「一目、会わせたかった」~横田滋さん 知られざる最後の日々

「一目、会わせたかった」~横田滋さん 知られざる最後の日々
カメラに向かって、少しはにかんだ表情を見せる少女。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんです。

この写真は、父親の滋さんが、事件の前年、家族旅行中に撮影しました。

「もう一度、めぐみちゃんに会いたい」

その思いがかなわないまま、ことし6月に亡くなった横田滋さん。病室には、いつもこの写真が飾られていました。
夫の死から2か月。今月、妻の早紀江さんがNHKの単独インタビューに応じてくれました。
横田早紀江さん
「一目会うまでは、頑張らせたかった。娘と再会するという、たったひとつの希望さえかなわなかった。本当に残酷です」
早紀江さんへのインタビューで明かされたのは、2年余りに及んだ入院生活中の、知られざる夫婦の姿。そして、娘の救出に人生をかけた2人の、親としての強い思いです。
(社会部 記者 能州さやか)

「救出運動のシンボル」逝く

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたのは、今から43年前の昭和52年。中学1年生の時でした。

滋さんは、早紀江さんとともに「拉致被害者の救出運動のシンボル」として活動の先頭に立ってきましたが、ことし6月、入院先の病院で亡くなりました。87歳でした。
早紀江さんがNHKのインタビューに応じてくれたのは、滋さんが亡くなってから2か月余りたった、8月19日です。
早紀江さん
「夫は本当にまじめで、正直者。とても信念の強い性格で、43年間、全力投球で闘い続けてきました。入院してからの2年間も、文句一つ言わず、いつもにこやかにしていました」
めぐみさんが突然、姿を消してから、20年がたった平成9年。

北朝鮮にいるという情報が寄せられると、2人は、ほかの家族とともに拉致被害者の家族会を結成し、滋さんは代表に就任しました。

すべての都道府県を回り、署名活動や1400回を超える講演を重ねた横田さん夫婦。

滋さんの手帳にはスケジュールがびっしりと書き込まれていました。講演の依頼は、決して断らなかったと言います。

「1秒でも長く」命つなぐために

しかし、滋さんは、3年前の平成29年以降、足腰が急速に衰え、会話にも詰まるようになりました。
公の場に姿を見せたのは、その年の11月15日、めぐみさんの拉致から40年の節目にあわせて開かれた記者会見が最後でした。
翌年の4月、体調を崩して病院に。そのまま入院します。

今回のインタビューで早紀江さんは、滋さんが入院後、食事がのどを通らなくなったため、家族で話し合った結果、チューブで胃に直接栄養を送る「胃ろう」の手術に踏み切ったことを明かしました。

「拉致問題の解決が見通せない中、少しでも長く時間を稼ぐ必要がある」「1秒でも長く生きさせてあげたい」

命をつなぎ、何とかして親子の再会を果たしたいという思いからの選択でした。
早紀江さん
「めぐみちゃんが帰ってくることを信じて、『とにかく一目会うまでは頑張らせてあげよう』と考えていました。病院から、いつまでも長くはいられないだろうと言われていたので、その時までは、できるだけのことをしてあげようと思っていました」

病床の夫を支え続けて

滋さんが入院してから、早紀江さんは毎日、病院を訪れていました。
ひとりで歩くのは難しくなっていた滋さん。車いすを押して散歩したり、滋さんの手足の関節が硬くならないようマッサージしたりする日々だったと言います。

それは、長年、娘の救出のために命を削って闘ってきた夫妻にとって、久しぶりの夫婦水入らず、心安まる時間だったのかもしれません。
一方で、病床にあっても、滋さんは拉致問題に関わるニュースには関心を持ち続けてきました。

例えば、入院の2か月後に行われた史上初の米朝首脳会談。
2人は病室のテレビでニュースを見ていました。
早紀江さん
「『アメリカのトランプ大統領が北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)委員長に、拉致問題について話してくれたのよ』と大きな声で話しかけると、『うん、うん』とうなずいていました。ちゃんと分かっていたと思います」

病室に飾られた3枚の写真

今回の取材で早紀江さんは、滋さんの病室に3枚の写真を飾っていたことを私たちに教えてくれました。
そのうち2枚は、カメラが趣味だった滋さんが撮った、めぐみさんの写真です。

小学校の運動会の時の、笑顔の1枚。
もう1枚は、冒頭でご紹介した、拉致される1年前に、家族で訪れた旅行中の1枚。

そして3枚目は、平成16年に北朝鮮が出してきた、大人になっためぐみさんの写真です。
早紀江さん
「入院する前に、この写真を見て、『こんなに元気に育っていたんだね』『これぐらい大きくなっていると信じようね』と、2人で話をしていたんです」

「夫は、いつまでも娘のことを思っているでしょうから、懐かしく感じられるように、にこにこ笑った昔のめぐみの写真も置いていました。私や息子たちが『めぐみちゃんに会いたいよね』と声をかけると、『そうだね、そうだね』と言っていましたね」

コロナ禍に託した手紙

病院に通う日々が続いた早紀江さん。しかし、この春は、それができなくなりました。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、面会が禁止されたからです。

会うことができない1か月ほどの間、早紀江さんは、担当の看護師に短い手紙や自分で描いた花の絵を託し、滋さんを励まし続けていました。

緊急事態宣言が解除され、久しぶりに面会した時、滋さんの衰弱は進んでいたと言います。
早紀江さん
「こちらが話しかけると、意識があって、分かっているようでした。それでも『自分で話そうと思っても声が出ないから、いらだっているだろうな』と思って、『大丈夫だよ』と声をかけながら、足をマッサージしました。それぐらいのことしかできなくて」

「やっと休める」「悲壮感はない」

そして6月5日。病院から、滋さんの体調がよくないと連絡があり、家族が集まりました。

看護師から大きな声で話しかけるよう促された早紀江さん。こう声をかけたと言います。「『天国に行けるよ、元気でね』『私もいつか行くから、必ず待っていて下さいよ、忘れないでね』って」
早紀江さん
「夫は、今まで頑張りすぎてきましたから。娘を取り戻すことについても、『息子たちもいるから、心配しなくていいよ』と送り出しました。大変な別れだったけれど、悲壮感はありませんでした。我慢強く、一生懸命闘ってきた夫が、やっと休めているなと思います」
滋さんが亡くなって2か月。早紀江さんは今も、ふと気づくと、滋さんが入院していた病院に向かうバス停に並んでいることがあると言います。
早紀江さん
「『病院に行ってもいないんだ』と思い、少し寂しくなりますが、その寂しさに引きずりこまれないように、一生懸命心がけてます。家には、夫がにこにこと笑った写真があるから、『お父さん、おはよう』『私は元気でいますよ』って話しかけているんです」

「試されるのは政治の力」

夫婦二人三脚で闘い続けてきた早紀江さんは、ことし、84歳になりました。

高齢化が進む被害者家族。政府が認定している拉致被害者のうち、安否がわかっていない12人の親で、健在なのは、早紀江さんと、有本恵子さんの父親の明弘さんの2人だけです。
めぐみさんが拉致されてから43年。今回のインタビューで強く印象に残ったのが、「家族が世論に訴える時期はもう過ぎた」という早紀江さんのことばです。
早紀江さん
「夫も、すでに亡くなった被害者家族も、肉親との再会を信じていました。その、たったひとつの希望さえかなわなかった。本当に残酷な話です」

「私たちは、43年間、娘を取り返すためにできるかぎりのことをやってきました。私は倒れるまで頑張ります。でも、本当はそんなことをする必要はないはずなんです。あとは政治の力が試されている。北朝鮮が一刻も早く、すべての被害者を帰国させるように進めてほしい」

もう、時間がない

「この手で娘を抱きしめたい」「失われた日常を取り戻したい」と切望してきた、拉致被害者の家族たち。

残された時間が少なくなる中、最近は「ほんのひと目でいいから会いたい」と訴える場面が多くなりました。

安倍政権は拉致問題の解決を最重要課題として掲げ続けてきました。

被害者家族の思いに、どう応えるのか。もう、一刻の猶予もありません。
社会部 記者
能州さやか