昭和最後の大改革を実現 松田昌士の信念とは

昭和最後の大改革を実現 松田昌士の信念とは
5月下旬、1人の「開拓者」が亡くなった。JR東日本元社長の松田昌士氏。84歳だった。33年前、中曽根政権のもと、国鉄の幹部として分割・民営化を成し遂げた立て役者の1人だ。“昭和最後の大改革”を実現に導いた鉄道マンは、いったい、どんな人物だったのだろうか。(経済部記者 西園興起)

国鉄に乗ったことがない

松田昌士氏が亡くなったという話を耳にした時、私ははじめ、誰のことかピンとこなかった。「ほら、JR東日本の元社長で、国鉄の」と言われて、ようやく国鉄改革3人組の1人、という知識が記憶の引き出しから出てきた。

私は経済記者として今、鉄道業界を担当しているが、「国鉄」には乗ったことがない。というのも、現在30歳の私は、生まれた時には、すでに「JR」だったからだ。
国鉄の分割・民営化は、私にとっては歴史上の出来事だった。国鉄改革の立て役者とはどんな人物だったのか、知りたくなった。

開拓者 松田昌士

松田氏は、1936年(昭和11年)に北海道常呂郡野付牛町(現在の北見市)で生まれた。祖父の代で北海道に渡ってきた開拓者の3代目。幼いころから国鉄で働く父の姿を見て、61年に自身も国鉄に入社した。

本社の企画部門に長く在籍し、1982年、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の方針を受けて、国鉄の分割・民営化に向けた計画の策定に関わった。

そして、86年には、再建実施推進本部の事務局長に就任。政府や労働組合との調整を担い、国鉄改革を実現に導いた。後にJR西日本の社長となった井手正敬氏と、JR東海の社長を務めた葛西敬之氏とともに「国鉄改革3人組」と呼ばれた。
87年の分割・民営化後はJR東日本の常務取締役になり、その後、社長、会長を歴任した。20年近くにわたって、経営の中枢として会社を率いた。

信念の人間

「目的を達するには、あらゆる手段を取る。松田は信念の人間だった」
そう語るのは、JR九州の初代社長を務めた石井幸孝氏(87)。国鉄の分割・民営化当時、役員として、まさにその時代を生きた人だ。ご高齢だが、お元気でTeamsで取材に応じてくれた。

国鉄は1964年度(昭和39年度)に赤字に転落。その後、借金が雪だるま式に膨れ上がる状況に陥り、経営が行き詰まっていった。最終的に、37兆円余りの長期債務を抱えるに至った。

背景には、国や政治の関与で効率的な経営ができなかったことがある。赤字が増えていくのに、国鉄では、何をやるのにも国や政治の制約があり、不採算路線の廃止や運賃の値上げなど、やるべきことがわかっていても、手が打てない状況だった。

石井氏はこう振り返る。
石井氏
「当時の国鉄はまさに“親方日の丸”で“乗せてやる”という態度。お客様意識はなく、サービス水準は著しく低かった」
松田氏は当時の国鉄の状況について、自身の著書で「夢のない中で人間が崩れていった」と表現している。経営が行き詰まる中、社員が目の輝きを失っていく姿を見て、「人間は夢を持って実現していこうという情熱をもたなければ、人としてあることができないのだと感じた」と記している。社員が夢を持てる環境にするというのが、松田氏の原点だったのかもしれない。

経営計画室にいた松田氏は、国鉄の将来への強い危機感に突き動かされ、内部から、政府設置の委員会が進める分割・民営化案の策定に積極的に関わっていくことになる。

しかし、1982年に政府案が出されたあとも、経営幹部の間では「天下の国鉄を分割するなんて、ありえない」という意見がほとんどだった。労働組合も強く反発していた。

石井氏はこう説明する。
石井氏
「当時、松田が分割・民営化に向けて動いていたのは公然の秘密だった。苦々しく思っていた上層部もいた」
こうした中、松田氏は、本社から北海道に“左遷”される。

分割・民営化の実現へ

1985年、中曽根政権のもと、政府から国鉄総裁が送り込まれてくると、潮目が変わる。石井氏によると、役員になったばかりの石井氏を含んで、当時十数人いた役員は全員、総裁と個別に面談を行った。

進退伺を提出させられたうえで、分割・民営化への賛否を問われたという。民営化の必要性を強く感じていた石井氏は賛成意見を述べたが、反対した3分の2の役員は全員、国鉄を去っていった。
石井氏
「残ったのはわずかな役員だけ。まさに、明治維新の幕府対新政府というような状況で、信念と信念のぶつかり合いだった。松田にとっても、国鉄の分割・民営化は揺るがない信念だったんだろう」
1987年、国鉄は、全国6社の旅客会社と貨物会社の計7社に分割され、すべての株式を国が保有する特殊会社として再スタートを切ることになる。一方、経営の合理化のため、およそ7万5000人もの職員が政府機関や民間企業への再就職を余儀なくされた。

松田氏は自身の著書で分割・民営化について、こう振り返っている。
(「なせばなる民営化JR東日本」より)
「国鉄改革というのは、職員一人一人の人生を家族ぐるみで変えたできごとであったから、その事実の重さを、私などは一生背負っていかなければならないと思う。今でも私は、国鉄OBなどから、酒の席などで『松田さんは国鉄を潰して…』と言われることがある。しかし、私は甘んじてそのことばを受けようと思う。人々のさまざまな思いの上に国鉄改革がなり、そして今日のJRがあることを、われわれは決して忘れてはならないと思っている。」

真の“民営化”を目指して

江藤氏
「とにかく熱い人だった。秘書になった翌日。松田は予定が入っていたんですが、そんなことよりもおまえと話すほうが大事だと、中華料理屋に連れて行かれたんです。すると、2時間の大演説。北海道に左遷された話とか、国鉄改革の話をとうとうと語るんです」
そう話すのは、民営化後の松田氏を、ずっと間近で見続けてきた江藤尚志氏(現JR東日本スポーツ社長)だ。松田氏が副社長だった1991年から秘書を20年間務めた。

6月18日、都内にある会社で取材に応じてくれた。民営化後の松田氏はとにかく自立した、完全な民間企業となることに心を砕いていたという。
江藤氏
「政治や官に縛られると、自由な経営ができなくなるというのが信条でした。社員のための経営ができなくなり、ゴーイングコンサーンでなくなってしまうと」
松田氏がまず手を付けたのは、国鉄の“親方日の丸”の意識をなくすことだった。そのために、とにかく社員を外に出した。始めたのが、社員の海外研修。場所を変えることで、強制的に頭を切り替えさせるねらいだった。

著書によると、海外研修の際のルールは3つ。
・お米の飯を食べず、地元の料理と地酒を楽しむ
・片言でいいから、いろいろな人とおしゃべりする
・報告書はいらない
会社は今も毎年、大勢の社員を海外に研修に出している。結果、社員からはかったつな意見が出るようになったという。国鉄時代には、優秀な人を選んで、海外留学をさせるようなことはあっても、研修のために外に出すことはなかった。

江藤氏の会社には、ヨーロッパを中心として日本が東の端に位置する世界地図が飾ってある。江藤氏が3年前に子会社の社長に就任した時に、松田氏から贈られたものだ。松田氏が社長時代にロンドンで購入して、大事にしていたものだという。
江藤氏
「日本がファーイーストだとわかる世界地図。ドメスティックになるな。外からものごとを見るよう、松田からはいつも言われていました。私も海外にいるときは、現地の食事と酒以外、口にしないようしつけられましたよ」
松田氏は、出向人事にも力を入れた。江藤氏によると、商社に保険会社、デパート、銀行など、鉄道とは関係のない企業にどんどん出向させた。会社の外に出ることで、新たな発想で仕事できるようにするねらいだったという。

国鉄時代は本体意識があって、出向はネガティブに捉えられていたが、松田氏はとにかく社員を違う環境で働かせた。そうすることで“親方日の丸”の意識を変えていった。

「通過する」から「集う」へ

松田氏は、会社の業態も変えていった。鉄道事業から、生活サービス事業に手を広げ、本当に地域にとって、必要な企業になることを目指したのだ。

そのための構想が、駅を人の「通過する場所」から「集う場所」に作り替えることだった。駅ビルやホテルなど収益性を高める事業だけでなく、子どもを預けやすい駅の近くに保育園を開設する「駅型保育園」など、社会的な利便性を高める事業も重要だと説いた。

今やこうした取り組みは、まちづくりにまで広がっている。
江藤氏
「社員のアイデアは積極的に採用し、どうやれば、鉄道と相乗効果を生みながら、地域の発展に資することができるか考えていました。さまざまなことに挑戦させ、そして、失敗に対しては寛容な人でした。私も仕事で失敗することもありましたが、明日は明日の風が吹くだよ、と慰められたものでした」
今では営業収益の3割が、鉄道以外の事業から生み出されている。こうした取り組みが奏功し、JR東日本は93年に株式上場を経て、2002年に完全民営化。国が保有するすべての株式を手放し、会社は国の“所有”から逃れることとなった。
こうした改革の手腕を評価された松田氏は、2002年、小泉政権が進めた道路公団の民営化推進委員会の委員に就任する。

しかし、政府・与党が合意した具体案で、間接的とはいえ、料金収入を、新たな道路建設へ活用することを認めたことに反発。松田氏は「最終報告の根幹を崩すもので受け入れられない」として辞表を提出し、委員会を去った。

不採算の道路なんか作るべきではない。民営化の信念にそぐわぬことは許さない、いかにも松田氏らしい行動だった。

松田氏が遺したメッセージ

江藤氏によると、ことしの1月に肝臓がんがわかり、余命1年を宣告されていた。5月19日午後、都内の病院で、ご家族と江藤氏ら5人が見守る中、安らかな顔で亡くなったという。

江藤氏は、その1週間ほど前、病床にあった松田氏に頼み事をしていた。「あなたの存在は子々孫々にとって誇りだから、死亡叙勲の申請をしていいか」と。

松田氏は「勲章は『官』のものだ。俺には、『官』のものであった国鉄を『民間』に変えてしまった責任があるので勲章は受けられない」と、かたくなに叙勲を拒み続けていたのだ。江藤氏の願いに、松田氏は最後の最後に「わかった」とうなずいたという。

分割・民営化から33年。少子高齢化やモータリゼーションの進展などに伴って、地方鉄道は多くの赤字路線を抱えている。さらに、新型コロナウイルスの感染拡大で、移動すること自体が「否定」されてしまうという、予想もしなかった危機に直面している。

開拓者の3代目の松田氏は、「拓」ということばを座右の銘としていた。
(「なせばなる民営化JR東日本」より)
「戦後半世紀以上を経て、21世紀初頭にいる今こそ、政治家も官僚も企業人も国民も、それぞれの立場でフロンティア精神をもって改革に努力し、未来につながる新しい道を切り拓くときなのだと思う。改革には、確かに痛みや苦しさも伴うが、今苦しくとも、明日への夢や希望を持って、それぞれが真剣に努力すれば、必ず未来は切り拓けるはずである」
逆境の今こそ未来を切り拓いていかないといけない。「開拓者」、松田昌士氏が私たちに残したメッセージだ。
経済部記者
西園興起
平成26年入局
大分局を経て経済部
現在、国土交通省を担当