です。
真っ赤な大やけどを負った、被爆者・谷口稜曄さんの「赤い背中」。谷口さんは、16歳のとき、郵便配達中に被爆しました。

小学校の平和授業でこの写真を目にし、大隈さんは強い衝撃を受けたと言います。
大隈ゆうかさん
「言葉遣いが適切かわかりませんが、すさまじいと思いました。原爆に急に吹き飛ばされ、気づいたら背中が焼けただれてしまうことが、本当にあったんだなと感じて、原爆はすごく怖いものだと感じました」
大隈さんの曾祖母も被爆者でしたが、被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。

自分の曾祖母も、谷口さんと同じ苦しみを味わっていたに違いない。

原爆の悲惨さを繰り返してはならないと、大隈さんは平和活動へ参加を決めたのです。

最期まで訴え続けた「核兵器禁止条約」の発効

谷口さんは生前、NPT=核拡散防止条約の会議など国連の会議に繰り返し出席し、自らの「赤い背中」を国際社会に突きつけて、原爆の非人道性を訴え続けました。
谷口稜曄さんの訴え
「私の姿を見たあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度見て欲しい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、『生きる』とは『苦しみに耐える』ことにほかなりません。私たち被爆者は、全身に原爆が呪う爪痕を抱えたまま、苦しみに耐えて生きています。核兵器は絶滅の兵器であり、人間と共存できません。どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。核兵器を持つこと、持とうと考えること自体が反人間的です。私は核兵器がこの世からなくなるのを見届けなければ安心して死ねません」
4年前、核兵器禁止条約の実現を求める署名活動を長崎で立ち上げた谷口さん。

翌年、亡くなる直前まで、病床から条約の発効を訴え続けました。
谷口稜曄さんの訴え
「核兵器を持っていない国は持っている国を包囲し、1日でも早く核兵器を無くす努力をしてもらいたい。私たち被爆者がもし1人もいなくなったときに、(世界が)どんな形になってしまうのかが一番怖い」
谷口さんが命を削る思いで最期まで訴えた、核兵器禁止条約の実現。その発効が決まった直後、被爆者たちは長崎市の平和公園に集まって、喜びを分かち合いました。

その中には、大隈さんの姿もありました。
大隈ゆうかさん
「核兵器禁止条約は、すごく大事な一歩になると思うし、これをきっかけに、私たち高校生による署名活動や、核兵器の無い世界への一歩になることを期待しています」
核兵器を違法として開発・保有・使用、それに保有を背景に威嚇することも禁じた初めての条約となる「核兵器禁止条約」は、来年1月22日に発効します。

しかし、核保有国や、日本のように「核の傘」の下にある国が参加しない中、実効性に疑問の声もあがっています。

ですが、被爆者、そして若者たちは決してあきらめず、前を向いています。

核兵器禁止条約の原点ともいえる被爆者たちの魂の叫び。この世から核兵器がなくなるまで、絶えることはありません。
広島局 記者
喜多祐介
平成19年入局 沖縄局、社会部を経て広島局。被爆者の取材にあたる。
長崎局 記者
吉田麻由
平成27年入局 金沢局を経て長崎局。原爆取材を担当。