“厚底シューズ”狂騒曲

“厚底シューズ”狂騒曲
マラソンや駅伝で好記録を生み出しているスポーツ用品メーカー、ナイキの“厚底シューズ”。
「履くか、履かないか…」
「靴の力か、選手の力か…」
「規制すべきか、否か…」
さまざまな議論が湧き起こりました。
この“厚底シューズ”について、国際競技団体の世界陸連は、1月31日、全面禁止とすることを見送り、そのうえで「さらなる技術開発を防ぐため今後、靴底の厚さを4センチ以下とする」などと規定を改正しました。ひとまず、現在市販されている厚底シューズは東京オリンピックでも使えることになりました。しかし、この規定ができたことで波紋が広がっています。
(スポーツニュース部 記者 佐藤滋・本間由紀則・国武希美 スポーツ情報番組部 ディレクター 伊藤大志)

ひとまずの決着

「新しい技術が、選手のパフォーマンスにアドバンテージを与える可能性があり、スポーツの高潔性が技術によって脅かされている」

世界陸連は1月31日、“厚底シューズ”の調査結果を発表した中で、こう結論づけました。
そして、具体的な規定の改正を行いました。
(ことし4月30日以降)
▽大会の4か月前までに購入できるシューズでなければ、使用できない
▽市場に出ていないシューズは原則として「試作品」と判断され、大会での使用を禁じる
そして、さらなる技術開発を防ぐためのルールもつくりました。
(今後)
▽靴底の厚さは、4センチ以下
▽靴底のプレートは、複数枚重ねてはならない
▽スパイクを靴底に取り付ける場合は、厚さは3センチ以下
焦点となってきたナイキのこれまでの“厚底シューズ”は、靴底の厚さが4センチ未満。すでに一般のランナーも多く使っていることから、規制が見送られた形になり、現行のモデルは、東京オリンピックに向けて使用できることになりました。

技術革新で生まれた厚底

厚底シューズの特徴や経緯をおさらいします。
「厚底」にすれば、クッション性が増して足への負担は軽くなるが、その分重くなる。それが定説でした。
その定説を崩したのがナイキです。
靴底に特殊な素材を使って、厚くても“軽さ”を実現。
さらにその中に、カーボンファイバー製のプレートを挟み込みました。このプレートは反発力が高く、推進力を生み出します。
プレートの反発力は、特殊素材によって和らげられ、足への負担が減るというのです。

“2時間の壁”への挑戦

2017年、この厚底シューズの初期のモデルを使い、人類には不可能と思われていたマラソンの「2時間の壁」に挑戦するイベントが行われました。
チャレンジの主役は、前年のリオデジャネイロオリンピックの男子マラソンで金メダルを獲得したケニアのエリウド・キプチョゲ選手でした。
キプチョゲ選手は、ペースメーカーが次々に入れ代わるなど特別な環境で42.195キロを走破。タイムは、非公認で2時間25秒でしたが「この選手なら2時間を切れるかもしれない」というのが率直な印象でした。
そして、厚底シューズを履いたキプチョゲ選手はさらなる進化を見せます。2018年のベルリンマラソンで従来の世界記録を1分以上更新する2時間1分39秒という驚異的な世界新記録で優勝。
さらに去年、プレートを3枚にしたとされる進化した厚底シューズで再び2時間切りに挑戦し、非公認ながら1時間59分40秒のタイムをたたきだし、人類で初めて「2時間の壁」を破ったのです。

“厚底”の威力

厚底シューズは国内でも威力を発揮します。
2018年、相次いでマラソンの日本記録を更新した設楽悠太選手と大迫傑選手の足元にあったのはナイキの厚底シューズでした。
さらに、印象づけたのが正月恒例のことしの箱根駅伝。
あのピンクのシューズと、オレンジと緑の左右の色が異なる進化版の「厚底シューズ」を80%を超える選手が使用しました。
気象条件にも恵まれ区間新記録が相次ぐ歴史的な「高速レース」となり、10区間のうち実に9つでこのシューズを履いた選手が区間賞を獲得したのです。

その1人が後日、取材に応じてくれました。
1区で区間賞を獲得した創価大学の米満怜選手です。
シューズのある効果を実感していました。
米満怜選手
「足に疲労が来にくいというのが1つの特徴だと思う」

最新研究では

「足の疲労が少ない」という選手の証言は、最新の研究でも明らかになってきています。厚底シューズの効果を研究している順天堂大学。箱根駅伝の常連校の1つです。
このシューズを履くとフォームや筋肉の活動などにどんな違いが出るのか。箱根駅伝を走ったトップ選手にも協力してもらい測定しています。
スポーツシューズの研究を続けてきた柳谷登志雄先任准教授が注目したのは、“ある筋肉”の活動量でした。
その筋肉は「下腿三頭筋」。ふくらはぎの筋肉です。
従来の靴よりも5%ほど活動量が抑えられる傾向が見られたというのです。
ふくらはぎの筋肉の活動量が抑えられると、走りにどんな効果があるのか。
ふくらはぎの筋肉は地面を蹴る時に重要な役割を果たします。高い反発力を持つ厚底シューズを履くことで、より少ないふくらはぎの力で前に進むことができるというのです。
この「省エネ」の走り。「足の疲労が少ない」という選手の実感につながり、レースの後半もしっかりとした走りができるようになると柳谷さんは見ています。
柳谷登志雄先任准教授
「カーボンの復元力を使うことで、筋肉がむだな力を発揮する必要がなくなるのかもしれない。(ふくらはぎの)活動が減るということは省エネとなり、力を出していないので、エネルギーが温存されてレースの後半に力を残しておける、取っておけるということにつながってくると思う」

“僕には合わない”

一方で、厚底シューズを選ばなかった選手もいます。
箱根駅伝の10区で区間新記録をマークした創価大学の嶋津雄大選手です。
嶋津雄大選手
「『厚底シューズ』も試したが、自分の感覚やフォームを作り直さなければならないと感じていた」
嶋津選手の「フォームを作り直す」ということば。
厚いクッションのナイキのシューズに走りを合わせる必要があると感じたと言います。
走り方を変えることに不安を感じていた嶋津選手は、別のシューズに出会いました。
反発力を持ちながらも、厚さを抑えることを意識したこの白いシューズです。
嶋津雄大選手
「反発力がありグリップ(地面をつかむ力)もあった。この靴と出会って、この靴なら自分の今までのフォームでも戦えるなって」
この靴を履いて臨んだ「箱根駅伝」。
嶋津選手のスピードは最後まで落ちず区間新記録をマーク。
「厚底シューズ」以外で唯一の区間賞を獲得して風穴を開けました。

ミズノ“本気の反撃”

この白いシューズを開発したのは老舗の国内メーカー、ミズノです。ホームページを見ると載っていたのが、何やら強烈なキャッチフレーズ。
「本気の反撃」とありました。
厚底シューズへの対抗意識を明確にしています。
大阪本社の担当者を訪ねました。
まだ“試作品”の段階というこのシューズ。
実物を見せてもらうことはかないませんでしたが、パネルを元に説明してもらいました。
ねらいは「反発力の高さと足への負担が少ないこと」と、ナイキと考え方は同じでした。ただ「今までの走りを生かす」ため、形状や材質に工夫を重ねているといいます。
底は比較的薄く、中にあるプレートは柔らかい樹脂製。
写真で影になっている底の部分の素材に特に秘密があるということです。
厚さを抑えることで「選手本来の走りを変えずに推進力を得られる」というのが売りです。
ミズノ 陸上・ランニング課 河野光裕課長
「実際にランナーが走る時に、自分の体のバランスを崩さずに自分の筋肉をしっかり使って走ろうと思うと、一概に厚底がいいとは思っていない。走る矯正をせずに、選手が従来の走りをそのままできて、走りやすくなるというシューズになっている」
試作品=プロトタイプの段階で選手に提供し、実際にレースで履いてもらうという取り組みは、これまでにないこと。
こんな所からも「本気度」の高さがうかがえます。

激しさ増す開発競争

このほかのメーカーも新商品の開発を進めていて、開発競争はレースさながらの激しさを増してきています。
ただ、世界陸連の規制の結論を受け、ことしの5月以降、試作品のままでは選手がそのシューズをレースで使用できなくなります。
ミズノは発売の時期を早めることも検討しているということです。
一方で、ナイキは世界陸連の規定を予期していたかのように、新たなシューズの発売を発表しました。
厚さを4センチ以内ぎりぎりに抑え、プレートは1枚。
現状で最速のシューズではないかと見られています。

投げかけたもの

“厚底シューズ”をめぐる一連の議論を通じて感じたのは「オリンピック半年を切った“なぜ今”なのか」ということです。
長年イギリスで陸上の取材を続けている大手新聞、タイムズのマット・ロートン記者もその点を指摘していました。
マット・ロートン記者
「少なくとも世界陸連が罪の自覚を持つべきなのは、問題に対処するのが遅すぎたということ。選手たちはオリンピックに照準を定めているので、選手にとっての影響は重大だ」

切っても切れないからこそ

言うまでもなく、スポーツと道具は切っても切れない関係です。
道具の進化とともに選手自身の技術が向上し、記録も向上してきたと言えると思います。
そのように「コンマ1秒、1センチ」を縮めようとする選手たちの姿が、スポーツを「見る」人たちの興奮や感動につながってきたと思いますし、スポーツの本質の1つだと感じています。
一方で、道具によって不平等が生じない、つまり「フェア」であることもスポーツの本質です。こうした難しい問題であるからこそ、時間をかけたオープンな議論が必要だったと思いますが、今回の結論は唐突に出された印象がぬぐえません。

そして新たな規定により禁止された市場に出ていない「試作品」の扱いについて、選手個々の足型に応じた「オーダーメード」のシューズはどうなるのか、短距離などのトラック種目におけるスパイクはどうなのか、不透明な部分もあって日本の選手や指導者などからは戸惑いの声が早くもあがっています。
「アスリートファースト」はどこに?
厚底シューズの“論争”からは、東京オリンピックの取材で感じ続けている、この疑問を、再び投げかけられていると感じています。
スポーツニュース部
記者 佐藤滋
スポーツニュース部
記者 本間由紀則
スポーツニュース部
記者 国武希美
スポーツ情報番組部
ディレクター 伊藤大志