さようなら宇高航路 109年の歴史に幕

さようなら宇高航路 109年の歴史に幕
四国と本州の大動脈であった宇高航路。その最後のフェリーが先月、運航を休止し、1世紀を超える航路の歴史に幕が下ろされました。
「人生の節目に乗船した」
「とにかく走った」
「船上で食べたうどん」
さまざまな思い出を抱く多くの人々が一つの歴史の終わりを感慨を持って受け止めたようです。
(高松放送局記者 横山太一)

宇高航路の最後の日

先月15日の夜。日が暮れて冷え込み始めたにも関わらず、高松港をたくさんの人が訪れました。

待っていたのは午後7時50分に岡山県の宇野港に向けて出港するフェリー「第一しょうどしま丸」。109年の歴史をもつ宇高航路の最後の便です。

別れを惜しむ乗客250人余りが列をつくり、100人を超える人が見送りに詰めかけました。

そして午後7時50分。かつてのように“どら”が鳴り、船が港から離れ始めました。
港から「さよなら」「ありがとう」という声が次々とあがり、船の姿が見えなくなるまで響き続けました。

乗客や見送った人たちに聞きました。
「通学で使っていたので寂しいです。目に焼きつけます」
「家族で旅行に行く時に使っていました。残念ですが、お疲れさまと伝えたい」
宇高航路が人々の大切な思い出の切り離せない一部になっていることがうかがえました。

四国と本州の大動脈

岡山県玉野市の宇野港と高松市の高松港を結んでいることから、頭文字をとって名付けられた“宇高航路”。歴史は古く、明治43年に旧国鉄が連絡船として運航したのが始まりです。

車に乗る人が増え始めた昭和30年代から民間の会社が相次いで宇高航路にフェリーを就航させ、1時間から1時間半で四国と本州を結びました。
昭和30年には旧国鉄の連絡船「紫雲丸」が高松市の沖合で別の船と衝突し、修学旅行中の小学生を含む168人が死亡する悲しい事故もありました。
それでも利用客は年々増加。昭和50年代から60年代にかけてのピーク時の便数は150往復にものぼり、24時間、船が航路を往来していました。

全国で最もにぎわう港だった高松港と宇野港

宇高航路の利用客数がいかに多かったかを示す統計があります。旧運輸省がまとめていた「日本国港湾統計」、いまの「港湾統計」です。

この統計には全国の港の乗降客数のデータが残っていますが、昭和32年から15年間にわたって、高松港と宇野港が乗降客数1位と2位を占めていました。

香川県交通政策課は「宇高航路が四国と本州をむすぶ大動脈として機能していたことが主な要因で、高松港と宇野港は当時、全国で最もにぎわう港だった」と話しています。

人生の節目に宇高航路が

この宇高航路はどんな存在だったのか、かつての利用者を訪ねました。
高松市の寺の住職、大山健児さんです。最初の記憶は昭和40年代。まだ幼かったころの大山さんは、週末になるたびに祖父に連れられて宇高航路のフェリーに乗りました。岡山の病院に入院していた祖母を見舞うためです。
(大山健児さん)
「宇高航路はとにかくフェリーの便数が多くて10数分も待てば来るので楽でした。きょうはどのフェリーに乗るんだろうと、いつもうきうきしてました。私にとって宇高航路の最初の記憶は祖父との『遠足』でした」
高松市の高校を卒業した大山さんは東京の大学に進学します。初めて四国を離れるという人生の大きな転機で宇高航路の船を利用しました。

船上では生まれ育った土地を離れてこれから起こることへの期待と高揚感を感じていました。

しかしその数か月後に乗った宇高航路の船では正反対の感情に包まれます。大学生になって初めての夏休みを利用した帰省中の出来事。東京からはるばる宇野港までたどりつき、高松港へと向かう船に乗り込んで瀬戸内海の島々を見たとたん、懐かしさのあまり涙があふれ出てきました。その思い出は今でも忘れられないと言います。
(大山健児さん)
「私の人生の節目にはいつも宇高航路がありました」

新婚旅行で紙テープ 船へと走る走る

宇高航路の当時のにぎわいをいきいきと語ってくれた女性グループに出会いました。
岡山県玉野市に住む宮本明美さんなど7人のグループは昭和30年代後半から40年代前半、宇高航路の船に乗って、玉野市から高松市内の高校に通学していました。

当時、船の中では新婚旅行に向かう夫婦とたびたび一緒になりました。そんな夫婦がいると、出港時に紙テープが海に向かって投げられ、とてもにぎやかな光景だったそうです。

またこんなエピソードもニコニコと話してくれました。
「高松駅でも宇野駅でも、多くの人が船まですごい勢いで走って行くんです。船の座席を確保しようとしていたんですね。私たちもやっぱり座りたかったので、先に船に乗った人がカバンを置いて友だちの席も確保して協力してました」

就職のきっかけにも

宇高航路が就職のきっかけになった人もいます。
高松市の萩原幹生さんは旧国鉄の連絡船で昭和51年から10年余り船長を務めました。

海の仕事を目指したのは、高校時代に宇高航路の船から見た瀬戸内海の景色に感動したことがきっかけでした。

船長になったのは宇高航路を行き交う船が最も多かった頃でした。
(萩原幹生さん)
「船長のころは、連絡する列車が出発する前に港に着かないといけないという焦りと絶対に事故を起こしてはいけないという気持ちのせめぎ合いでした。引退したあとは常連客が『連絡船をしのぶ会』を結成してくれて、一緒に酒を飲んだり旅行したり、楽しい時間を過ごすことができました」

自負と常連客がいてくれたからこそ

宇高航路をとりまく環境を一変させたのは昭和63年の瀬戸大橋の開通でした。JR四国、民間の会社が次々と航路から撤退。

そして平成24年10月以降、唯一の運航会社となった四国急行フェリーが先月をもって運航を休止し、宇高航路は1世紀を超える歴史に幕が下ろされました。

この会社は航路の業績悪化を理由に平成25年から休止を検討していたのですが、その後も運航を続けた理由をこう語りました。
(四国急行フェリー 堀川智司会長)
「四国の経済を支えてきたという自負と常連客の存在があったからです。特に、高松港で偶然会ったお客さんが、船内で販売されているうどんを食べてくつろぐのが幸せなんですと話してくれました。すごくうれしかったですね。そういうお客さんがいたから、平成最後の年・令和最初の年まで続けてこられたんだと思います」

乗船し うどんを食べてみた

考えてみると、瀬戸大橋ができ、その後、通行料金も下がって、四国と本州の行き来は格段に便利になったはず。

それでも取材で出会った方々はなぜここまで生き生きと宇高航路の思い出を語ってくれたんだろう。

そんな思いを胸に、私も先月12日、つまり休止の3日前に宇高航路のフェリーに乗ってみました。そして船内で昭和40年代から販売されてきたうどんを食べてみました。
目の前に広がる瀬戸内海の美しい風景を眺めながら、わかめときつね、とろろ、卵を乗せたうどんは格別においしく、これまで多くの人がこのうどんをどんな気持ちで食べたのか、知らない間に思いをはせていました。

船上にいたのは宇野港までのわずか1時間ほどでしたが去年、29歳でNHK高松放送局に赴任するまで、四国に足を踏み入れたことのなかった私も何となくですが、この航路がもつ特別な重みを感じるようになりました。
進学・就職・新婚旅行・家族旅行…。四国の多くの人々が人生の節目に本州へ出ようとすると、そこに宇高航路があった時代がありました。多くの人々に頼られ、多くの人々に愛されてきたこの航路は、きっといつまでも人々の記憶の中で生き続けるのだと思います。
高松放送局記者
横山太一
平成25年入局 富山放送局、甲府放送局を経て去年から高松放送局。出身は東京都国立市。