“団長さん お疲れ様” 渡哲也さんと親交のあった人から悼む声

“団長さん お疲れ様” 渡哲也さんと親交のあった人から悼む声
渡哲也さんが亡くなったことが伝えられ、親交のあったゆかりの人からは追悼のコメントが次々と寄せられています。
このうち、渡哲也さんと映画やCMで何度も共演し、長年親交のある俳優の吉永小百合さんは「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで※恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です。ご冥福を心からお祈りいたします」とコメントしています。

※弟の渡瀬恒彦さん
また、渡さんと私生活で長年交流があった歌手の北島三郎さんは「不思議と仕事上では共演したことはないのですが、裕次郎さんの時代からのご縁もあり、昔から個人的に親しくさせていただいていて、自分としては兄弟のように思っていました。俳優としてはもちろんですが、なにより人間として素晴らしく大好きな方でした。最近は体調がすぐれないと聞いてはいましたが、早すぎる友の旅立ちに深い悲しみとさびしさで胸がいっぱいです。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしました。

また、自身が司会を務める民放のインタビュー番組「徹子の部屋」で共演した黒柳徹子さんは「渡哲也さん。なんて悲しい。渡さんには『徹子の部屋』に7回御出演いただきました。いつも素敵なたたずまいで、本当にお優しい方でした。お会いするたびに、私は、嬉しく思っていました。『徹子の部屋』で、石原裕次郎さんと共演した時のエピソードをお話しくださった時に、涙を流していらしたのが印象に残っています。ご冥福を、お祈りいたします」というコメントを出しました。

病気と闘い続けた渡さんの俳優人生

今月10日に亡くなった渡哲也さんは、30代の頃から病気と闘いながらも第一線の俳優として活動を続けてきました。

渡さんは昭和49年の大河ドラマ「勝海舟」で主演を務めるも急病で降板し、のちにこう原病と診断されたことを明らかにしています。

また、平成3年には直腸がんを患い、直腸を切り取る手術を受け、人工肛門を装着したことを公表すると、それでも俳優活動を続ける姿に、患者やその家族などから勇気づけられたという声が相次ぎました。

さらに、平成27年には急性心筋梗塞で手術を受け、その後も肺気腫などを患い、治療やリハビリを続けながらCMなどの仕事をしていたということです。

病気と闘いながらもりんとしたたたずまいで俳優を続けた渡さんは、がん闘病中の子どもたちを見舞うなど、多くの患者を勇気づけていました。

自宅に向かって手を合わせるファンも 弔電なども次々届く

渡哲也さんが亡くなったことが伝えられて一夜明けた15日、東京 大田区にある渡さんの自宅には、花や弔電を届ける業者が次々に訪れていたほか、自宅に向かって手を合わせるファンの姿も見られました。

このうち、近くに住んでいるという50代の男性は、敷地の隅に花束を手向け、亡くなった渡さんを悼んでいました。

男性は「子どもの頃からテレビドラマの『西部警察』が好きでした。自宅で渡さんを見かけたときに『団長』と声をかけると気さくに応じてくれたことが思い出に残っていて、地元の誇りでした。大きな病気をされたあとも近所のレストランで見かけたときには、背筋をピシッとされていたのが印象に残っています。最近は体調がよくないとは聞いていましたが、『今までお疲れさまでした』という気持ちです」と話していました。

阪神・淡路大震災で炊き出しなどの支援活動も

亡くなった俳優の渡哲也さんは兵庫県の淡路島の出身です。

平成7年に起きた「阪神・淡路大震災」では、被災地に入って支援活動を行ってきました。

兵庫県芦屋市では被災者に炊き出しを行ったり、所属事務所が市にお風呂付きのバスを寄贈したりするなどの支援を行いました。

兵庫県芦屋市の前の市長で、震災当時は市議会議員だった山中健さんは渡さんが炊き出しをする姿を見ていたといいます。

山中さんは「石原軍団の皆さんと一緒に炊き出しをしていただいて、被災者が長い列を作っていました。皆さんの笑顔で被災者も癒やされたと思います」と話していました。

また、山中さんは震災後のイベントで渡さんと直接、会話する機会があったことを振り返り「渡哲也さんは多くを話す方ではありませんでしたが、どんと構えておられて、とても存在感のあるオーラのある方でした。お亡くなりになって本当に残念です」と話し、故人をしのびました。

東日本大震災の被災地 渡さんの励ましに感謝の声

渡哲也さんが亡くなったことが伝えられ、東日本大震災の時に渡さんと一緒に炊き出しを行った石巻市の飲食店からは当時を思い出して感謝の声が聞かれました。

東日本大震災の直後、渡さんは、「石原軍団」のメンバーとともに石巻市を訪れ、地元の飲食店などと協力して被災した住民のために炊き出しを行いました。

1日最大でおよそ5000人分を提供する大規模なものだったといいます。

一緒に炊き出し行った飲食店の社長、今野美穂さんの日記には、炊き出しの時の渡さんの様子がつづられています。

渡さんは、ロングエプロンに身を包み、被災した人たちに焼きそばを焼いてあげたほか、子どもたちと写真をとったり、住民ときさくに話をしたりしていたということです。

今野さんは「渡さんはとても優しい方でふさぎ込みがちだった当時の私たちを前向きにさせてくれました。亡くなったことには大変驚き、悲しいですが、あのときの笑顔は忘れません。私たちを励ましてくれたことに感謝を伝えたいです」と話していました。