西鉄電車銃撃事件 犠牲者の名前を探して

西鉄電車銃撃事件 犠牲者の名前を探して
仕事で県庁まで。夜勤明けで自宅へ。あるいは、恋人の見送りにー。75年前も、いまと同じ日常がありました。ささやかな暮らしを営む中で、もし突然命を奪われたら。そして、その事実が語り継がれることなく風化してしまい、誰が犠牲になったかすらわからなくなってしまったら…。昭和20年8月、終戦の1週間前に福岡県の小さな村で起きたある事件。公の記録が残っていない中で調査を続ける男性は、犠牲者の「名前」にこだわりながら、何が起きたのかを明らかにしようとしていました。
(福岡放送局記者 松木遥希子)

終戦直前、西鉄で何が

アメリカ軍の戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像です。画面中央の走行中の電車に向かっておびただしい数の銃弾が降り注いでいます。

アメリカ軍は、軍の司令部だけでなく輸送ラインや工場も主要な攻撃目標とし、終戦末期のこの時期には、町や村の民間施設にも攻撃が広がっていました。
昭和20年8月8日、午前11時半ごろ、筑紫村、現在の筑紫野市にある駅に向かって走行していた西鉄の2本の電車が突然、銃撃されました。

複数の戦闘機から繰り返し機銃掃射が浴びせられ、生存者のひとりは当時の状況について「車内は血の海であり、まさに地獄絵図」という証言を残しています。

記録がない

筑紫野市歴史博物館に勤める草場啓一さん(64)。長年、古墳などの発掘調査に携わってきました。草場さんは、地元で起きた悲惨な事件にもかかわらず、公的な記録が残されていないことにがく然としたといいます。
草場啓一さん
「情報がなく、誰からも理解してもらえない亡くなり方は、当事者にとっても本意ではないと思います。まるで十把一からげのように、数十人、百人亡くなったという事実だけで終わるのは悲しいと感じ、調査を始めました」

犠牲者は100人以上か

この事件については、当初、地元の役場や消防団が犠牲者の名簿を作成していましたが、戦後の火事や水害で相次いで失われました。

電車を運行していた西鉄は、戦後出した社史で「亡くなったのは64人」と説明していますが、地元に残るわずかな記録では、銃撃された電車はいずれも2両編成で、車内は満員の状態で100人から200人が犠牲になったという証言があります。

草場さんは、少なくとも100人以上が亡くなったとみて、日常の中にあった戦争の爪痕を何とか正確な記録として残せないかと、思いを強くしています。

あの手この手で調べ続けて…

正確な記録がない中、草場さんは6年前から調査を始めました。

これまで地元に寄せられていた情報を精査し、事件の生存者や目撃者を中心に聞き取り調査を重ねてきました。
関係者がいると聞けば、すぐに駆けつけ、文字どおり東奔西走してきました。また、市役所に残っていた戦時中の書類も確認。

当時の火葬証明書などを見つけ出して犠牲者の家族にたどりついたこともあります。そして、これまでに11人の身元が判明しました。

日常生活の中で

そのうちの1人、生田昌美さん(当時19)は、地元の女子専門学校(現在の女子大)に通っていました。勤労動員で同級生3人と電車に乗っていたところ、銃撃に遭い、背中に傷を負って死亡。遺族が地域の自治会に寄せた文章を草場さんが偶然見つけ、身元がわかりました。
鷲山昇さん(当時49)は、久留米市でみそを作る会社の顧問をしていました。大豆の払い下げの陳情のために県庁を訪れようと電車に乗っていました。鷲山さんの娘の証言が地元の中学校に残っていると聞き、草場さんの調査で当時の状況が明らかになりました。

また、当時、電車の運行には学徒動員の若者が多く携わっていて、駅員で夜勤からの帰りだった当時16歳の女性や、車掌だった当時23歳の女性が犠牲になっていたことも確認されました。
草場啓一さん
「多くの人がいろいろな目的を持って電車に乗られていたんですね。ところが何の予期もせずいきなり銃撃を受けて亡くなっている。無念の思いがいっぱいあったと思います」

戦後75年、時間との闘い

草場さんはいま、調査は時間との闘いだと感じています。

犠牲になった車掌の同期だという人を訪ねたもののすでに転居していたことや、ずっと探していた目撃者の連絡先をつかんだのにすでに亡くなっていたこともあります。

戦後75年となる中で事件の関係者は減り続け、草場さん自身も来年、定年を迎えます。残された時間は少ないと焦りを募らせています。
草場啓一さん
「ちゃんと記録しておかないと、やはり人は忘れていくんですね。亡くなった方のお名前があれば遠いよその出来事ではないということを伝えていけるのではないかと思います」

恋人を亡くした生存者が

草場さんの調査に協力する生存者の男性と会うことができました。広島市の明神貢さん、92歳です。

明神さんは以前、事件の情報を募集する記事を見て、名乗り出ていました。明神さんは、銃撃によって一緒に電車に乗っていた恋人の二宮ヒロさん(当時18)を亡くしました。

地元・広島から福岡の学校に進学した明神さんは、学徒動員によって配属された会社で、二宮さんと出会いました。そして、士官学校に入ることが決まった明神さんを見送りたいと二宮さんが一緒に電車に乗ったところ、事件に遭遇したのです。
明神貢さん
「急に何が起きたのかわからない状況でした。彼女は私の左側にいて、並んでつり革を持っていたと思います。彼女は真っ白い服を着ていました。背中を見たら大きな穴が空いていて、すぐにひざをついて崩れてしまったんです」
銃撃の際、明神さんも左腕を銃弾が貫通し、大けがをして病院に運ばれたため、二宮さんを救出することはできなかったといいます。

明神さんは二宮さんの死を家族にもほとんど話さず、戦後もずっと胸に秘め、写真を持ち続けてきました。そうした中で草場さんと出会い、広島まで何度も足を運ぶ草場さんから、二宮さんの名前を市の報告書に載せたいと言われました。

明神さんは彼女の生きた証しが残ることはうれしかったといいます。
明神貢さん
「私が死んだら、二宮ヒロという人がいたことはもうわからなくなってしまう。ありがたいことだと思います」

調査は続く

猛暑が続くこの夏も、草場さんは調査を続けています。この日は学徒動員で当時運転手として働いていた男性(92)のもとを訪れました。

戦後、当時の運転手や車掌と同窓会を何度か開いたという男性。見せてくれたのは、車掌だった女性たちの名簿でした。調査の進展につながりうる、貴重な資料で、草場さんは早速コピーを取らせてもらうことにしました。

草場さんはこの新たな手がかりを頼りに1人でも多くの「生きた証し」を明らかにしたいと、思いを強くしています。

なぜ「名前」にこだわるのか

私が今回の取材を始めたきっかけは、この春、転勤に伴って地元の福岡に引っ越してきた際、何気なく手に取った筑紫野市の冊子にこの銃撃事件の短い記事が載っていたことでした。

事件のことは福岡出身の私も全く知らず、もっと話を聞きたいと思い、歴史博物館に草場さんを訪ねました。

取材が進むほど、犠牲になった人たちの「名前」がその人の人生や物語をも表すもので、名前を残すという行為がいかに大切なのかを実感するようになりました。

取材の最後、草場さんが私に言ったことばが、今も強く心に残っています。
草場啓一さん
「犠牲者の名前がわからないというのは、銃撃事件を継承していくうえで、無機質な現象になってしまう。そこに多くの人の血が流れたということをちゃんと記録していかないといけない、それが後世に残された私たちの務めだと思います」
福岡放送局 記者
松木 遥希子