「失ったものを数えるな 残されたものを最大限生かせ」

「失ったものを数えるな 残されたものを最大限生かせ」
「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」
これは“パラリンピックの父”と呼ばれる医師のことばです。パラリンピックの精神を最も端的に表していると言われています。
いま、新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピックとパラリンピックの開催が危ぶまれています。
「オリンピックすら開催が見通せないのに、障害者が出場するパラリンピックは中止もやむをえないのではないか」
パラリンピックをめぐって、そんな声すら漏れ聞こえるようになりました。それでもパラ選手たちは来年の開催を信じて厳しいトレーニングを続けています。
コロナ禍の中でも選手たちが追い求め続けるパラリンピックの価値とは、いったい何なのか。“パラリンピックの父”が残したことばを手がかりに開幕1年前のいま、立ち止まって考えてみたいと思います。
(スポーツニュース部 記者 中野陽介/島中俊輔)

“ウィズコロナ”ができない

「僕にはウィズコロナはない」
そう話す金メダリストがいます。パラ陸上、車いすのクラスのベテラン、伊藤智也選手(57)。2008年の北京パラリンピックで2つの金メダルを獲得し、東京パラリンピックでもメダルが期待されているトップ選手です。
そんな伊藤選手にとって新型コロナウイルスは単なる感染症ではありません。免疫に異常が生じる難病のため感染すると命に直接、危険が及ぶのです。
このため5月までの半年間は、自宅にひきこもる生活を余儀なくされました。
伊藤智也選手
「基礎疾患のある僕にとっては死に直結するウイルスで、絶対にかかってはいけないので共存のしようがない。最大限、臆病にならざるをえない」
ほかにもパラリンピックを目指す選手の中には肺機能などに基礎疾患をかかえる選手も少なくありません。
「重症化のおそれがある選手のためにも、パラリンピックは中止にしたほうがいい」
関係者の間からそんな声もあがるのは、こうした事情があるのです。

それでも東京を目指すわけ

伊藤選手は東京パラリンピックの開催を信じ、トレーニングを重ねています。
命の危険と向き合いながら、なぜ、そこまでしてパラリンピックを目指すのか。伊藤選手に問うと、こう答えてくれました。
伊藤智也選手
「大会に無事に出ることのほうがメダルを取るより難しい、そういう時間を過ごしている選手がたくさんいる。それでも世界中がコロナと闘った先にパラリンピックを開ければ、コロナ禍を生き抜いた選手たちと世界中の人たちの心が1つになれると信じている」

「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」

選手たちが信じるパラリンピックの力。
それを象徴するのが冒頭に紹介したことばです。

「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」

“パラリンピックの父”と呼ばれるイギリスの病院の医師、ルードウィヒ・グットマン博士(1899~1980)が残しました。
それぞれに障害があり、大きな困難に向き合いながらも競技に取り組む選手たちの背中を押し、多くの人の支えになってきました。

人生を変えた東京パラリンピック

東京 品川区に住む星義輝さん(72)も、そのことばを支えとしてきたひとりです。
2歳の時の小児ポリオで下半身に障害がある星さんは、このことばを胸に人生を切り開いてきました。
きっかけは1964年、16歳の時に開かれた前回の東京パラリンピックを会場で実際に観戦したことでした。
星義輝さん
「体力の差、スピード、やっぱり海外選手ってすごいんだなって。世界のトップの技術を見て、かっこいいって憧れました。よし、俺も頑張ってみようかなって思ったんです」
当時、まだ日本に障害者がスポーツをする文化がほとんどない時代。星さんは仕事のかたわら車いすバスケットボールや陸上、水泳、卓球といったさまざまなパラスポーツに挑戦します。
そんな時、遠征先のイギリスで出会ったのがグットマン博士のことばでした。星さんはその時の気持ちをこう話します。
星義輝さん
「人間って、ないものねだりするじゃないですか。でもそんなことを考えていたって前に進めない」
衝撃を受けた東京パラリンピックから12年、星さんはついに車いすバスケットボールと陸上で、自分もパラリンピック出場を果たします。
そして、車いすの操作技術を競う陸上の車いすスラロームでは見事、金メダルを獲得しました。
その後は指導者に転身、一線を退いた今も子どもたちに車いすテニスを指導するなどその意欲は衰えていません。
星義輝さん
「東京パラリンピックがなかったら、パラスポーツにのめり込んでいないし、あるものを最大限生かそうと自分も今まで生きてきた。人生の大きなきっかけです」

“社会を変える力”

もうひとり。パラリンピックが社会を変える力があることをみずからの生き方で示している女性がいます。
建築士の吉田紗栄子さん(77)です。
グットマン博士のことばを自宅の冷蔵庫に飾り、「人生の座右の銘」と語ります。
前回の東京パラリンピックに通訳として参加しました。
その時の経験が吉田さんのその後の人生を決定づけました。
吉田紗栄子さん
「障害のあるなし関係なく普通の人として自然体で接する海外の選手を見て、障害者も健常者も何の違いもないんだということを知ったのが驚きだった」
「残されたものを最大限に生かす」
そのことばどおり、車いすを器用に操り競技に打ち込む選手たち。そして、選手村に設置されたスロープや手すりなどの当時はまだ珍しいバリアフリーの設備。当時、建築を学んでいた吉田さんは、車いすで暮らせる「バリアフリー」の住宅を作る建築士の道を歩むことを心に決めました。
その後、バリアフリー建築の先駆けとして活躍し、およそ50年間にわたって携わったバリアフリー住宅は100軒以上にのぼりました。車いすでも楽に出入りできるフラットな玄関や壁を取り除いた広いトイレ。いまでは当たり前になったバリアフリー設備の普及に長年、力を注いできました。発想の原点には常にグットマン博士のことばがあったといいます。
吉田紗栄子さん
「何か足りないものがあれば知恵を使って何かしようという気になる。グットマンのことばはバリアフリーだけに限ったことではない。すごくポジティブな姿勢を貫くのにとても役に立った。56年前の東京パラリンピックと一つのことばが私の人生を決め、人生の屋台骨となっている」

コロナ禍を生き抜く力にも

人生、そして社会を変える力を宿した、グットマン博士のことば。世界がコロナ禍の渦中にある今だからこそ、不自由に見える新しい日常を生き抜くヒントになる。そう考えて活動する人もいます。
長野パラリンピックの金メダリスト、マセソン美季さんです。
全国の学校で行われている「パラリンピック教育」のリーダーを務めています。子どもたちに伝えているのは、事故や病気で日常を失いながらも、それを乗り越えてきた選手たちの生き様。そして、スポーツが“できない”とされてきた障害者のために用具やルールを工夫し、スポーツが“できる”という実績を積み上げてきたパラリンピックの歴史です。
「できなくなったことではなく、今できることに目を向ける」
パラリンピックの精神は、コロナ禍の今の逆境を乗り越える力になると考えています。
マセソン美季さん
「延期された1年がパラリンピックの価値を学ぶ時間になれば、来年の大会から感じ取れるものは、はるかに大きくなる」

パラリンピックの価値

パラリンピックは単なるスポーツ大会という存在を越えて、それぞれの人生の中で息づいてきました。
だからこそ来年、困難を乗り越えて開催された大会を楽しめるとしても、残念ながら開催がかなわなかったとしても、パラリンピックに特別な思いをもって生きてきた人たちがいることを、ひとりでも多くの人に知ってほしい。
コロナ禍という不安定な時代だからこそ、人が生きることの力強さ、そしてその尊さに気付かせてくれる。
それがパラリンピックの大切な価値なのではないかと思います。
スポーツニュース部 記者
中野陽介
スポーツニュース部 記者
島中俊輔