経済学の「ナッジ」を防災に

経済学の「ナッジ」を防災に
「ナッジ」ということばを聞いたことがありますか?

もともとは英語の「NUDGE」で、直訳すると「ひじで優しく押したり、軽くつついたりする」という意味。それが転じて、ちょっとしたきっかけを与えて、消費者に行動を促すための方法として、行動経済学という分野で注目の研究対象となっています。

今、このナッジを、災害時の迅速な避難行動に生かそうという取り組みが始まっています。どこまで成果が期待できるのか取材しました。(経済部記者 菅澤佳子)

どうしたら逃げてもらえるのか

去年(2019年)10月に日本列島を襲った台風19号。
全国の、延べ270以上の河川で氾濫が発生し、犠牲者は先月10日時点で東北地方を中心に99人にのぼりました。

この台風被害を検証するとさまざまな課題が浮かび上がります。その1つが、自治体などが早めの避難を呼びかけたにもかかわらず、実際に避難した人が少なかったことです。

消防庁のデータをもとに計算すると避難勧告や避難指示が出た地域の住民で、避難所に逃げた人は全体のおよそ3%にとどまっています。
(※集計可能な避難所に避難した人の割合。知人宅など他の場所に避難した人は含まれていません)
その前に大きな被害をもたらした台風15号では、避難した人の割合が0.7%で、これと比べるとやや増えていますが、それでも、避難する人がもっと多ければ被害を減らせたのではないかと指摘されています。

どうすれば早めの避難を促すことができるのか。

こうした課題に、一見防災とは関係がなさそうな経済学の分野からアプローチする方法があるというので、私は大阪大学に向かいました。

「ナッジ」って何?

今回、話を聞いたのは大竹文雄教授。専門とする「行動経済学」の知見を生かして、冒頭に紹介した「ナッジ」を防災に生かす方法を研究しています。

ちょっとしたきっかけを与えることで行動を促す「ナッジ」。

この研究に取り組むきっかけとなったのは、おととしの西日本豪雨に直面した自治体の苦悩を知ったからでした。

広島県の湯崎英彦知事からじきじきに、どうしたら逃げてもらえるのかその方法を研究してほしいという依頼があったといいます。
広島県では、2014年の土砂災害で77人が亡くなったことをきっかけに防災教育に力を入れてきました。

避難所や避難経路を確認した住民の割合は2014年は13.2%にとどまっていましたが、防災教育の効果もあって2018年には57.2%にまで増えました。
しかし、その年の西日本豪雨では、県内で避難指示や避難勧告が出た地域の住民で、避難場所に逃げた人の割合は0.74%にとどまり、148人が亡くなる事態になりました。
大竹文雄教授
「西日本豪雨では、防災の知識はあるのに、早期に避難できなかったという人がたくさんいた。特に広島県は過去の災害を教訓に防災教育に熱心に取り組んできたが、それでも逃げなかったという現実を突きつけられ、ショックだったと思う。防災の知識をもつというところまでは教育によって達成できるが、逃げる逃げないのどちらがいいのかを正しく判断するというのは、実はなかなか難しい。それを行動につなげるために行動経済学やナッジが貢献できる部分はあると思う」

「ナッジ」で人は動くのか

大竹教授ら4人の研究チームと広島県は、おととし(2018年)10月から12月にかけて、特に被害の大きかった広島市や呉市など9市町のおよそ500人を対象に聞き取り調査を実施。避難した理由やそのきっかけ、そして、どのように行動したかを尋ねました。

すると、避難した人の多くが、近所の人や消防団から避難を呼びかけられたことが逃げるきっかけとなったと答えました。周囲の呼びかけが避難行動につながりやすいということがわかったのです。
それでは、どういう呼びかけが避難につながるのか。人を動かす「ナッジ」の手法が有効かどうかを探ります。

具体的には、去年(2019年)2月から3月にかけて、広島県が県内の18歳以上の1万人を対象に毎年行っている県民意識調査に、防災に関する、ある質問を追加。質問にはさまざまなメッセージが含まれていますが、豪雨のときにこれを読んで安全な場所に逃げるかどうかを聞きました。

メッセージは、以下のA、B、Cを含む6つの種類があります。
A:
これまで豪雨時に避難勧告で避難した人は、まわりの人が避難していたから避難したという人がほとんどでした。
あなたが避難することは人の命を救うことになります。

B:
これまで豪雨時に避難勧告で避難した人は、まわりの人が避難していたから避難したという人がほとんどでした。
あなたが避難しないと人の命を危険にさらすことになります。

C:
毎年6月初めごろの梅雨入りから秋にかけて、梅雨前線や台風などの影響により、多くの雨が降ります。広島県でもこれまでに、山や急な斜面が崩れる土砂崩れなどの災害が発生しています。大雨がもたらす被害について知り、危険が迫った時には、正しく判断して行動できる力をつけ、災害から命を守りましょう。
避難勧告が出た場合に「避難場所に避難しようと思う」と答えた人の割合は、Bを読んだ人のうちの39.5%、Aは35.7%、Cは23.2%となりました。

Cは、広島県の従来の避難呼びかけのメッセージです。

自分が避難するかどうかが、周りの人の生命に関わるというように認識させると、避難する人が増えるということがわかったのです。
大竹教授
「メッセージの効果については、統計的に意味のある数字が出れば十分だと思っていたぐらいだったが、避難しなければという気持ちを高めるメッセージを見つけることができたのは予想外の結果だった。AとBは、いずれも『避難した人はまわりの人が避難していたから』という社会規範に基づくメッセージを入れている。そのうえで、Aは避難することによるプラス面を強調、Bはマイナスの面を強調した。結果は、マイナス面を強調したBのメッセージのほうが効果が高かったが、一方で心理的な負担が大きいというデメリットもある。ナッジは、選択の自由は確保したうえで、よりよい行動を促すというものなので、つらい思いをして、その行動しか取れないという形で人を動かしたとしても心理的に大きなコストを払うことになる。行政の呼びかけとしては、住民がそれほどつらい思いをしなくて、みずからよりよい判断をしたと自分で思えるようなメッセージであるAが、いちばん望ましいということになる」

「ナッジ」の課題は

広島県では、「ナッジ」が迅速な避難誘導につながると考え、去年の夏から災害の危険性がある場合に「あなたが避難することがみんなの命を救うことにつながります。」というAのメッセージを付けて避難を呼びかけています。

一方、今回の調査結果を地元の消防団などに説明すると、これまでも強く避難を呼びかける場合にはBのメッセージを使っていたことがわかりました。

より切迫した場面では、Bのメッセージを使うことも有効だということが裏付けられた形です。

最後に1つ大竹教授に聞いてみました。メッセージを工夫するだけでなく、例えば避難した人にポイントを与えるといったインセンティブを付ければ、避難する人がもっと増えるのではないか。
ナッジの効果を高めるアイデア、どんなものがありそうですか?
大竹教授
「例えば避難所の環境を快適にするということは効果的だと思う。ただ、それもお金がかかる話なので、環境の整備ができていない場合、行政としては『避難所に行ったらこんないいことがありますよ』とは言いにくいという問題もある。可能であればこうした避難所の環境をよくする。そしてポイント制度を設けるというのも、ナッジでの呼びかけと一緒にやっていけば効果があがるかもしれない」
大竹教授らの研究チームと広島県は、去年11月から前回の県民意識調査に回答した人、およそ5600人を対象に、「ナッジ」の効果についての追跡調査を行っています。
この中では、「あなたの避難がみんなの命を救う」というメッセージの認知度のほか、実際にこのメッセージが使われるようになった去年6月以降、避難勧告などが出た際にどのように行動したのかを詳しく調べているということです。

広島県は、大雨の時期を見据えてことしの夏までに結果を公表し、対策に反映させたいとしています。

早めの避難を促すために「ナッジ」をどのように活用すればよいのか。引き続き、防災・減災の取り組みの「進化」を見ていきたいと思います。
経済部記者
菅澤佳子
平成16年入局
札幌局をへて経済部
現在、防災などのプロジェクトを担当