さらば、会津の黄門さま

さらば、会津の黄門さま
会津なまりのユーモアで、時の政治に直言する。
その人柄で、「黄門さま」の愛称で親しまれた渡部恒三。
8月23日、88年の人生に、幕を下ろした。
かつて「竹下派七奉行」の1人とも称され、民主党では豊富な政治経験に、若きリーダーたちが指南を請うた。私たち番記者も、政治家たちも、彼に育てられた。追悼の意を込めて、今こそ彼の姿を語ろう。
(元番記者・鈴木徹也、広内仁/インタビュアー・宮里拓也、米津絵美)

記者の教科書

「俺がやってやりたいくらいだよ」
恒三さんのことを思い出す時、私はいつも、顔をしかめっ面にしながら議員会館の部屋でボヤいた、あの場面が目に浮かぶ。

当時、民主党は揺れていた。自民党の有力者への資金提供を示すメールがあるとして、民主党は国会で厳しく追及。ところがメールが偽物だと判明し、責任を取って野田佳彦が国会対策委員長を辞任した。しかし後任が全く決まらない。そんな中で出た言葉だった――
私は2004年夏から2年間、民主党を担当し、恒三さんを取材していた。

といっても当時、恒三さんは無役。取材というよりも、政局について意見を聞くため、時々、議員会館の部屋に通った。

行けばいつもと言っていいほど、時代劇ドラマ「水戸黄門」の再放送を見ながら、仲のよい衛視さんと碁を打つ恒三さんの姿があった。碁を打っている間は取材はできないので、手前の部屋で終わるのを待つ。一段落すると、「こっちに来い」と手招きして部屋に入れてくれていた。

無類のタバコ好きだった。
ソファや机の上、じゅうたんには焦げた跡が残っていた。
いつ灰が落ちるかと気になって仕方ないほど、燃え殻となったタバコを指に挟みながら、
「鈴木くん、それはだねえー」
と会津弁で語りだし、政局の見立てを教えてくれた。

翌年9月に民主党の代表に、前原誠司が就任した。当時43歳。支える執行部も若手が多かった。
齡70を超えていた恒三さんの話には、長い政治経験に裏打ちされ含蓄があって、政治記者になりたてだった私にとって、何よりの教科書でもあった。

火中の栗を拾って「黄門さま」に

そんなある日、冒頭のボヤキがあった。

2006年2月のメール問題。野田が委員長を辞任したのが2月28日だった。しかし後任がなかなか決まらない。2日後の3月2日も、代表の前原と幹事長の鳩山由紀夫は衆議院本館の部屋にこもって、国会対策委員長の経験があるベテラン議員たちに打診を続けていた。

しかしことごとく断られた。みな、火中の栗を拾うのを敬遠したのだ。

どうするんだ民主党…延々と協議が行われる部屋の前で待ちぼうけ。
扉の奥にいる前原には、ふだんからメールで取材のやりとりをしていたので、送ってはみるものの、話が進んでいる様子はない。

手持ちぶさただった私の頭に、ふと、恒三さんのあの言葉が浮かんだ。
「俺がやってやりたいくらいだよ」

これはもしかすると…前原へのメールに、恒三さんとそんなやりとりがあったことを盛り込んでみた。

恒三さんは民主党でこそ無役だったが、衆議院副議長や自民党の国会対策委員長も務めた大ベテランだ。民主党の国会対策委員長を務めれば、自民党の国会対応も、変わらざるを得ないのではないか。

およそ30分後、前原と協議していた鳩山が衆議院本館を出て、車でどこかにでかけていく。
私はピンと来て、すぐさま議員会館の恒三さんの部屋に向かった。
秘書に「鳩山さん、来ているでしょ?」と聞くと、「なんで知ってるの」と驚かれた。

その後、鳩山が部屋から出てきて、私の顔をちらっと見て足早に去っていく。
部屋の中からは、電話で誰かと話す恒三さんの声がする。

しばらくして静かになると、ドアを開けた恒三さんが私を見つけ、手招きして部屋に入れてくれた。
そしておもむろに、「俺は国会対策委員長を受けることにした。ただ、わからないことも多いから、補佐役に川端達夫くんと平野博文くんをつけてくれとお願いした」と話す。

「そのこと、書いていいですか」
「うん、いい」
すぐに記事にし、テレビで一報が流れた。

その後、民主党の国会対策委員長室に陣取ることになった恒三さん。
それまで誰も取材に来ることがなかったのに、大勢の記者に囲まれるようになると、一挙に発信される話題が増えた。

恒三さんの補佐役、委員長代理として川端と平野が脇に控える姿が、ドラマの水戸黄門をほうふつとさせると話題を集めた。
すると印籠を買った恒三さん、選挙の応援に乗り込んだり、パーティの会場に登場したりと、時にユーモアを交え、時に真剣な表情で、「黄門さま」ぶりを披露した。
(ここまでの項・鈴木)

「助さん格さん」は今

「『由美かおるがいねぇじゃねぇか!』って言われてね」

そう振り返るのは、印籠を掲げることもあったので、格さん役? 現在は立憲民主党で代表代行を務める平野博文だ。
「メール問題が勃発して大変な時に、起死回生で『恒三先生だったら何とか収めてくれるだろう』って国会対策委員長に就任された。でも、『俺ひとりじゃだめだ。脇役を2人置け』って、僕と川端(達夫)さんの2人が委員長代理になった。それで僕らが、『先生これ、助さんと格さんじゃないですか』って言い出したんだ」

そう語る平野が見せてくれた写真には、水戸黄門を思わせるコスチュームに身を包んだ渡部や、印篭を見せながら笑顔を見せる平野の姿が写っている。
当時の党の雰囲気を「相当落ち込んで、厳しいものがあった」と語る平野。
渡部は、どのような存在だったのだろうか。

「実務はほとんどしない。それは俺と川端さんでやるんだから。恒三さんは看板でおるだけ。座っているだけだ。それでも、本当に効果があった。周りを明るくする、何とも言えん人柄があった。与野党問わず、『あの人から言われたら、しゃあないな』みたいな奥深い雰囲気があった」
大の愛煙家でもあったことで知られる渡部。
平野は、昔だからこそ許されたであろう、ちょっぴり愛きょうのある渡部の人柄を感じさせる思い出を語ってくれた。

「当時、国会対策委員会の会議を禁煙にしようという動きがあり、『それなら出ない。平野くん、君らでやりたまえ』と言いだしてね。『そんなこと言わんと』って説得した。結局、吸ってたよ。僕らも吸ってたけど。今だったら務まらへんなあ」

平野が最後に会ったのは、去年の渡部の誕生日会。
”恒三さん”のたばこへのこだわりは、生涯変わることはなかったようだ。
「『助さん、格さんを呼んでこい』と言われて、川端さんと福島に行った。恒三さんは、病院から1時間だけ外出許可をもらっていたようだけど、2時間近く会場にいて、『平野くん、たばこを1本くれ』と言われた。医者からはダメだと言われていたみたいけど、『いいんだ、たばこくれ』って。俺、ラーク・マイルドを渡したような気がする。愛煙家だったね」

“起き上がり小坊師”のように

渡部の薫陶を受けた議員は何を思うのか。

民主党代表となりスタートを切ったやさき、「メール問題」で窮地に追い込まれた前原誠司。
難航の末、渡部が国会対策委員長を引き受けてくれたことで、救われたと振り返る。
「『俺でよかったら前原くんを支えてやる』と国会対策委員長に就任していただいた。自民党でも主要な閣僚を歴任された、私が思う以上にすごい方で、国民的人気も高い恒三さんが『若い代表を支える』と言って引き受けて下さった。その一方で、あの”東北なまり”ですべてが許されるというか、人を和ませるユーモアのセンスもあったし、威張らない、気さくな人柄に学ばせてもらうことは多かった」

かつてなく厳しい状況にあった民主党。
しかし、渡部の国会対策委員長への就任で雰囲気は変わっていった。
地元の会津弁を隠さず、明るく親しみやすい人柄は、徐々に党内の空気を明るくし、立ち直りの期待を感じさせるようにもなっていった。
前原氏にとって、ほろ苦いエピソードもある。

国会対策委員長に就任した渡部が、前原を激励した時のことだ。
渡部氏は、会津の名産で、倒しても倒しても起き上がる玩具、「起きあがり小坊師」を贈ったのだが、なぜか、これが起き上がらなかったのだ。
民主党の置かれた厳しさを象徴していたともいえる、このシーンは、何度も繰り返しテレビで放送された。前原は、当時をこう振り返った。

「『あれ、これって本当は、起き上がるものなんじゃないの?それとも、もともと起き上がらないものなのかな』と、少し戸惑ったのを覚えている。その場面をバッチリと映像に撮られて、そればっかりテレビで放送されて」

前原は苦笑いしながら、こう続けた。
「僕はその後、辞任するんだけど、それを占う不吉の前兆だったのかな」

あの「起き上がらなかったこぼし」はどこに行ったのか。
そう尋ねると、前原はあるものを見せてくれた。
「あの出来事を覚えていていただいて、3年前、私が民進党の代表選挙に出るときに報告に行くと、いつもの様子で、『これは絶対に起き上がるんだ!』と言って、これをくださった。『もう一度、2大政党制、政権交代を実現させるために頑張れ』と言っていただいた」

あの当時、起き上がらなかったものより、サイズの大きい「起き上がり小坊師」だ。こちらは何度倒しても、しっかり起き上がるという。

「メール問題」以降、前原の政治家としての歩みは、平坦ではなかった。

渡部の支えもあって政権交代を実現し、閣僚も経験したが、3年余りで転落。
民進党の代表に就任したが、「希望の党」との合流をめぐり党が分裂し、衆議院選挙で敗北を喫した。

幾度となく直面した挫折。それでも前原は、いい時も悪い時も、いつでも変わらず、ずっと目をかけてくれた渡部の思いに応えたいと語った。
「生前、恒三先生に『前原内閣を見たい』と言っていただいたが、亡くなられて、それを果たすことができなかった。申し訳ない思いだが、それでももう一度、自分が政権の中枢を担いたいという思いは失っていないし、天国の恒三先生に喜んでもらえるように、頑張っていきたい」

民主党政権 誕生への伏線

渡部の国会対策委員長就任から、1か月ほど後。
3月31日に前原が代表を辞任し、代表選挙が行われることになった。

立候補を表明したのが、小沢一郎と菅直人。
2人が真正面からぶつかり合うことで、党が分裂してしまうのではないかという懸念が広がった。

そうした中の4月4日、幹事長の鳩山が、鳩山会館で「桜を観る会」を開くことになった。党分裂含みの選挙を前に、民主党幹部の動向が注目されていた。民放の中には中継を予定している局もあった。
会が始まる2時間ほど前、私は恒三さんの部屋を訪れて、今後の党内政局について所見を聞いていた。

ふと私は、「テレビカメラもたくさん来ているんだから、恒三さんが小沢さんと菅さんの手を取って、『選挙をしても恨みっこなしだよ』と握手をさせたらどうですか」と言ってみた。

すると恒三さんは急に顔つきを変えて、秘書に車を呼ぶように伝えた。
そしてさっさとひとりで車に乗り込むと、まだ開会に早いというのに、鳩山会館に向かってしまった。

いやいや早いよ、反応が。私も遅れて会場に行くと、恒三さんは落ち着かない様子で、次々と現れる出席者の顔を確認していた。

まず現れたのは菅直人。すぐにテレビの放列の前に連れていき、満面の笑顔で話しかける。しかし恒三さんの目は、車を降りて会場に集まる人たち向けられていた。

やがて現れた小沢一郎。恒三さんの目が光る。「いっちゃん、いっちゃん」と声を出しながら駆け寄ると、菅直人の隣に連れていく。

そしてカメラの前で二人に握手をさせるだけでなく、なんと二人の手を取って、自分の頭の上に高々と持ち上げたではないか。
本当にやりましたよ、黄門さま…そこに鳩山や前原も加わって、がっちり握手する姿は、ただのパフォーマンスと言えばそれまでだが、好感を持って受け止められたように感じた。

4月7日に行われた代表選挙で、小沢一郎が民主党の代表となった後も、恒三さんは国会対策委員長を続けた。

議員のパーティーでは、印籠を見せるパフォーマンスが引っ張りだこになると、時代劇風の衣装まで購入して、人前に出るようになった。
若手が多く、ややもすると飛び跳ねているような印象を持たれていた民主党執行部の顔ぶれが、その後ベテランで固められていく様は、逆に安心感を与えたのかもしれない。

支持率も順調に伸びていき、最終的に民主党が政権を取ることにつながったのではないか。
その背景には、「会津の黄門さま」が確かにいたように思う。

私のうるさくしつこい取材にも、いつもニコニコと対応してくれた恒三さん。
政治家多しといえど、心から追悼の記事を書きたくなる。そう思う記者は、私以外にも多々いるのではないだろうか。
(この項・鈴木)

「剛腕」との距離は

1993年、当時の宮沢内閣不信任案に賛成し、渡部とともに自民党を離れ、政権交代を目指した「剛腕」小沢一郎。
いずれも、自民党で「竹下派七奉行」と称され将来を嘱望された間柄だった。

自民党を飛び出したときも同じ行動をとり、結成された新進党では、小沢が党首、渡部が副党首を務めるなど、共に党の中枢を担った。
民主党時代には、代表選挙に立候補した小沢が、演説で映画『山猫』のせりふを引き、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」と訴えると、渡部も「37年間のつきあいの中で、初めて聞いた演説だ。期待に応えていくということが、このひと言に集約されている」とたたえ、以後、小沢は3選を果たした。

しかしこのあと、2人の間に微妙な距離が生まれていく。

小沢の政治献金をめぐる疑惑。これに対する渡部の厳しい言葉。
そして消費税率の引き上げに反対して、小沢が離党届を提出すると、渡部は「友人としては残念に思うが、これで終わりだ」と突き放した。

政権交代を目指し、それを実現させた2人だったが、後年は複雑な関係にあったのではないかと周辺は語る。

小沢は、渡部の訃報に際して、報道各社にコメントを寄せた。
「最初の当選の時から同じ東北出身ということで意気投合し、その後も田中派で行動を共にした。ユーモラスで人間味あふれ、誰からも愛される魅力的な政治家だった。『政権交代』も共に力を合わせて実現した大切な仲間の1人だ」

記者にはどう見えたか

「国民に土下座して謝りたいような気持ちだ」

2010年2月6日。当時、民主党幹事長だった小沢一郎の政治資金をめぐる事件について聞かれ、恒三さんが言った言葉だ。

さらに「政治は国民のものだから、小沢君は、世論を謙虚に受け止めて、『さすが小沢さんだ』と言われるような歴史に残る決断をしてくれると信じている」と述べ、みずから進退を判断するよう促した。
当時、絶大な権勢を誇った小沢に対しても、はっきりものを言う恒三さん。番記者だった私は、小沢に何かあると、すぐに恒三さんにコメントを求めたものだ。

私が最初に担当した頃、恒三さんは民主党の「最高顧問」だった。
しかし政権交代後の2009年10月26日、小沢が幹事長になると、党人事で恒三さんは最高顧問から外された。
ただ、2人の間には、決して確執ばかりではない、強い絆があったように思う。
2人は10歳離れているが、誕生日は同じ5月24日だ。

2011年の誕生日、2人は、福島第一原発の事故で風評被害を受けていた東北地方などの農産物を支援するため、集会を開いた。
そこで恒三さんは、小沢にこう水を向けた。
「小沢君とはこれまで目もあわせず口もきかなかったが、きょうから忌憚なく意見を交わしたい。国民から政権交代してよかったと思ってもらえる政治を作るため、2人で一生懸命努力していく」
小沢も「2人は全く性格が違い、彼はおしゃべりだが、私は口下手だ」と応じた。
初当選同期で、長年にわたって政治活動を共にした2人。
私には、恒三さんあっての小沢、小沢あっての恒三さんのように見えた。

人を育てる

恒三さんは、後進の育成にも力を入れていた。

自民党では「竹下派七奉行」の1人だった恒三さん、民主党でのちに総理大臣になる野田佳彦や、岡田克也、枝野幸男、前原誠司らを「七奉行」と名付け、目を掛けた。

政権交代前の2009年5月26日。岡田らを集め、代表の鳩山由紀夫のもと一致結束して政権交代を目指す方針を確認した。政権交代に向けて、次の世代を育てていた。

恒三さんは、当時まだ若かった私ら数人の記者を相手に、日本酒を飲みながら、たくさん貴重な昔話をしてくれた。いつも感じたのは、2大政党制の実現や、政権交代にかける並々ならぬ思いだった。

亡くなったあと、かつての秘書から「君らが最後の番記者だった」と言われた。

恒三さんは、きっとわれわれ記者も育ててくれていたのだと思う。
(ここまで2項・広内)

黄門さまの夢、実現するか

9月15日。民主党の流れをくむ立憲民主党、国民民主党などの150人が合流し、新しい「立憲民主党」を結党した。かつての民主党が、政権交代を実現する前に衆議院で持っていた勢力に迫る規模に、ようやく回復させた。

「助さん格さん」として、渡部の脇を固めてから14年。平野博文は、国民民主党の幹事長として合流協議をまとめた。
2大政党制、そして、政権交代を目指した渡部の思いを、次の世代にも受け継いでいきたいと語る。
「野党の大きなかたまりを作って、『やっとスタートにつきました』って報告するかな。でも、僕も年齢が年齢だから。次の世代の人たちが、早く『政権をとりました』って、恒三さんの墓前に報告できるようにしたいね」
「それが僕にとっての恩返しになるわな」

平野だけではない。やはり渡部から指導を受けた「七奉行」枝野幸男や、切磋琢磨した小沢一郎も、合流実現に力を尽くした。

渡部が思い続けた、2大政党制を再び実現するための一角となれるのか。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言って政界から身を引いた渡部。
教え子たちの胸中には、いまも黄門さまの声が、生きているのだろうか。
(文中敬称略)
沖縄局デスク
鈴木 徹也
1995年入局。初任地は沖縄。政治部で官邸や自民、民主、共産の各党、外務・防衛省など担当。政治マガジン発足に参加。現在、3度目の沖縄局に。
福岡局デスク
広内 仁
1997年入局。横浜局から政治部。ワシントン支局、与党キャップを経て、現在、福岡局デスク。
政治部記者
宮里 拓也
2006年入局。さいたま局から政治部。旧民主党などを取材し、国民民主党を担当。
政治部記者
米津 絵美
2013年入局。長野局初任。政治部では、現在、立憲民主党、国民民主党などを担当。