「KENZO」立ち上げ デザイナーの高田賢三さんコロナ感染で死去

「KENZO」立ち上げ デザイナーの高田賢三さんコロナ感染で死去
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パリを拠点に活躍し、世界的なファッションブランド「KENZO」を立ち上げた、デザイナーの高田賢三さんが4日、新型コロナウイルスへの感染により、パリ近郊の病院で亡くなりました。81歳でした。
高田賢三さんは昭和14年、兵庫県姫路市で生まれ、東京の文化服装学院で洋裁を学び、新人の登竜門とも言われる「装苑賞」を受賞してデザイナーとしてデビューしました。文化服装学院では同期生に世界的に活躍するデザイナー、コシノジュンコさんなどがいて「花の九期生」と呼ばれました。

昭和40年、25歳でパリに渡り、民族衣装をアレンジした斬新なデザインを発表したほか、当時ブティックで行うのが常識だったファッションショーをパブや映画館で開催し、一躍脚光を浴びました。

高田さんが立ち上げた「KENZO」は世界的に有名なファッションブランドとなりました。
高田さんはフランスの芸術文化勲章を受章したほか、平成11年には紫綬褒章を受章しています。

また、平成16年に開催されたアテネオリンピックの日本選手団の公式服装もデザインしました。

高田さんの日本の事務所によりますと、高田さんはことしの9月中旬、新型コロナウイルスに感染し、パリ近郊の病院に入院していましたが、今月に入って体調が悪化し、4日午後4時ごろ(日本時間4日午後11時ごろ)亡くなったということです。

パリ市長がツイッターで追悼 仏メディアは速報

高田賢三さんが亡くなったことについて、パリ市のイダルゴ市長はツイッターに「彼はファッションにおいて色と光に居場所を与えた。パリはきょう、私たちの息子の死を悼んでいる。ケンゾウの家族や近しい人たち、そして彼を愛したすべての人たちに思いを寄せている」と投稿し、その功績をたたえました。

またフランスの主要メディアは一斉に速報で伝えました。

このうち週刊誌「ルポワン」の電子版は、高田さんが1か月半以上かけて船でフランスに渡ったものの、すぐには成功を得られず、初めはスケッチを売ることで生計を立てたことなど、フランスに来てからの経歴を詳しく紹介したうえで、「国境を越えてインスピレーションを得て、ファッション界において類を見ないすばらしい遺産を残した」と伝えました。

またフランスの公共ラジオ「フランスアンフォ」の電子版は、高田さんのデザインについて「日本的な美しさや清らかさに、少し刺激的な色使いを取り入れつつ、東洋と西洋を柔軟に融合させた」と評価しています。

コシノジュンコさん「最愛の親友でした」

高田賢三さんと東京の文化服装学院の同期生で、60年以上にわたり交流があった、デザイナーのコシノジュンコさんは「あまりにも突然の訃報で驚き悲しんでいます。世界のKENZOとして皆に愛された『ケンチャン』。私にとって学生時代の出会いから今まで思い出がいっぱいつまった時間を共有できた最愛の親友でした」とコメントを寄せました。

コシノヒロコさん「弟のような存在」

高田賢三さんと同じ時期に東京の文化服装学院に通い、姉妹で60年以上にわたり交流があったデザイナーのコシノヒロコさんは、NHKの取材に「学校に通っていたときはいつも『お姉ちゃん』と呼んでくれて、本当の弟のような存在でした。常に元気な強い人で、会ったときには『一緒に長生きしようね』と言い合っていたのに、本当に信じられず、ショックです。世界で活躍されてからも以前と変わらず、私にとっては昔の『ケンチャン』のままで親しみ深い人でした」と話していました。

どんちょうのデザイン画をふるさとに

高田賢三さんは、おととし、出身地の姫路市を訪れ、新たに建設される文化施設のために、どんちょうのデザイン画を贈りました。

2種類あるデザイン画には、いずれも太陽や姫路城などが描かれ、自然の美しさと雄大さを感じさせます。

当時、高田さんは「姫路市に恩返しができることをとてもうれしく思う」などと地元への思いを語っていました。

文化施設は来年、完成する予定で、デザイン画を基にどんちょうの製作が進められていますが、高田さんは完成を待たずに亡くなりました。

姫路市文化コンベンション施設整備室の大前晋室長は「突然の訃報に非常に驚いています。これまで大変お世話になってきたので、このどんちょうをきちんと完成させて恩返しをしたいと思います。天国から見ていてほしい」と話していました。