戻ってきた手紙

女学生が書いたきれいな手紙が日本に戻ってきました。そこには楽しそうな家族のようすも描かれています。誰に届くかのか、わからないまま出された、読み人知らずの手紙のようでした。やがてそうした手紙は全く出されなくなりました。出せる状況ではなくなったのです。(ネットワーク報道部記者 成田大輔)
皆々様

戻ってきた手紙は和紙に達筆な筆文字で書かれていました。
内容はお餅が配られたことや明治神宮に参拝したことなどお正月のようすです。
色鮮やかに描かれた、わらの靴を履いた子どもの絵も添えられています。
内容はお餅が配られたことや明治神宮に参拝したことなどお正月のようすです。
色鮮やかに描かれた、わらの靴を履いた子どもの絵も添えられています。

書き出しを見てみると「皇軍乃皆々様」でした。
届けたい
この手紙を持っていたのは、オーストラリアに住むマーガレット・スティーブンソンさんです。2017年に亡くなった父親の遺品の中から見つけました。

父親のフランクさんは、イギリス陸軍の曹長でした。太平洋戦争中、マレー半島などに従軍しました。
手紙は日本から海外の前線で戦う日本兵に宛てて出されたとみられます。
それがどうやってフランクさんの手に渡ったかは分かりません。
フランクさんは戦地から持ち帰ったこの手紙をアルバムに入れて大切に保管していたそうです。
スティーブンソンさんも子どもの頃、時々手紙を見せてもらっていて、「とてもキレイな絵だなぁ」とながめていたことを覚えています。遺品の中からその手紙を見つけた時、日本に届けたいと強く感じたといいます。
手紙は日本から海外の前線で戦う日本兵に宛てて出されたとみられます。
それがどうやってフランクさんの手に渡ったかは分かりません。
フランクさんは戦地から持ち帰ったこの手紙をアルバムに入れて大切に保管していたそうです。
スティーブンソンさんも子どもの頃、時々手紙を見せてもらっていて、「とてもキレイな絵だなぁ」とながめていたことを覚えています。遺品の中からその手紙を見つけた時、日本に届けたいと強く感じたといいます。

「父の死後、イギリスから手紙を持ち帰って、同僚に翻訳してもらい引き取ってもらえそうな博物館を探してもらいました。私はいつかこの絵が描かれた国に戻り、そしてこの絵を描いた方の手元に再び届いたらいいなといつも思っていました」(スティーブンソンさんのメールより)
奇跡

差出人には東京・渋谷区にある関東高等女学校の(今の関東国際高校)生徒の名前が書かれていて渋谷の博物館へと託されました。
受け取った白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の松井圭太学芸員は、庶民の生活が分かる貴重な資料だと言いました。
受け取った白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の松井圭太学芸員は、庶民の生活が分かる貴重な資料だと言いました。

松井圭太さん
「奇跡じゃないかと思うくらいよい状態で残っていて、驚きました。絵からもふるさとと感じてもらいたいという思いが伝わってきます」
「奇跡じゃないかと思うくらいよい状態で残っていて、驚きました。絵からもふるさとと感じてもらいたいという思いが伝わってきます」
当時は、戦地にいる部隊などに向けて、日用品やお守りなどを入れた「慰問袋」と呼ばれるものを送っていました。
松井さんは、その中に入っていたものではないかと考えました。しかし、実際にどのような状況で書かれたのかは分かりません。
6月、手紙が博物館に展示されることがニュースで報道され、差出人を探していると伝えられると、博物館に1本の電話がかかってきました。
松井さんは、その中に入っていたものではないかと考えました。しかし、実際にどのような状況で書かれたのかは分かりません。
6月、手紙が博物館に展示されることがニュースで報道され、差出人を探していると伝えられると、博物館に1本の電話がかかってきました。
電話

「この手紙は私たちが書いたものです」。
電話は95歳の渋谷寿栄さんからでした。渋谷さんも関東高等女学校に通っていました。「校長の指示で、授業の一環として全校生徒が兵隊に向けて手紙を書いていました」。渋谷さんはそう教えてくれました。
手紙は破れないように、美濃紙とよばれる丈夫な和紙を使ったこと、戦地で話の種になるような日常の何気ない話題を書いていたことも教えてくれました。
手紙を持って明治神宮でお参りしたあとで、学芸員の考えたとおり、手縫いの慰問袋に入れたそうです。
そして自分で買ったキャラメルなどのお菓子を添えて誰に届くかわからないまま送っていました。
電話は95歳の渋谷寿栄さんからでした。渋谷さんも関東高等女学校に通っていました。「校長の指示で、授業の一環として全校生徒が兵隊に向けて手紙を書いていました」。渋谷さんはそう教えてくれました。
手紙は破れないように、美濃紙とよばれる丈夫な和紙を使ったこと、戦地で話の種になるような日常の何気ない話題を書いていたことも教えてくれました。
手紙を持って明治神宮でお参りしたあとで、学芸員の考えたとおり、手縫いの慰問袋に入れたそうです。
そして自分で買ったキャラメルなどのお菓子を添えて誰に届くかわからないまま送っていました。

渋谷寿栄さん
「ニュースで手紙が戻ってきたことを知ってとても懐かしく思いました。当時、こうした手紙を出すのが当たり前でした。みんな一生懸命、書いていました。今は新型コロナウイルス対策で外出を控えていますが、いつか手紙を見たいと思っています」
「ニュースで手紙が戻ってきたことを知ってとても懐かしく思いました。当時、こうした手紙を出すのが当たり前でした。みんな一生懸命、書いていました。今は新型コロナウイルス対策で外出を控えていますが、いつか手紙を見たいと思っています」
高橋よね子
手紙がいつ書かれたかも分かってきました。手がかりになったのは、手紙の本文の内容です。

「新聞等は兵隊さん方が御餅をついていらっしゃる写真が出ております」
「門松も廃止され、そのお金を海軍省へ献金いたします為」
「門松も廃止され、そのお金を海軍省へ献金いたします為」

古い新聞記事を調べると、昭和18年1月に同じ内容の記事がありました。また手紙の差出人は、「五年竹組」の女子生徒でした。
関東高等女学校の卒業名簿を調べました。昭和18年3月に卒業した5年生に、同じ名前がありました。
手紙は昭和18年1月にこの女子生徒が書いたのではないかとわかってきました。
生徒の名前は「高橋よね子」。
しかし、高橋さんを見つけることはできませんでした。
関東高等女学校の卒業名簿を調べました。昭和18年3月に卒業した5年生に、同じ名前がありました。
手紙は昭和18年1月にこの女子生徒が書いたのではないかとわかってきました。
生徒の名前は「高橋よね子」。
しかし、高橋さんを見つけることはできませんでした。
書かれなくなった手紙
高橋さんが出したであろう読み人知らずの手紙。
こうした手紙は書くことができなくなってきたこともわかってきました。
教えてくれたのは、関東高等女学校で高橋さんの3年後輩になる91歳の増島アキ子さんです。
こうした手紙は書くことができなくなってきたこともわかってきました。
教えてくれたのは、関東高等女学校で高橋さんの3年後輩になる91歳の増島アキ子さんです。

増島さんは、昭和16年に入学しました。他の生徒と一緒に月に3通ほど兵士にあてた手紙を書いていました。
しかし徐々に戦況が悪化します。3年生になった昭和18年の夏からは兵器を作る軍需工場で働くようになりました。
学徒動員です。
もはや手紙を書く余裕がなくなってきたのです。
しかし徐々に戦況が悪化します。3年生になった昭和18年の夏からは兵器を作る軍需工場で働くようになりました。
学徒動員です。
もはや手紙を書く余裕がなくなってきたのです。
藤本先生
翌年の昭和19年9月には、担任の藤本要先生が出征することになりました。壮行会を開いたことも覚えています。

藤本先生を真ん中にして写した当時の学校の写真がありました。笑顔で送り出そうとしているもののみんなの表情の中にはなにか真剣さが感じられました。
戦争が身近に迫っていたこともうかがえました。
戦争が身近に迫っていたこともうかがえました。
空襲で割れないように紙をのりで十字に貼って補強している窓ガラス。足を見ると物資が不足していたため、女学生でも全員がげた履きです。
増島アキ子さん
「ハチマキ姿ですよね。ハチマキには死んだときに身元が分かるように、住所と名前を書いていました。出征した藤本先生にはまだ幼い子どもがいました。その先生が戦地から戻ってくることはありませんでした」
「ハチマキ姿ですよね。ハチマキには死んだときに身元が分かるように、住所と名前を書いていました。出征した藤本先生にはまだ幼い子どもがいました。その先生が戦地から戻ってくることはありませんでした」

増島アキ子さん
「女学生がはちまきを巻いてげたを履くなんて今では考えられない。でも当時はこれが当たり前でした。先生が戦死したと聞いても、涙も出ませんでした。国のために亡くなるのは、当然のような時代です。今とは全然違っていました」
「女学生がはちまきを巻いてげたを履くなんて今では考えられない。でも当時はこれが当たり前でした。先生が戦死したと聞いても、涙も出ませんでした。国のために亡くなるのは、当然のような時代です。今とは全然違っていました」
戦争とは
空襲も激しくなってきます。
昭和20年3月10日未明、10万人が亡くなったとも言われる東京大空襲に遭います。
増島さんたちが通っていた軍需工場、錦糸町の精工舎が全焼します。
しかし空襲の翌朝には、工場へ向かいます。道すがら多くの遺体を目の当たりにしました。
負傷した人もたくさんいて手当てをしました。
昭和20年3月10日未明、10万人が亡くなったとも言われる東京大空襲に遭います。
増島さんたちが通っていた軍需工場、錦糸町の精工舎が全焼します。
しかし空襲の翌朝には、工場へ向かいます。道すがら多くの遺体を目の当たりにしました。
負傷した人もたくさんいて手当てをしました。

2か月後、今度は渋谷や原宿、赤坂などが焼き尽くされた山の手空襲に遭います。関東高等女学校の校舎も全焼してしまいました。
人の命も、母校も奪ってしまうのが戦争でした。
人の命も、母校も奪ってしまうのが戦争でした。

増島アキ子さん
「死というものに対して鈍感になっていたというか、みんな命を落として当たり前と教育されていました。手紙が戻ってきたのはありがたいことですが、この手紙は絶対に戦争はしてはいけないと伝える教訓のようなものだと思います。母校の後輩たちには、それをしっかり学んでほしいです」
「死というものに対して鈍感になっていたというか、みんな命を落として当たり前と教育されていました。手紙が戻ってきたのはありがたいことですが、この手紙は絶対に戦争はしてはいけないと伝える教訓のようなものだと思います。母校の後輩たちには、それをしっかり学んでほしいです」
手紙が戻ってきたのは
人と人が殺し合っていた時代に出され、平和な時代に戻って来た手紙。その手紙が呼び起こしたのはつらい記憶でした。
出された手紙が戻ってくることは本来はないけれど、なぜ、今回、長い年月を経て戻ってきたのかと考えてみると、それはかつてのような時代に後戻りしてはならないという強い思いを持つ人たちがたくさんいて、過去を忘れてはならないと言うけれど、本当に忘れてはならない過去が絶対にあって、それを改めて伝えるために戻ってきたのではないかと、感じました。
出された手紙が戻ってくることは本来はないけれど、なぜ、今回、長い年月を経て戻ってきたのかと考えてみると、それはかつてのような時代に後戻りしてはならないという強い思いを持つ人たちがたくさんいて、過去を忘れてはならないと言うけれど、本当に忘れてはならない過去が絶対にあって、それを改めて伝えるために戻ってきたのではないかと、感じました。

ネットワーク報道部記者
成田大輔
成田大輔