“気象の聖地” その濃密すぎる世界とは…

“気象の聖地” その濃密すぎる世界とは…
東京のど真ん中でひっそりと営業を続ける書店。日本で唯一とされる気象の専門書店には入門書から素人には完読不能な学術本までそろっています。広く知られてはいないけれど多くの人たちに愛されてきた書店は、来月その歴史を閉じることに。店をのぞくとそこには深遠で濃密な気象の世界が広がっていました。(社会部記者 内山裕幾)

絶版に生産停止 ここでしか買えない1冊

気象庁の正面玄関から入って薄暗い廊下を進むこと50メートル、その書店が見えてきます。

名前は津村書店といいます。

中に入ると天井まで積み上げられた本にまず圧倒されました。30平方メートルほどのこぢんまりとした店内を歩くと、本のにおいがまとわりついてきます。天気に関する新書や地震・火山の学術書、気象を題材にした小説にいたるまでいかにも専門書店といった雰囲気です。

平積みになっている大型本を1冊手に取ってみました。
『らくらく突破 気象予報士 かんたん合格テキスト』(3520円)
え、これ450ページもあるの?

「『かんたん』って書いてありますけど、全然簡単ではありません」
教えてくれたのは店主の津村幸雄さん。妻の京子さんと2人で店を切り盛りしています。並べられた書籍の数は数千冊にものぼります。店内を探すと一般の書店にはない気象のプロ向けの本が次々と出てきました。
気象専門書シリーズ「プロムナード」(1冊3000円~4500円)はすでに絶版となっているものの、今でも買い求めにやってくる若い人がいるそうです。幸雄さんが選んでくれた「大気の物理化学」編をさっそく開いてみます。

「対流圏光化学」「エァロソル粒子形成の前駆反応」。

目次だけでクラクラします。
続いて本文。

「大気中でオゾンを作るには、何らかの反応で酸素原子ができればよい。成層圏では太陽紫外光(波長242nm以下)が酸素分子を解離させて酸素原子を…」

文系記者の私には何を言っているのかほとんど理解できません。
気象庁の職員や気象を学ぶ学生などが買い求めるそうだから、当然といえば当然か。

気象庁にある書店ならではの商品もありました。

「予報研修テキスト」(1000円台~3000円程度)は気象庁の研修で使われるいわば部内資料です。

常時販売している書店は全国でここだけということもあって、関係者のみならず多くの気象予報士やその卵が買い求めにやってきます。
京子さんにこの店いちばんの売れ筋商品を尋ねると笑顔で紹介してくれたのが「ラジオ用天気図用紙」(50枚つづり 660円)。

NHKラジオ第2で毎日夕方に放送されている気象通報をもとに各地の風向・風力・天気・気圧・気温を書き込んでいくと日本全国の天気図が作れてしまうという気象ファンにはおなじみの商品。

版元が生産をやめてしまったのでいずれ商品自体がこの世から無くなってしまうそうです。
幸雄さん
「気象の本は発行部数が少ないことが多く、すぐに絶版になる本も少なくありません。売れ筋の商品でなくても、専門書店として気象関連の本はすべてそろえるよう心がけてきました」

来月末で閉店です

天気予報のプロでさえもうならせる品ぞろえから「気象の聖地」「予報士の聖地」と呼ばれる津村書店。経営の厳しさから来月(10月)いっぱいで閉店することを決めました。

SNS上にはニュースを知った人たちの驚きの投稿が相次ぎ、気象の第一線で活躍する現役の予報士からも閉店を惜しむ声が聞かれました。
気象予報士 田代侑さん
「予報士を目指している時に店に来て、背中を押してもらい試験に合格しました。原点ともいえる場所でここがなければ予報士の自分はいなかったかもしれない。さみしいし、なくなってほしくない場所です」
気象予報士 増田亮介さん
「初めて見る本を店で見つけては本の内容について話をするのが幸せな時間でした。閉店は本当に残念で今でもなんとかならないかと思っています。同じ気持ちを持つ予報士はほかにも大勢いると思います」

アニキが語る 津村書店の魅力

NHKの気象解説でおなじみ、アニキの愛称でも知られる平井信行 気象予報士も閉店を惜しむ常連客の1人です。30年にわたって店に通い続けている平井さんが魅力を教えてくれました。

書店との関わりは大学生の頃。

エルニーニョ現象の研究に必要な海面水温のデータを気象庁にもらいに行った際に立ち寄ったのが始まりでした。

当時も店内に客は1人か2人。

店の人がマンツーマンでオススメの本や棚の場所を教えてくれたことをよく覚えているそうです。

大学教授の薦めで購入した「日本の気候」(絶版)は今も大切にとってあります。

実用の面から欠かさず購入してきたのが先ほど紹介した気象庁の研修テキストシリーズです。

難しい気象用語が並ぶこのテキストには最新の予報技術や直近の気象災害の解説も掲載されていて、気象学のトレンドを実践的に学べるといいます。
平井 気象予報士
「気象情報をわかりやすく伝えるには常に新しい情報を仕入れ、気象データの“ウラ”を深く理解することが欠かせません。書店で得た最新の知見を元に頭の中で気象の“ストーリー”を組み立て、解説に臨んでいます。
津村書店は気象の世界が凝縮された特別な場所で、ここで得た知識が今の自分を形づくってくれました。ほかにこんな場所はなく、閉店をとても寂しく残念に思います」

創業65年 先代は“元気象台員”

多くの気象関係者に愛好された津村書店の歴史は、気象史とも重なります。
創業者は先代の津村義幸さん。

気象台の観測員として働いていましたが太平洋戦争後にいわゆる「レッドパージ」で職を追われました。

行商などで生計を立てていましたが気象台時代の仲間に誘われ中央気象台、今の気象庁の敷地で本を売るようになったのが店の始まりだったといいます。
いまから65年前の1955年といえば、トヨタ自動車がクラウンを発売、岩波書店が広辞苑の第一版を出版し、東京・文京区に後楽園ゆうえんちが開園した年でした。
意外なことに当初、気象関連本はほとんど扱っていなかったそうです。

気象衛星の打ち上げなどで観測や予報の技術が進展し、関連書籍が多く出版されるようになった1970年代後半ごろから専門書がどんどん増えていきました。

店も忙しくなり幸雄さんは先代の求めもあって店の営業に参加するようになったといいます。
幸雄さん
「インターネットなどない時代でしたから、勉強に必要だとして全国の気象台から注文が次々に入りました。お客さんからのリクエストもすごく多く、それはそれはよく売れました」

聖地にしてサロン

気象庁の職員にとっても情報収集をしたり、交流を深めたりするサロンのような場所になっていったといいます。彼らは退職後の今も店を訪れては旧交を温めています。
気象庁OB 古川武彦さん
「ふだんは関わりのない部署の人とも知り合って仕事にもよい影響を与える。そんな場所でした。リタイアしても来やすく、記憶を温めたり情報交換などしたりそういうことができるすてきなところ」
気象庁OB 高瀬邦夫さん
「気象の仕事は経験産業という面もあるので、その経験を若い人に伝え引き継いでいく場所でもあった。また不思議な出会いも起きる場所でもありました」
1994年に気象予報士制度がスタートすると試験の参考書も取り扱うようになり、気象予報士やその卵が出入りするようになっていきました。口コミなどを通じていつしか気象関係者の間で「日本唯一の気象専門書店」「気象予報士の聖地」と呼ばれるようになっていきました。

お客と会いたいから続けられた

ところがこの10年ほどはインターネット販売に押されて客足は遠ざかり、厳しい経営状態が続いていました。そしてことしの年末までに気象庁が虎ノ門に移転するのに合わせ、ついに閉店を決めました。

「経営が苦しいのにどうしてやめなかったんですか」と尋ねてみました。

幸雄さんはすぐに、これまで支えてくれた多くの客の存在があったからだと感謝の言葉を口にしました。
幸雄さん
「『お客さんと会いたい』という気持ちで続けてきました。ここでいろいろな方と知り合い、さまざまなことを教えてもらって鍛えていただいた。この店は私が作ったものではなく皆さんに作っていただいたと思っています。皆さんに会えなくなるのが本当に残念ですがチャンスがあればまたやりたいと思います」

閉店まで残り1か月 ぜひ一度足を運んでみては

多くの気象関係者に愛されてきた“聖地”の閉店まで残り1か月。
閉店後も出張販売やネットでの営業は続けていくとのことです。

でも本を手にとってページをめくり、幸雄さんたちとの会話の中で新たな知識を得る楽しみは、いましか味わえません。

この場所に足を踏み入れたとき、きっと濃密な気象の世界の一端に触れることができるはずです。

津村書店
場所:東京都千代田区大手町1-3-4(気象庁1階)気象庁の入り口で手続きをすませて入場
営業時間:平日午前10時~午後5時(土曜日:午前10時~午後3時)
気象庁の移転に伴い、営業は10月31日まで