「人災」発言 市長はなぜ

「人災」発言 市長はなぜ
「感染拡大に歯止めがかからなければ政府による人災だ」
青森県のある市長のこの発言、「Go Toトラベル」の対象から、東京を外すきっかけともなった。取材を深めると、背景には、感染防止と、経済の回復に向けた取り組みのはざまで苦悩する地方自治体の姿があった。
(佐野裕美江)

発言は突然

その発言が飛び出したのは7月13日。青森県むつ市の新型コロナウイルス対策本部会議だった。

会議の冒頭、市長の宮下宗一郎(41)は、政府が、22日から開始すると発表した観光需要喚起策「Go Toトラベル」について、こう述べた。
「Go Toトラベルが始まれば、ウイルスが全国に解き放たれることになる。そのことによって拡大に歯止めがかからなければ、政府による人災と評価できる」

出席した市のある幹部は「人災という表現には驚いた。ふだんの会見であればオブラートに包むだろうが、緊急事態宣言の時以上の危機感だと思った」と振り返る。

発信源は、むつ市

政府のキャンペーンに、市長が公然と異を唱えたむつ市は、本州最北・下北半島の中心に位置する、人口5万6000余りの街。漁業や林業などを基幹産業とする地方都市だ。
日本三大霊場の1つとされる恐山や、渓流沿いの温泉を楽しめる薬研温泉郷、野生のサルとしては世界で最も北に住む「北限のサル」が見られる「野猿公苑」などには、年間80万人以上の観光客が訪れる(※平成30年青森県観光入込客統計)。外国人観光客の誘致にも力を入れ始めた矢先だった。
ことし5月に市内の主な施設に宿泊した人は、去年の同じ時期の約35%と激減した。新型コロナの影響は、地方都市にも、容赦なく及んでいる。

それなのに、どうして宮下は異を唱えたのか。

感染者ゼロの「我慢」が水泡に

宮下は、会議のあとの記者会見で、こう説明した。

「Go Toトラベルの実施によって、リスクが高いところから低いところに確実に人が動く。そうすると、いままで我慢してきたこと、いま我慢していることがすべて水泡に帰す。国がどういうキャンペーンをやろうが、むつ市は市民を守る責任がある」
むつ市は、4月の緊急事態宣言の全国への拡大に先立って、市民に、極力、市内だけで活動するよう呼びかけてきた。また、出身者に対しても、帰省を控えるよう呼びかけるなど、“我慢”を求めながら対策にあたってきた。これまでのところ、市内で感染の確認は、ゼロに抑え込んできた。

弱すぎる地方都市の医療体制

宮下が危機感を抱く背景には、厳しい医療事情がある。

むつ市にある公立のむつ総合病院は、むつ市と周辺4町村の住民など、約8万人の医療を支える唯一の総合病院だ。
むつ市周辺の下北地域で新型コロナの感染者が確認された場合は、ここで受け入れることになるが、感染症専門の病床は、わずかに4床しかない。
重症患者の治療に使う人工呼吸器は10台、人工心肺装置(ECMO)に至っては1台もない。
加えて慢性的に医師や看護師が不足していて、ふだんから4時間の待ち時間がある診療科もあるほどだ。そんな中で新型コロナに対応する必要が出てくれば、とたんに通常の診療に支障をきたしてしまう。

これは、むつ市に限った話ではない。医療提供体制をどう確保するのかは、全国の地方都市で共通した課題だ。

恐れる「第1号」

さらに、こんな事情もある。

これまでのところ、むつ市では、感染者は確認されていない。それだけに市民には、「感染者第1号にはなりたくない」という不安が広がっている。感染者が30人余りにとどまっている青森県では、感染者が確認されると地元紙が1面で感染経路や濃厚接触者を表す図も作成して大きく掲載する。

そして地域では、感染者が誰なのか、どの会社や店の人なのか、世間話だけでなくインターネットでも“感染者探し”が始まる。こうしたことによる風評被害を市民の誰もが恐れている。

宮下は、「(感染者の)1という数字の中には、1人の人生、命、それにつながる家族、暮らしがある。それを大切にする日本であってほしい」ともらす。

“古巣”に複雑な思い

実は宮下は、「Go Toトラベル」を所管する国土交通省の出身だ。
大学卒業後、国土交通省に入り、むつ市長だった父の急逝を受け、市長選に立候補するまで、11年間官僚としてのキャリアを積んだ。市長としての基礎は、役所で身につけたと感じている。

しかし「Go Toトラベル」は、対象から東京が外れたものの、予定通り7月22日から実施されることになった。そんな古巣の対応に、“地域の実情が伝わりきらなかった”と落胆した。
「国土交通省は、現場で国民の命、健康を第一に考えて施策を実行していく省庁。“経済を動かすせっかくの政策を感染が拡大する局面で行うべきなのか”という意見を私が言えるのも、国土交通省で特定の利益に偏らず、国民の利益を追求する姿勢を育ててもらったから。だからこそ、『Go Toトラベル』が全国で感染が拡大するタイミングで、実行されるのは残念でならない」

分かれる賛否

宮下の“人災”発言は、数多くのメディアで取り上げられ、民放の情報番組にも生出演するなど大きな反響があった。

市役所には、県内外から約200件の電話やメールがあった。このうちの6割以上は「よく言った!」「収束したらむつ市に行ってみたい」といった賛同する意見だった。

しかし、「経済を回さない方が死者が出る」「収まるのを待っていれば、観光業は持たない」「感染が拡大している地域に住む人を差別するな」などの厳しい声もあったという。

苦境続く宿泊・観光施設

むつ市では、「Go Toトラベル」による感染拡大のリスクを抑えるためとして、市ができる最大限の対策として、23日からの4連休、「薬研温泉露天風呂」や「野猿公苑」など、公営の21の観光施設などを閉鎖した。
実は公共施設の閉鎖は、緊急事態宣言の解除後も、その必要性ややり方について、市の関係者などの間で繰り返し議論されてきた。

しかし、「Go Toトラベル」の実施が、8月から7月の連休にあわせて前倒しされたこと、また7月に入って青森県内で首都圏から来た人や、首都圏に行った人の感染が相次ぎ、むつ市内でも感染者が出る可能性が高まったため、閉鎖の方向で議論が本格化した。
緊急事態宣言が出されていた時から下北地方の医療体制は変わっておらず、感染拡大への警戒感は緩めるわけにはいかなかった。

ある宿泊施設では、宮下の発言のあと、感染が広がる地域からの利用客を中心に予約のキャンセルが相次ぎ、3割ほど減ったという。この施設の幹部は「正常化には時間はかかると思うが、収束後も来ることをためらう人がいるのではないか」と不安を募らせる。

まちの経済をどう支えていくのかも、避けては通れない喫緊の課題だ。

まずは足元から

宮下も「Go Toトラベル」の意義や必要性は、十分理解している。しかし現状では、観光振興はリスクの低い近隣の市町村や県内に限定して進めていくべきだと繰り返し訴えてきた。

現在、近隣の市町村を対象にした宿泊キャンペーンなどの検討を進めている。全国一律ではなく、地域の事情に応じた経済対策が必要だと強調する。
「経済を動かすためには、ヒト・モノ・カネを動かす必要があり、『Go Toトラベル』はそれにあたるものだった。しかし、感染が拡大する中では、全国一律ではなくまず近隣、県内から始めていくべき。国からは多くのお金が地方に来ていて、その活用方法は地域の中でそれぞれ知恵を出して考えるべきだ」

対策は打っているが…

むつ市でも、全国のほかの自治体と同様に、あの手この手で経済対策を打ってきた。

飲食店などへの30万円の給付や、宿泊業者を対象にした固定資産税の8割給付、プレミアム付きの商品券も発行した。細かいものでは、テイクアウトで飲食店を利用すると自宅から出るごみが増えるとして、市が指定するゴミ袋を市民に無料で配るという支援策も。

30万円給付の事業では、これまでに見込みの9割を超える940社以上から申請があったという。

7月に入ると、アルバイトができないなどの理由で経済的に困っているむつ市出身の学生の支援に乗り出した。
ご当地グルメ「海自カレー」のレトルトや特産の「海峡サーモン」のお茶漬けなど、特産品およそ5000円相当の詰め合わせを仕送りとして800人以上に送る。
観光客が減少する中、特産品の販売業者も支援する狙いだ。

財源約11億円は、国からの交付金や市の貯金にあたる財政調整基金の取り崩し、予算の組み替えで捻出した。市の歳入のうち、自主財源は3割以下、そして財政の健全さを示す実質公債費比率は16.6%と、全国でも最下位クラス。厳しい財政状況を抱える中、これまでにない規模の予算だった。

いまだコロナ禍がいつ収束するとも見通せない中、これ以上、自治体が対策を続けていくことには限界がある。

「命を守れるか」

しかし、宮下はこう強調する。

「自治体のトップに求められるのは、市民の命と健康をどう守っていくか、安心安全をどう確保するかということに尽きる。そして、経済もまた命に直結するもの。経済が冷え込めば、難しい状況で首をくくらないといけないということは、わたしも酒屋の息子で、よくわかっている。しかし感染拡大の局面の中では、命か経済かではなく、命を守れるか、守れないかという中で、わたしたちにできることをする必要がある」
政府は、感染防止と社会経済活動の段階的な再開を両立させることが基本方針だとする姿勢を崩していない。一方で新たな感染の確認は、東京だけでなく、全国で相次いでいる。「人災だ」とまで言わざるをえない地方都市の声を、国はどう聞くのか。
一方で自治体は、命を守りながら、どう地域の経済を回し、財政も維持していくのか。コロナ禍が続けば、さらに深刻な事態に直面する恐れもある。いま、その在り方が問われている。
(文中敬称略)
むつ支局記者
佐野 裕美江
2016年入局。青森局に赴任後、現在、むつ支局でカメラを回しながら下北半島を1人で取材。本州最北のNHK記者。