カメラマンがネガを守りて

カメラマンがネガを守りて
彼が気に入っていたのは夏の日の写真です。白い空の下を歩く女性と子どもたち。ありふれた日常を切り取ったその写真がお気に入りでした。それまでは仕事でたくさんの写真を撮り、それを守りました。もう2度とその仕事をしないために。(ネットワーク報道部記者 成田大輔)

カメラマン 石川光陽

空から爆弾が降ってきたらどうするのか。正解は「逃げずにバケツリレーで消す」と言われていた時代にカメラマンだったのが石川光陽さんです。

昭和2年に警視庁に入り、カメラの腕を買われて撮影係をしていました。やがて国どうしが人を殺し合う時代に突入します。空襲があると逆に逃げずに現地に向かう生活をしていました。
焼け跡を撮影することは「非国民だ」と言われかねず、誰でも自由に撮影できる時代ではありません。撮影を許された数少ないカメラマンでした。

そして昭和20年、日付が3月9日から10日に変わった直後に、東京上空に飛来したB29による爆撃が始まりました。爆撃は無差別に行われ、のちに東京大空襲と呼ばれます。

石川さんが残した写真と手記が当時の様子を伝えています。

使命

石川さんの手記より
「熱風は嵐のように私に襲いかかり、焼煙や火の粉が吹雪のように降り注ぐ。焼けトタンは凶器と化し、ものすごい速度でうなりをあげてブーメランのように斜めに飛来してきて、逃げ惑う群衆の中に突っ込んで鋭利なカミソリのように人の首や胴や足を切断していった。なんという恐ろしい殺りくであろう」
やがて火に囲まれてしまい、カメラを抱えた状態でうずくまります。自分が死んでもフィルムは守るためです。
石川さんの手記より
「1コマ1コマに生命をかけた写し済みの貴重な死を賭してのフィルムを焼かないようにして、私の死体を見た誰かがきっと現像して後世に残してくれるであろうことをひそかに念じていた」
生き延びたあとも撮影を続けます。
石川さんの手記より
「手は震え、シャッターボタンを押す指先はにぶった。しかし私に与えられた事実を証明すべき使命を果たすためには、命あるかぎり撮り続けなければならないのだ」

戦争の姿を残す

見るに耐えない光景を前に「これは使命なのだ」「戦争の姿を残すのだ」と心にとめてシャッターを押し、そして手を合わせました。
石川さんの手記より
「泣いてはいけない、プロならば使命の前にはもっと非情にならなくてはいけないと自分にいい聞かせ、静かに頭を下げ深く一礼してから撮影を行い、終わると合掌してその場を立ち去った」
フィルムが貴重な時代で、石川さんが残した空襲の写真は30数枚です。娘の令子さんは石川さんが語ったことばを覚えています。
石川令子さん
「死体にカメラを向けたときは、こんな姿を撮ってくれるなと訴えてくるようだったと話していました。それでも、後世に残さないといけないと思って、手を合わせながら撮影したそうです」
「自分の子どもたちと同じくらいの子どもも、たくさん犠牲になっている。シャッターを切るのもつらかったと思います。写真を通して、後世に伝えようという使命感が大きかったのだと思います」
その年の8月、終戦。GHQは空襲の被害写真やネガを提出するよう警視庁に命じました。

ネガは手元に

その時、石川さんの頭にあったのは関東大震災の経験だと娘の令子さんは考えています。東京大空襲の22年前の関東大震災。写真の修行中だった石川さんは周囲の被害を撮影しました。

そのネガが軍の憲兵によって没収され、当時を伝え残すものがなくなってしまったのです。

ネガを渡しては後世になにも残せない。石川さんは、空襲のネガをかめの中に入れて庭に隠し、単身、GHQとの交渉に臨みました。
警視庁はGHQに対しネガは石川さん個人のものだと説明していました。ひとりで臨んだ交渉。その結果、“撮影した写真をGHQに提出する”ことを条件にネガが石川さんの手元に残りました。

一夜で10万人が亡くなったと言われ、32万発の焼い弾が無差別に落とされた惨禍、それを伝える唯一ともいえる当日の現場を写した写真は守られました。
石川令子さん
「空襲の写真を撮る時も、GHQに向かった時も、死ぬかもしれないと思って家を出て行った。記録を後世に残そうという姿勢は自分の父親ながら立派だと思います」

あれは私かもしれない

石川さんが命をかけて残した写真。その写真に写っているのは自分かもしれないと感じている人がいます。成宮喜三郎さん(83)です。
焼け跡を避難する親子が自分たちではないかというのです。東京大空襲に遭ったのはちょうど8歳の誕生日でした。東京 江東区の長屋で、家族6人で暮らしていた成宮さんは雨でなく焼い弾が降る中、母と兄、まだ小さい弟と一緒に火の粉の中を逃げました。

避難の途中に近くにあったガスタンクが爆発、焼い弾の火も母親がかぶっていた布団に引火しました。それでもなんとか総武線の鉄橋のガード下に逃げこみ、命を取り留めました。
朝になり、駅に向かってとぼとぼと歩き出すと、男か女かも分からなくなった遺体が山のように積み重なっていました。

母親は「目をつぶって歩け」と言いました。その光景を幼い成宮さんに見せないためでした。「遺体を踏みつけるのではないか」と恐る恐る歩きました。

カメラマンの姿に気付いたのは、兄の勤め先がある埼玉へと避難している途中でした。市電の停留場の看板によじ上ってカメラを構える男性と目があったのです。

忘れないよう

「なぜ、こんな時にカメラで撮影しているんだろう」
当時はそのくらいの認識でしたが、戦後、石川さんの写真を見たときに、自分でないかと感じたといいます。
成宮喜三郎さん
「先頭が僕で、後ろに写っているのが母、背負われているのは弟じゃないかと思います。避難している途中で大八車の荷台の布団がくすぶっていたこともよく覚えています。自分ではないかもしれませんが、戦争の時のことを知る人が少なくなる中で、こういう出来事があったというのを伝える貴重な資料だと思います」
生き延びたのが奇跡のような一夜を忘れないようにと、成宮さんは結婚記念日も3月10日、車のナンバープレートも「310」にしています。

夏の雲と親子

石川さんは戦後、警視庁を退職し、それから風景や花など自分の好きなものを撮影するようになったそうです。仕事としてたくさんの戦争の写真を撮り、もう2度とその仕事をすることがない世の中にするために命懸けで写真とネガを守った石川さん。
令子さんが紹介してくれた“石川さんのお気に入り”は、夏の日の写真で、青空にたなびく雲の下を令子さんと娘が手をつないで歩いている光景でした。75年前に多くの人が失った平和で幸せな家族、の光景でした。