私が“プール”でもがく理由

私が“プール”でもがく理由
「この会社で10年やっていけるだろうか」「人のために、人が使うものを作る仕事をしたい」こんな疑問や希望を持った人たちを引き付ける、あるスクールが日本に相次いで設立された。入学金も授業料もいらないが「突き落とされたプールで1か月溺れず必死にもがく」と例えられる試験をパスする必要がある。

そのプールにみずから飛び込むのは、有名大学を出たエリートではなく、5児の母親や農家手伝いの若者、それに浪人生など。カプセルホテルに泊まり、あるいは娘が作ってくれた目玉焼きをほおばり、新たな世界を目指すのだ。夢はITエンジニア。熱い挑戦が繰り広げられている。(ネットワーク報道部記者 加藤陽平・国際部記者 松崎浩子)

会社で必要な知識より、生き抜くスキルを

東京・六本木の高層ビルでことし1月から始まった入学試験。約300人が1か月間、ほぼ缶詰状態でパソコンを前に課題を解き続けた。
滋賀県から上京している24歳の男性。1泊1800円のカプセルホテルがねぐらだ。
「マックに触ったのも初めて。大文字と小文字の切り替えも分からなくて。でも、受かったら何かが変えられるはず」

浪人中の19歳の女性。受験勉強もしながら、この試験を受けている。
「アルバイト先の外国人がすごく優秀。このままじゃ仕事がなくなるって、ふと不安になって受験した」

茨城県から始発電車に乗って通う32歳の女性。5人の子どもの母だ。
「75歳まで働けと言われるが、自分でやり抜き技術を身につけ、楽しくどこまでも働けるようになりたい」

ほかにも「会社で使う知識よりも人生を生き抜くスキルを身につけたい」と大企業を退職して臨んだ23歳の女性や、医学部を目指す浪人中の男性など、顔ぶれは多彩だ。

学費無料 先生不在

彼らが挑むのは、ことし4月に開校を予定しているプログラミングスクール「42Tokyo」の入学試験。エンジニアの養成機関として2013年フランスで始まり15か国で展開している。運営費は、創設者や協賛する企業の資金でまかなっている。
特徴は以下のとおり。
1 学費無料 18歳以上ならば誰でも
2 先生不在 みずから調べ生徒どうしで教えあいながら課題を解決
3 24時間365日施設を開放
4 過酷な入学試験
なぜ、こんな型破りなスクールが登場したのか?世の中が大きく変化している中でも、中心にあるのはIT。それを操るプログラミングを斬新な発想で作るエンジニアが至る所で求められているからだ。
長谷川さん
「型にはまった能力ではなく、みずから課題を見つけて解決できる人材を育成する必要がある。変化する社会の中でどんな状況でも対応できる人材を育てたい」
<メモ1 プログラミングは社会を変える>

プログラミングは、新型コロナウイルスにおびえる社会の不安解消にも役立っている。写真は、台湾のプログラマーが開発したアプリ「薬局マスク購入マップ」街なかのどの薬局にどれだけの在庫があるのかを一目で分かるようにした地図だ。大人用・子ども用がそれぞれ何枚あるのかもわかり、店に問い合わせる必要もない。

台湾当局によるマスクの流通データの公表と、民間のプログラマーたちの新たな発想がこれを可能にした。

5児の母 プールに飛び込む

入学試験は1月に始まった。挑戦した1人が、冒頭で紹介した5人の子どもがいる女性、千葉春菜さん。中学卒業後、通信教育で学んで資格を取得し、21歳まで美容師として働いたが、子どものために土日休めて長く働けるスキルを身につけたいとエンジニアを目指した。別のスクールも探したが、子どもにお金がかかる、自分にいくら使えるかを考えると、選択肢はなかったのだ。
ただ、その試験はハードだ。その名もPiscine(ピシン)、フランス語でプールの意味で「突き落とされたプールで1か月溺れず必死にもがく」と例えられる。1か月の間、100を超える課題が与えられる。例えば、アルファベットや記号が並んだプログラミング言語が一行、ヒントもなく与えられ、「それが何を意味するか」「何が問題なのか」から自分で調べるのだ。

千葉さんはツイッターに初日の感想を記している。
「たまたま隣にとてもフレンドリーなベテランさんがいて、とてもとても助けてもらったんだけど…もしかしたら独り占めしちゃってたかもしれない。とりあえず明日は全方位に声かける(私は知識ないけど)」
試験も授業同様、「インターネットで調べ、わからなかったら隣の人に聞き、それでもわからなかったらその隣に聞く」のがルール。答え合わせも受験者どうしで行う。知識を持った人は、初心者に答えを理解してもらうために教えなければならない。教わるほうは必死に知識を吸収し、教えるほうは実際の仕事に必要なコミュニケーション能力が試される。

当初、千葉さんはこんなスケジュールで1日を過ごしていた。
3:40 起床
4:40 始発に乗る
6:00 課題開始
16:00 子どもがいるためしぶしぶ帰る
21:00 就寝

もちろん、家に帰ったら家事もする。こんな生活が続くと頭が痛くなって何も食べられないようにもなった。「そんなに大変なら辞めたら?」と家族から言われた。でも、あきらめない。泳ぎ切るしかない。

カプセルホテルから「下克上」

もう1人の受験者、カプセルホテル暮らしをしながら受験する男性だ。ある日の午後5時ごろ、試験会場に彼が「出勤」してきた。聞くと、ひたすら試験に打ち込み、疲れたらホテルに帰り、目が覚めたらコンビニで食べ物を買って、再び会場に向かうという毎日だという。

「東京に出てきたけど、全く遊んでない。最長で30時間、会場にいたこともある」。

そんな彼を支えるのは、格差への反発だ。

「地方と都会で格差を感じる。お金がないと中学や高校は公立に行くしかないが、そこが荒れていたりする。頑張って勉強しようっていう同世代はあまりいなかった。単純な毎日を変えたい」
<メモ2 世界の若者も、もがく>

「無料のチャンスに賭けてみたい」
こう考えるのは、外国の若い人も同じだ。このスクールの発祥の地、パリで入学試験を突破し現在学んでいる26歳のマリー・シュリーン・ヤナさんもその1人。

もともと美術学校でアートやグラフィックデザインを学び、念願かなって絵を描く仕事についた。でも、「自分よりうまい人は山のようにいる」と感じた。

すでに1年半学んでいるマリーさんは、デザインとは全く関係ないAIに興味をもった。3年間在籍できるこのスクールでさらに学び、将来はAI開発に力を入れる企業で働くつもりだ。
「42は私の人生を変えてくれた。全くできなかったプログラミングができるようになり選択肢が大きく広がりつつある」

無料のチャンスは広がっている

学費がかからず、高度なプログラミングを学べる場所は、広がり始めている。ことし2月、東京・恵比寿に開校した「QUEL CODE」。ここでは、学んだあとに年収320万円以上の企業に就職できた時だけ、改めて学費を請求することになっている。ここでも基本的に講師はおらず、生徒は互いに教え合う。
立ち上げたのは鶴田浩之さん(29)。プログラミングで課題解決を実現してきた人物だ。学生時代、自動車免許の合宿中に東日本大震災に遭った。まさにその夜、緊急の避難所となった宿舎で、ツイッター上にちらばった日本の人たちの無事を祈る無数のつぶやきを集めたサイト、「Pray for Japan」を立ち上げた。サイトを通じて人々の思いを束ね、社会に災害と向き合う勇気を持たせることにつなげたのだ。
鶴田さん
「ちょっとした変化じゃなくて、これからは物事が根本から変わっていく時代。未知の課題を目の前にして、それをプログラミングによって解決できる人材を育てたい」

5児の母もがく

5児の母、元美容師の千葉さんは、1か月にわたる試験の最後でもがいていた。
「疲れが一気に出て、ダウン。きょうは休もうと思っていたけど課題の事が気になって家でゆっくりなんかしていられない」
それでも、悔いが残らないようにと必死に泳ぎ続けた。残り4日、こんなことが…。
「こ、こ、に、き、て、、末っ子発熱まじかーつらすぎてうなだれていたら長女が出来たての目玉焼きとウインナーを差し出してきた。炊きたてのごはんとお箸も。あと、『がんばれ』も。泣けるー家でできる事をやる」
千葉さんは、1か月間プールを泳ぎ切った。

また、学んでいいんだ

2月半ば、試験を受けた300人に結果がメールで通知された。

滋賀県から上京、カプセルホテルと試験会場の往復に明け暮れていた男性は、合格した。

不合格だった人も、この1か月間全力で挑戦したこと自体が大きな自信になったと話してくれた。

そして千葉さん。もちろん合格だ。
「受かったぁぁ。嬉しい、、またがんばれる、、」
目玉焼きを作ってくれた10歳の長女は、母親が再び忙しくなることを心配しながらも、「ママ、すごいね」と言ってくれた。
4月からは、念願の授業が始まる予定。学校に通うのは中学校以来だ。それまでは、今自分に1番欠けている英語を勉強し直すことにしている。まだまだ、もがき続けるつもりだ。
千葉さん
「『また学んでいいんだ』という気持ち。無料でなければきっと無理だった。1か月はつらかったけれど結果を出せて、やり遂げられると思えた。チャンスを得たので頑張りたい」
ネットワーク報道部記者
加藤 陽平
国際部記者
松崎 浩子