慰霊の登山 阻まれた夏

慰霊の登山 阻まれた夏
35年前、520人が犠牲となった日航ジャンボ機が墜落した群馬県の山中には、毎年8月、多くの遺族が慰霊の登山に訪れます。新型コロナウイルス、そして35年という年月は、遺族の慰霊の登山を阻む形となりました。
墜落事故で当時小学6年生の息子を亡くした遺族、女優として期待された24歳の娘を亡くした遺族、それぞれの思いを取材しました。
(前橋放送局記者 千明英樹 社会部記者 山田沙耶花)

赤いパーカー

日航機墜落事故の取材を10年前から始めた私(千明)は、この春、あるものが気になっていました。
あるものとは、墜落現場の御巣鷹の尾根の墓標に毎年新しく着せられる「赤いパーカー」です。
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、慰霊の登山や式典が大幅に縮小されるなか、赤いパーカーはどうなるのか。
私(千明)は、ことし4月に連絡をとり、毎年パーカーを持って行く遺族に会いにいきました。

魂は御巣鷹の尾根に

東京 大田区に住む滝下政則さん(80)と妻の史代さん(77)です。
35年前、小学6年生だった裕史くんを(当時11)墜落事故で失いました。
兵庫県の親戚の家を訪れるため、1人で飛行機に乗っていました。
以来、滝下さん夫妻は「裕史の墓は東京にあるけれど、魂は御巣鷹の尾根にある」と、毎年命日の8月12日に慰霊の登山を続けてきました。

次第に足腰が弱くなる中、1日8000歩を目標に運動を続けてきたという滝下さん。
私(千明)が、命日の登山をどうしますかと聞いたら、ことしは新型コロナウイルスの感染拡大で断念すると残念そうに話しました。

野球少年

裕史くんは、平日は朝練、休日は試合と、毎日が野球の生活でした。
ユニフォーム姿の遺影は地区大会で優勝したときに撮影したもので、優勝カップを手に満面の笑みを浮かべています。

その日常が突然絶たれました。

親の気持ちとは

裕史くんが大好きだったのが赤いパーカーでした。
滝下さん夫妻は、毎年欠かさず赤いパーカーを墓標に着せてきました。
どんな気持ちなのか尋ねてみると、それは想像もつかないことばでした。
滝下政則さん
「親の気持ちだね、要するに“かぜ”でもひくんじゃないかっていう気持ち」
私(千明)は、いつも子どもを心配する親の思いに触れた気がしました。
滝下さんは、慰霊の登山を断念したとはいえ、ことしも新しいパーカーを用意し、別の人に託すことにしました。

無事に着せられた赤いパーカー、“手紙”

託されたのは御巣鷹の尾根の管理人を10年以上にわたって務める黒沢完一さん。
年に100日以上人知れず山に入り、高齢化する遺族が歩きやすいよう、登山道の整備を続け、遺族を支援してきました。

8月12日。
黒沢さんは滝下さん夫妻の思いを胸に、墓標を訪れました。
墓標には、去年、滝下さん夫妻が着せたパーカーが残されていました。
黒沢さんは、滝下さんに代わって丁寧に、墓標に新しい赤いパーカーを着せていました。
手紙も手向けられました。
手紙には次のように書かれていました。
『裕史君へ
 今年の夏はコロナのため、山に登れないので
 黒沢のおじさんへお願いしました。
 山に登れなくてごめんなさい。
 来年は必ず会いにいくので待っていて下さい。  
                     政則 史代』
失ってもなお、子どもを思い続ける親の純粋な気持ちに触れて、私(千明)は取材者のひとりとして改めて、一瞬で多くの人の命を奪った事故を伝え続けなければならないと思いました。

将来を期待された娘

事故から35年になるのを控えたこの夏、私(山田)は娘が犠牲となった遺族の家を訪ねました。
航空担当の記者として1年がたとうとする時で、事故のあとに生まれた自分にできることは何か、そう思ってのことでした。
都内のマンションを訪れると、吉田公子さん(86)は、私がすぐに見つけられるよう部屋の外で迎えてくれました。
吉田さんは、事故で当時24歳の娘の由美子さんを亡くしました。
宝塚歌劇団出身で映画やドラマにも出演するなど将来を期待され、歩み始めたやさきのことでした。
吉田さんは由美子さんの写真を手に取りながら、当時を振り返ってくれました。

事故の2日前、由美子さんが1人暮らしをしている東京の家から横浜市の実家に帰省し、家族で花火を見たり、買い物に出かけたり、夏休みを楽しんでいました。
事故当日、吉田さんのもとに衝撃の電話がかかってきます。
「事故機に由美子さんが乗ってるんです」

吉田さんは「そんなはずありません」と即座に否定しましたが、由美子さんはその便に乗っていました。
吉田さんは羽田空港に駆けつけ、大勢の乗客の家族とともにバスで墜落現場の群馬県上野村に行きました。

大切に保管されている遺品

事故から3日後にはボロボロになった由美子さんの財布が。
その2日後には、由美子さんが見つかりました。
仏壇の引き出しに遺品が整理されていました。
財布、指輪、イヤリング、手帳、本にかけていたカバー、ひとつひとつが小分けにして袋に入れられていました。
つらいけど、ゆっくり見てやらなくちゃ。
そう語る吉田さんと一緒に由美子さんの遺品を見ました。
「夫が由美子にしては珍しくお金を持ってたね、なんて言ってたんですよ」と財布を手に取って懐かしそうにする吉田さん。
吉田公子さん
「由美子は日曜の9時からのドラマの主演が決まっていたんです。オーストラリアでのロケがあるんだって、海外での撮影なんてその頃めったになかったから楽しみにしていて」
手帳のあるページにはオーストラリアでの撮影の予定が書き込まれていました。

慰霊登山を続けてきた理由

事故直後、吉田さんは現場近くで待つ間、「ここにもヘリが飛んでこないかしら」と空を見上げていたといいます。
そして翌年の5月、初めて夫とともに墜落現場の「御巣鷹の尾根」に登ることができました。
その年の8月12日の朝、吉田さんはいても立ってもいられず、宿も予定も決めないまま家を出て、花束を手に山を登りました。

それから毎年、慰霊の登山を続けてきました。
吉田公子さん
「春はちょうど新緑の頃に行くので、桜やシャクナゲ、いっぺんにいろんな花が咲いてとてもきれいなんですよ。夏は山が濃い緑色で、秋は紅葉が見事でね」
吉田さんの語る御巣鷹の尾根の四季は美しくて、聞いていて悲しくなりました。
慰霊登山を続けてきた理由を尋ねると、吉田さんはことばを詰まらせ「それで気が済むわけではないんですけど、御巣鷹に行くということが、せめてもの娘に対してしてやれることだと思っています」と話してくれました。

登山を見送ることに

吉田さんは86歳。
墜落現場の御巣鷹の尾根への登山道が整備されたとはいえ、片道1時間程度だった道のりは、近年倍かかるようになり、下りの時にはひざが痛むようになりました。
「みんなに迷惑がかかる」
吉田さんはことし登るのを見送ることにしました。
吉田公子さん
「いずれ登れなくなるのは分かりきっていたことですから、これからも、山に限らずできることは精いっぱいやりたい」
いつか登れなくなったときに後悔しないよう、吉田さんは毎年登り続けていたのだと思いました。
今月12日、吉田さんは、ふもとの慰霊の施設で娘に花を手向けました。
由美子さんが大好きだったというあんみつを登山をした息子に届けてもらいました。

はっとさせられたことば

命日の2日後、私は再び吉田さんに会いに行きました。
吉田公子さん
「お供え物は、息子が『僕が持って行くよ』と言ってくれたんですよ」
自分が登れなくなっても、登ってくれる人がいる。
吉田さんはとてもうれしそうでした。
吉田さんといろいろ話す中で、私がはっとさせられたことばがありました。
吉田公子さん
「人の命を預かっているのだから、整備も修理もおろそかにされては困るということを、公共交通機関に携わるすべての人に意識してほしいです。1度しかない人生ですから、一生懸命生きていた人が、突然人生を閉じなければいけないのはどんなに無念だろうと思います」
それは安全への強い願いでした。

事故を直接知らない世代に“継承”を託す

取材の過程で、私が事故を直接知らない世代であることを率直に伝えると、吉田さんは「私がほかの事故を詳しく覚えていられないように、この事故のことを忘れていく人もたくさんいます。だから、事故のことをずっと伝えていってください」と話してくれました。

その思いに少しでも応え、事故のない安全な社会を築くためにこれからも取材を続けます。
前橋放送局記者
千明 英樹
社会部記者
山田 沙耶花