よみがえったトキワ荘「石ノ森さんはレコードをかけながら…」

よみがえったトキワ荘「石ノ森さんはレコードをかけながら…」
「鉄腕アトム」「天才バカボン」「サイボーグ009」「オバケのQ太郎」。これらの漫画の共通点ご存じですか。作者の手塚治虫、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄…、日本を代表する漫画家たちは、東京・豊島区のアパート「トキワ荘」で若き日をともに過ごしました。のちに「漫画の聖地」と言われるようになった「トキワ荘」が今回、原寸大で復元。力を貸したのは、当時住んでいた漫画家たちでした。(首都圏センター記者 戸叶直宏)

元住人の漫画家が語る「トキワ荘」

「石ノ森さんは、ドアを開けっぱなしてレコードをかけながら漫画を書いていました」。

こう語ったのは、漫画家の水野英子さん(80)。「星のたてごと」や「白いトロイカ」が代表作で、女性の少女漫画家の草分けと言われています。水野さんが「トキワ荘」に入ったのは、18歳だった昭和33年。赤塚不二夫さんや石ノ森章太郎さんたちと7か月を過ごしました。

漫画家が暮らしていたのは、「トキワ荘」の2階。4畳半の部屋が合わせて10室あり、炊事場とトイレは共同でした。水野さんの部屋は石ノ森さんの部屋の向かい。当時の生活について、こう振り返りました。
水野さん
「みんな部屋のドアは開けっぱなしで、住人だけでなく編集者などいろんな人が出入りしていました。いつか漫画を自分の一生の仕事にしようと夢を持ち、ただひたすらに漫画を描きたい人が集まっていたところでした」

漫画が“悪書”と言われた時代に

いまでこそ、世界に誇る日本の文化となった漫画ですが、水野さんが入居した昭和30年代は“悪書”とされていました。水野さん自身も、初対面の人に「漫画家です」と言えなかったといいます。
水野さん
「当時は、『漫画を読むと頭が悪くなるからやめなさい』と親に止められる時代でした。当然、漫画の話はご法度で、話をできる友達もいませんでした。だからこそトキワ荘に来て初めて好きなだけ漫画を描いたり、話したりできるようになったので、私にとっては天国でした」
「トキワ荘」は、ただ漫画を描く場所ではありませんでした。近くにあったラーメン店「松葉」はいまも営業しています。水野さんによりますと、当時はラーメン1杯30円か40円。赤塚さんや石ノ森さんとよくお昼を食べに行き、漫画の話をしたそうです。また、紅一点だった水野さんはあまり参加しませんでしたが、男性陣はリーダー的存在の寺田ヒロオさんの部屋に集まって、定期的に会合を開いていました。それぞれが漫画に没頭するだけでなく、時に語り合い、時には大騒ぎして、互いを高め合う場だったといいます。
水野さん
「男の人たちはよく寺田さんの部屋に集まって食べたり飲んだりして騒いでいました。トキワ荘では、みんな隠すことなく技術や新しいアイデアを教え合い、誰かの連載が決まれば自分のことのように喜び合う関係でした」

20年前 頓挫した復元構想

現在の豊島区南長崎にあった「トキワ荘」は、昭和57年に老朽化のため取り壊されました。多くの人気漫画家を輩出した場所として一部のファンの間で知名度はありましたが、地域の中では、解体とともにその名は消えていきました。
復元構想が持ち上がったのは、21年前の平成11年。地元の商店街などが議会に対し、「トキワ荘を復元した記念館の設立」を陳情しましたが、このときは採択されませんでした。地元で時計屋を営む小出幹雄さん(62)は、「当時は“漫画でまちづくり”なんてとんでもないという雰囲気で、全国で事例も少なかった」と振り返りました。

それ以降、地域の熱はいったん失われましたが、平成19年、豊島区が中央図書館にゆかりの漫画家の作品を集めたコーナーを作ったことを知り、小出さんは「本当の地元である南長崎に、何もないのは恥ずかしい」と一念発起しました。

当時、地元の商店街はにぎわいがなくなっていました。そこで交差点に「トキワ荘跡地はこちら」と書いた看板を自主制作して設置。“トキワ荘を生かした商店街の活性化”を目指して動き始めたのです。
小出さん
「漫画が世界に冠たる日本の文化になったわりには、原点の地を大事にするということができていなかった。トキワ荘が忘れ去られてしまうという焦りもあり、町全体でPRできたらいいと思ったんです」

設計図がない!復元への大きな壁

復元に向けた最大の課題は、「トキワ荘」にまつわる資料が無いことでした。小出さんは地域を1軒1軒訪ね歩いて、写真を集めることにしました。「あと10年早く来てくれれば写真が残っていたのに」と言われることもありましたが、子どもを写した写真の背景に建物の一部が写っているものなどが数枚見つかりました。

さらに、力を貸したのが元住人たち。初期に住んでいた水野英子さんや、最後の住人となった挿絵画家の向さすけさんが内部の写真を提供。解体の様子を撮影した写真も見つかり、正確な間取りが判明しました。畳の大きさを根拠に、詳細な図面を引くことができたのです。
小出さんたち商店街の動きに区も呼応しました。跡地近くにゆかりのある漫画家たちの記念碑を建てたのをはじめ、10以上のモニュメントや施設をつくり、その集大成が「トキワ荘」の復元となりました。

コロナで延期も…伝説の漫画雑誌が

新型コロナウイルスの影響で、復元された施設の開館は3か月余り遅れました。しかし、この期間によって新たに展示できたものがあります。
昭和22年から30年にかけて刊行された「漫画少年」という月刊の漫画雑誌です。手塚治虫さんが「ジャングル大帝」を連載したほか、当時は珍しかった投稿コーナーがあり、そこで有望な若者が見いだされて「トキワ荘」に移り住んだため、ゆかりの深い雑誌とされています。

現在はほとんど残っていないということですが、ことしに入り、全101巻のうち93巻を「トキワ荘」に通っていた漫画家の永田竹丸さんが寄贈してくれたのです。

復元でよみがえる記憶

「トキワ荘マンガミュージアム」の2階は、漫画家の部屋や炊事場を忠実に再現しました。部屋に置かれた机やペン、壁の色合い、階段を上るときに“きしむ音”がするのも当時のままです。

元住人の漫画家、水野英子さんが復元された施設を訪れると、当時の記憶がよみがえりました。こんなエピソードも思い出したそうです。

石ノ森さんの部屋で….
水野さん
「石ノ森さんの部屋で、誰かがふざけて何人入れるかやってみようと言い出したんです。14人がすし詰め状態で入って、石ノ森さんは最初は机の前に座ってたんですけど、スペースがなくなってそのうち机の上に立ちだして…」
炊事場では…。
水野さん
「炊事場で石ノ森さんのお姉さんが料理していたんです。藤子不二雄のどちらかだったと思うんですが、『ものすごい美人がいる』ってみんなのところに駆け込んできたことがありました。石ノ森さんのお姉さんはみんなのマドンナだったんです」

描き直したカウボーイの絵

水野さんは1枚の絵を持ってきていました。カウボーイの絵です。当時、自分で描いて飾っていたものを記憶を頼りにクレヨンで描き直しました。

水野さんは、当時の仲間たちに「あのトキワ荘が復元され、漫画文化を発信する場所になったと伝えたい」と話しました。
水野さん
「トキワ荘がここまで有名になるとは思ってもみなかったし、自分が復元のお手伝いをするとも思いませんでした。住んでいた漫画家の半数以上は亡くなってしまいましたが、もし生きていたらどんなに喜んだだろうと思います。こんな小さなアパートで漫画が生まれ、育ったんだということを皆さんに知ってほしいです」
38年の時を経て、現代によみがえった「トキワ荘」。その場に立って当時のことを話す水野さんの姿は、時を超えて仲間たちと語り合っているように見えました。
首都圏放送センター 記者
戸叶 直宏