耳が聞こえなくても大学に行きたい

耳が聞こえなくても大学に行きたい
「聴覚障害者のための学習塾が東京にある」ー。
取材先でそんな話を聞いた。
いったいどんな塾なんだろう。この冬、ひたむきに学ぶ受験生が集う小さな塾と、ある女子高校生の姿を見つめた。(ネットワーク報道部記者 郡義之)

静かな教室の一角で

日本有数のターミナル街 東京 新宿。
大通りからつながる細い路地の雑居ビルにその塾はあった。
その名も「ろう・難聴高校生の学習塾」。
2階に続く階段を上がると、外のけん騒とは打って変わり、しんと静まり返った雰囲気が内部を包む。
3つある教室の1つに足を踏み入れ、その光景に驚いた。

講師が大勢の生徒の前で講義するスタイルをとる塾が多いが、こちらは生徒1人に先生と手話通訳が付く“マンツーマン”スタイル。
わからないことを手話で熱心に質問する生徒の姿があちらこちらでみられる。
聴覚に障害のある人の学びを支援するには、それだけ多くの人手が必要だと改めて実感する。
この塾では勉強だけでなく、入試の面接指導も受けられる。
指導を受けていた都内の高校に通う3年の男子生徒は「とても丁寧に教えてもらっているのでとても助かっています」と話す。
ほかの部屋をのぞくと、手話がわからない生徒のために、専門スタッフが講師の話した内容をパソコンで文字に起こし、黒板横のスクリーンに映しながら授業を展開。
別の講師は車座になって手話で英語を教えている。
手話を使うため音がかぶらず、同じ部屋で授業ができるそうだ。

進学を諦めないでほしい

「生徒の状況に応じてきめ細かく指導しています。ここまでやっている塾は全国でも珍しいと思います」
そう話すのは、塾を主宰する日本社会事業大学の斉藤くるみ教授だ。

開講したのは平成22年。
聴覚障害のある生徒の学習環境が不十分なことに心を痛め、塾を立ち上げた。
斉藤教授
「耳が聞こえないという理由で大学進学を諦めてしまう生徒が何人もいました。そんな子どもたちを1人でも救えたらと思ったのがきっかけです」
授業は国語、数学、英語の3科目、毎週金曜日の午後6時半~9時すぎ。
気になる授業料を聞くと「無料です」と返ってきた。
開講当時の生徒は2人だったが、今では40人ほどが登録、中には栃木から電車で通う人もいるという。

春には毎年10人ほどが塾を卒業し、大学に進学している。
斉藤教授
「聴覚に障害のある子どもたちの学習環境は恵まれているとは言い難い。この塾が少しでも役に立ってくれたらうれしい」
厚生労働省や日本学生支援機構によると、全国の18歳未満の聴覚障害者(平成31年3月末現在、障害者手帳あり)は1万5609人。
20年前と比べると3000人ほど少ない一方、大学などに進学するのは1900人余りと、10年前と比べて1.4倍に増えた。
背景のポイントの1つとして挙げられるのが「合理的配慮」というキーワードだ。
合理的配慮」とは…
「障害者差別解消法」(平成28年施行)では、行政機関等や事業者に対し、障害者から何らかの対応を必要としている意思が伝えられた時に、負担が重すぎない範囲で対応するよう求めている。
ある教育関係者は、この「合理的配慮」のもと、原則として障害を理由に受験や入学を拒むことはできないため進学も増えたとみている。ただ、課題はまだまだ多い。

勉強が遅れてしまう その理由は

聴覚に障害のある子どもは特別支援学校に通うケースがある一方、親の意向で健常者と同じ学校を選ぶ人もいる。
その場合、授業の内容が聞き取れなかったり、クラスメートとコミュニケーションがとりにくかったりして勉強が思うように進まないこともあるという。

さらに、斉藤教授によると、特別支援学校の中には進学よりも職業教育を重視するケースもあるうえに、一般の学習塾に通おうと思っても手話通訳や要約筆記などが整っているところはほとんどないのが実情だという。
ふだんの勉強でどのような苦労があるのか、塾で知り合った1人の女子高校生が取材に応じてくれた。
都内の私立高校に通う3年生。
生まれつき耳が聞こえず、今は人工内耳を付けて生活している。
小学校から健常者と同じ学校に通っている。
ただ、すべての話をはっきりと聞き取れるわけではない。
授業は教師の口の動きを見ながら、話す内容を理解する。
塾の授業でもスクリーンに表示された文字を見て学ぶ。
女子高校生
「先生の話は口の動きでなんとか理解していました。でも、先生がわたしたちに背中を見せて板書しながら話しだすと、全くわからなくなって…」
話を十分聞き取れず、わかったフレーズだけをノートに書き留め、前後から意味を推測したこともある。
映像による学習は字幕がなければわからず、英語のリスニング授業は「捨てていた」という。
授業についていけず、どんどん置いていかれることがあった。
周りが健常者の中で、なかなか自身の障害を理解してもらえない場面もあり、時にはいじめも経験した。
「転校しようかな」
そんなことも思った中学2年の終わりのころ、知り合いの言語聴覚士から塾を紹介された。
塾では、スタッフがパソコンを使ってスクリーンに表示した文字を読みながら授業を受けた。
今までわからなかったことが、わかるようになった喜び。
「成績表に4と5がたくさん並んだんです」
彼女は笑顔でそう語る。
「娘は明るくなったと思います。自分の居場所ができたようで…」
彼女の母親は娘の様子に目を細める。
努力が実を結び、都内の通信制大学への進学が決まった。
「将来カウンセラーになりたいんです。同じ障害がある人たちの支えになれたらと思っています」
彼女の夢は広がる。

「心のよりどころ」

こうした塾は、単に学習のための場所にとどまらない。
休み時間に手話で交わされる生徒たちの何気ないやり取り。
学校のこと、友達のこと、好きなテレビ番組のこと…。

ここに来れば自分の障害を理解してくれる人がいる。思ったことを打ち明けられる。何よりも笑顔になれる。

「自分にとっての心のよりどころだから」
そう話す生徒もいた。

子どもの学び 実態把握と支援を

ただ、いいことばかりでもない。
目下の大きな課題は塾の運営資金だという。運営にかかる費用は年間約400万円。
多くは財団の支援や個人の寄付などに頼っている。
講師の人件費や教室の賃料などに充てられているが、「やりくりが大変」(斉藤教授)なのだという。
一般の塾よりも多くのスタッフ・機材を用意しなければならず、それだけお金も手間もかかる。
聴覚障害者のための塾が全国に広がらない背景の1つには、こうしたことも影響している。
斉藤教授
「健常者と障害者がともに生きる『共生』の大切さが叫ばれて久しいが、障害者が安心して学べる環境が1つでも増えてくれれば…」
実は、障害者の教育環境の実態を知るための国のデータは十分とは言えない。
普通学校に通う聴覚障害者の小・中学生の数も、文部科学省は平成30年度から取り始めたばかりだ。

「みんなと同じように学びたい」と思う障害者は全国に多くいるはず。
しかし、今彼らが置かれた現状はマラソンで例えると、スタートラインにつくまで10メートルも20メートルも後ろに立たされているようなものだ。

こうした人たちの学ぶ権利を保障するには行政ができるだけ正確にニーズを把握したうえで、支援の在り方を幅広く考え、進めていく必要がある。
障害があっても多様な選択肢の中から自身の歩みたい道を選べる、それもバリアフリーの形ではないだろうか。


(※取材は新型コロナウイルスの感染拡大を受けた政府による一斉休校要請の前の時期に行いました。その後、塾では講師・生徒双方が在宅の遠隔指導を行っています)