沖縄戦 「非道な命令」下した司令官の孫として

沖縄戦 「非道な命令」下した司令官の孫として
12万人の県民が犠牲になった太平洋戦争末期の沖縄戦。なぜ、多くの沖縄の人を戦闘に巻き込んでしまったのか、その答えを追い続けている男性がいます。牛島貞満さん(67)、祖父は沖縄戦で日本軍を指揮した、旧日本陸軍の第32軍司令官、牛島満です。(ワールドニュース部記者 西川光子)

沖縄戦の“象徴”

旧日本陸軍の最高級幹部だった牛島満大将。
鹿児島県出身で陸軍士官学校、陸軍大学を卒業した典型的なエリート将校で、風貌やふるまいから同郷の西郷隆盛に例えられ「小西郷」と呼ばれました。

日中戦争での功績も評価され、沖縄戦に向かう直前まで陸軍士官学校の校長として第一線で兵士を指揮する将校の養成にあたりました。

第32軍司令官として昭和19年8月沖縄に着任した牛島は、首里城の地下に司令部壕の構築を進めます。米軍の激しい砲撃にも耐えられるよう地下30メートル、全長1キロにわたる坑道が掘られ1000人余りの司令部要員が地下にこもりました。

第32軍の心臓部とも言えるこの地下司令部から牛島司令官は沖縄本島の各地に展開する前線部隊を指揮し、アメリカ軍と激しい戦いを繰り広げます。
第32軍は徹底抗戦を続けますが、圧倒的なアメリカ軍の攻撃で日本軍側の死傷者が続出し、司令部要員を含めた日本軍部隊は首里を放棄し南部に撤退します。

昭和20年6月下旬、日本陸軍最後の大将に昇任してまもなく、牛島は糸満市摩文仁の洞窟で自決します。

牛島は、戦後、多くの住民が犠牲になった沖縄戦の象徴的な人物として、沖縄でネガティブな評価が与えられています。

避けてきた沖縄

牛島の三男の息子、孫の貞満さんです。東京で生まれ育ち、祖父のことは直接知らずに育ちました。

家族の中では「お爺さんは立派だった、優しかった」と伝えられ、家には常に軍服を着たかっぷくのよい祖父の写真が飾られていました。小学生の時は家族で靖国神社に参拝していました。

大学卒業後、小学校の教師になった貞満さん。沖縄に行くことは避けてきました。

しかし平成6年、40歳を超えて初めて沖縄を訪れることになりました。教師の仲間と参加した沖縄戦学習ツアーでガイドに声をかけられたことがきっかけとなり、祖父の足跡に向き合うことになります。
貞満さん
「『司令官と一字違いの方がこのツアーに参加されていますね』と言われて。あー、ばれてしまった、と最初は思ったのですが、『お爺さんのことをご自身で調べられたらどうですか、私も手伝います』とおっしゃったんです。長い宿題を出されました」

沖縄戦に向き合う

その後、貞満さんは沖縄を頻繁に訪れるようになります。戦争の資料を集め、体験者に聞き取り調査をするようになりました。

看護要員として高等女学校の生徒を動員して結成された「ひめゆり学徒隊」の元メンバーで5年前に亡くなった宮城喜久子さんもその一人でした。
宮城さんは牛島のことを鮮明に記憶していました。南部に撤退する途中、日本軍の壕に立ち寄った牛島は、本を持っていた宮城さんに話しかけてきました。

宮城さんはアメリカ人の作家マーガレット・ミッチェルの小説、「風と共に去りぬ」を持っていたのです。
宮城さん
「『どんな本を読んでいるの?』とおっしゃったんですよ。とてもびっくりしました。アメリカの本ですから、もうどうしよう、怒られるのかなと思いました。でもその問いかけだけで去って行かれました。いまだに印象的です。優しい方だな、と思いました」
多くの犠牲者を出した「ひめゆり学徒隊」の生き残りであり、反戦を強く訴えていた宮城さんからの意外な発言に驚きました。

なぜ優しい祖父が

戦闘が始まってから50日余りたった昭和20年5月22日、牛島は首里にあった司令部壕を放棄して、島の南部に撤退することを決めました。

すでに多くの住民が南部に避難していたため、軍民入り乱れての戦いとなり、多くの人が犠牲になりました。沖縄で亡くなった県民はおよそ12万人。

死亡した場所や時期が分かっているのは8万2000人で、少なくともこの半数余りにあたる4万6000人が首里撤退後の1か月で亡くなったとされています。
南部撤退がどういう結果をもたらすのか、祖父は知っていたはずだと貞満さんは考えています。住民が避難していることも、そして米軍の兵力が圧倒的であったことも知っていたからです。
牛島貞満さん
「なぜ南部撤退を選んだのだろう。司令官として立派な人だったら、そういう命令は出さないのではないか、と思うんです」

負の遺産 保存・公開を

貞満さんは、祖父の非道な命令が下された司令部壕を保存・公開することが大切だと考えるようになりました。崩落の危険性があることなどから、ずっと立ち入りは禁止されており、遺骨も多く残されていると見られます。

沖縄戦がどんな戦争だったのか、なぜ県民の犠牲が多くなったのかを示す場所だと貞満さんは言います。また祖父の決断の背景を知る場所だとも思っています。

平成9年には第32軍司令部壕に入る特別な許可を得て、内部調査を実現させました。その後も米軍や旧日本軍の資料などの収集、調査を続け、今では壕内部のことを詳しく知る数少ない専門家となりました。

集めた資料はおびただしく、それぞれが子どもたちにも説明できるように図形化されるなど教師ならではの工夫が凝らされています。

孫として、人として

去年10月末、32軍司令部壕の地上部分にあたる首里城正殿などが焼失、沖縄県では再建に向けた活動が進んでいます。
貞満さんの思いに呼応するようにことし6月、地元の有志や専門家が壕の保存・公開を求める会を発足させました。会のメンバーは、32軍壕の中に入り込んで当時の歴史を追体験してもらうことが、二度と同じ過ちを起こさないために重要だとしています。

地上にあった沖縄の象徴と同時に、地下にある負の遺産を残すことが平和を紡ぐ原点になる、貞満さんは公開に期待を寄せます。
貞満さん
「私は司令官の孫に生まれて来たことによって過去に何があったのかを調べる宿命を持たされたと思っています。過去の責任を私が取ることはできません。過去あったことの事実を同じ世代の人、次の世代の人と共有することはできると思っています」
第32軍司令部壕という戦跡を保存し、ここで何が起きたのかを語り継ぐこと、貞満さんはそれが使命だと考えています。
ワールドニュース部記者
西川光子
平成13年入局
和歌山局、国際部を経て、英語ニュース番組「NEWSLINE JAPAN」の取材を担当