演説の歴史 日本の場合は…

演説の歴史 日本の場合は…
信念を持つ「ことば」は、人々の考えや行動に影響を与え、いつの時代も世界を揺るがせてきました。6月27日は「演説」にまつわる日だったんですが、今回は「演説」に関する問題を考えてみましょう。

問題に挑戦!

問題
「アメリカでは1861年に南北戦争がおこったが、この戦争中に『人民の、人民による、人民のための政治』と演説した大統領の名前を書きなさい」
茨城県 公立高校 2018年
皆さんお分かりでしょうか?
答えは第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーン。

ゲティスバーグでの演説が有名です。『人民の人民による人民のための政治』というフレーズは、民主主義の本質を示していると評価されています。
「多くの人々の前で自分の主義・主張や意見を述べること」

実は、日本で演説の意味をこう定着させたのは、あの福沢諭吉でした。今から約150年前の明治時代に、著書「学問のすすめ」で英語のスピーチを「演説」と訳しました。

今では当たり前のことを言っているようですが、当時の日本では、まだ人々のあいだで身分の差の意識が残っていて立場を超えて自由に意見を言う習慣はありませんでした。

そのため、明治維新直後の日本では「演説」という概念は、一般的ではなかったのです。そんななか、近代国家への第一歩として、誰もが自由に発言できる「演説」の大切さに福沢は、いち早く気付きました。
そこで福沢は明治7年に「三田演説会」というサークルを結成。サークルでの活動を記録した「三田演説日記」という日誌が残っています。その日誌の書き出しの第1回目の会合が6月27日でした。

福沢は世間に「演説」を普及させるためには多くの人に聴いてもらう必要があると考え、「慶應義塾」に「三田演説館」を建設することになりました。

演説が果たした役割

演説は、その後の日本に大きな役割を果たしたと言われているんです。なぜ福沢が日本にはなかったスピーチというものを普及させようとこだわったのでしょうか。

慶應義塾福澤研究センター准教授の都倉武之さんにお話を伺いました。
都倉さん
「江戸時代までの慣習とか、身分意識みたいなものを壊していくためにも、演説というものの練習が必要だと考えたわけですね。誰かの前で話すということは前に立つ人が聞いてる人に対して遠慮したりとかするとできない。スピーチという行為自体が平等でなければできないということです」

自由民権運動

明治初期の日本では国民が政治に参加する権利を求める「自由民権運動」が盛んになり、その機運を高めるものとして「演説」が注目されました。
都倉さん
「福沢諭吉が演説をするためのホールをつくって、初めて演説を公開しました。それをいろいろな人が見に来て、そのなかに、のちのち自由民権運動家として活躍する方もいて、各地に持ち帰って全国でまねをする動きが広まり、これが全国的な『自由民権運動』につながっていきます」

新しい娯楽文化

大きな演説会では300人から1000人ほどの聴衆が集まり、当時には演説家を相撲番付に見立てた表も作られました。

福沢は「大関」になっていますね。「演説」は政治活動だけでなく、当時の新しい娯楽文化でもあったといいます。
都倉さん
「スピーチ・演説というと、どうしても政治の問題のように考えがちだけれど、話す内容は学問のことであったり、あるいは芸能文化など、さまざまなことにわたってそれを広く人々に伝えていくという媒体の役割を果たしたのが演説だったということもあり、そういう意味ではテレビ・ラジオのご先祖様みたいな役割を演説が果たした」
福沢は、一人一人が社会を形成しているという概念を「演説」という当時では新しい行為によって、みずから手本を見せていきました。
最初の演説で福沢は、こう話したそうです。

「勇気をふるって人の先駆けをしようではないか。すこし生意気なようだけれども世間には怖い物はないと思うて我が輩から手本をみせるがようござります」
現在の三田演説館の正面舞台の壁には演説中の福沢の絵がかけられていて、いまでも年に2回ほど行われる演説会の演説を見守っています。
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