学校を最後の場所にしないために

学校を最後の場所にしないために
「皆さん、想像できるでしょうか。泥だらけになった子どもの体を清めるすべもなくそれでもきれいにしたいと舌でなめ、それができる精いっぱいだった現実を」

小学6年生だった息子を亡くした父親は、裁判が終わって、なお語り続けています。

なぜ、息子たちを救うことができなかったのか。最後の姿はどうだったのか。真実を知りたいと起こした裁判は遺族側の勝訴で終わりました。

しかし…
「やっとスタートなんです」
裁判の先に父親が願うものとは。(仙台放送局 石巻支局記者 佐藤惠介)

裁判なんてしたくなかった

宮城県石巻市の今野浩行さん。

今野さんは2011年3月11日、東日本大震災の津波に襲われた石巻市の大川小学校で6年生だった長男の大輔さんを亡くしました。
大輔さんたち児童は地震のおよそ50分後まで校庭に待機。
その後、学校側の指示で近くの「三角地帯」と呼ばれる橋のたもとに避難を開始しますが、その直後に津波に巻き込まれたとみられ、74人の児童と10人の教職員が犠牲になりました。

震災の1か月後から始まった遺族への説明会では、校庭から移動を始めた時刻など、学校側の説明が二転三転。

文部科学省が主導する形で、当時の避難状況を検証する第三者委員会が設置されますが、ここでも、なぜ、子どもたちの避難が遅れたのか明らかになりません。

今野さんたち遺族の一部は、真実を知りたいという思いから裁判を起こすことにしたのです。
今野さん
「石巻市が最初からすべての情報を遺族に提供し、寄り添う姿勢を示していたら裁判にはなっていなかったと思います。安全で安心なはずの学校にいてなぜ、息子たちは死ななければならなかったのか。それを知るには司法の場に頼るしかなかったのです」

“金目当てではないのか”

こうして震災から3年後の2014年3月、犠牲になった74人の児童のうち23人の遺族が、石巻市と宮城県に対し、合わせて23億円の損害賠償を求める訴えを起こします。

今野さんはほかの遺族からの声もあり、裁判の原告団長を務めることになりました。

遺族の取りまとめや記者会見などへの対応。団長の役割は幅広く、責任も大きい。それでも、息子のために自分ができることをやろうと、矢面に立つことを決めたのです。
しかし、そんな今野さんを心ないことばが苦しめます。

「金目当てではないのか」ーー

ネット上などで、裁判を起こしたことに対する遺族への誹謗中傷が相次いだのです。今野さんは当時をこう、振り返ります。
今野さん
「こちらは記者会見などで名前も顔も出しているのに匿名で遺族の気持ちを踏みにじることを書かれる。気にするなと言われてもできなくて、体調を崩して原告団長を辞めたいとみんなに伝えたこともありました」

3人の子どもたちが支えてくれた

5年7か月に及んだ裁判。
原告団長として戦い続けることができたのは、亡き3人の子どもたちへの思いがあったからでした。

今野さんは長男の大輔さんだけでなく、高校3年生だった長女の麻里さん、高校2年生だった次女の理加さんも津波で亡くしています。

裁判から逃げ出したくなったとき、今野さんは、大川小学校や3人の子どもたちが眠る墓を訪れてきました。
今野さん
「いつも謝罪の気持ちです。父親として守ってあげることができなくて申し訳ないと。でも、校舎などに来ると子どもたちの声が聞こえるわけではないのだけど『まだ頑張ろう』という気持ちにさせてくれました」

司法に届いた遺族の声

去年10月。
最高裁判所は、震災前の学校と行政の防災対策に過失があったと認めた仙台高等裁判所の判断を維持し、石巻市と宮城県に14億3000万円余りの賠償を命じた判決が確定しました。

主なポイントでは、学校の危機管理マニュアルについて「津波の被害想定や地域の実情を踏まえ、具体的に避難場所や避難経路を定めるべきで、不備があるときは市が指導すべきだった」と指摘。

また、「義務教育で児童を預かる以上、校長らには、地域の住民よりはるかに高いレベルの防災の知識や経験が必要」として、全国の教育現場の防災対策を大きく問い直す内容になったのです。
裁判の終結後、大輔さんたちが眠る墓に報告に訪れた今野さんに同行しました。

そこには、これまでと同じように墓石を丁寧に磨き上げる今野さんの姿がありました。
今野さん
「裁判が終わったって子どもが帰ってくるわけでもないし、そういう意味では何も変わらないですよ」
今、今野さんの自宅には大輔さんのためのスーツと革靴、ジャンパーが置いてあります。

11月12日が誕生日の大輔さんは生きていれば21歳。おととしは成人を祝ってスーツを、去年は革靴を贈りました。そして、靴と一緒に贈ったのがジャンパー。当時、大輔さんが着ていて遺品として帰ってきたジャンパーは厚手で、津波で水につかり重くなっていました。

「厚手でなかったら、泳いで助かったのではないかーー」

そんな思いから今野さんは薄手のジャンパーにしました。裁判が終わっても、時間がたっても、わが子を思う気持ちに変わりはありません。

学校が最後の場所にならないために

判決の確定から1か月余りがたった去年11月下旬。今野さんなど遺族3人の姿が島根県浜田市にありました。

大川小学校での出来事を広く知ってもらうことで、命を守る行動や防災対策を考えるきっかけにしてほしい。

そうした思いから今野さんたちは、当面の間、裁判の原告団を解散せず、講演などの活動を続けることにしたのです。
今野さん
「裁判所の判断が子どもの命を守るわけではありません。判断を運用していくのは、教育行政や現場の学校です。悲劇を繰り返さないために、裁判が終わったここからがスタートなのです」
講演に集まったのは子どもを持つ親や教員などおよそ50人。

今野さんはおよそ2時間にわたって、当時の学校の対応や今も癒えない思いを語りました。
今野さん
「皆さん、想像できるでしょうか。ランドセルを持ったまま、木にぶら下がったまま動かない子どもの姿を。長い間、水につかってむくんでしまい、一目で自分の子どもであるかどうかもわからないくらい変わり果てたわが子の姿を。これは映画やドラマではなく、実際に起こり、われわれ遺族が経験したことです。二度と同じ悲劇を繰り返してはいけません」
学校が子どもたちの命の最後の場所にならないために。今野さんたち遺族はこれからも語り続けていきます。
今野さん
「裁判の結果をもとに次にどう動くか、どうつないでいくかです。命の重みを感じてくれれば自然と、命を守る行動や備えにつながっていくと思います」

息子のために父親として

なぜ、子どもたちはおよそ50分間も校庭に待機させられ避難が遅れたのか。今野さんが本当に知りたかったことは裁判でも明らかになりませんでした。

判決の確定を受けて、去年12月、石巻市の亀山紘市長は遺族と面会し、正式に謝罪。その場で、遺族たちは震災当時の対応を改めて検証するよう求めました。
今野さんは裁判が終わった今、当時、現場にいて、ただ1人生き残った教員にあの日に起きたことを語ってほしいと願っています。

失われたわが子の命に報いるために、今野さんはこれからも父親として生きる覚悟です。

大川小学校の校舎は災害の記憶や教訓を伝える『震災遺構』として整備が進められる予定です。

子どもたちの命を未来に生かすためにも、教訓をどう語り継ぎ、安全で安心できる学校にしていくのか。私自身、今野さんたちがあの日見た光景を想像し、寄り添いながら取材を続けていきたいと思います。
仙台放送局 石巻支局記者
佐藤惠介
平成28年入局
県警・遊軍担当をへて令和元年7月から石巻支局に。
震災や経済分野など幅広く取材。英語も堪能。