ペリリュー島から生還 旧日本兵が残したことば

ペリリュー島から生還 旧日本兵が残したことば
太平洋戦争で有数の激戦地となったペリリュー島。

旧日本軍とアメリカ軍の双方で合わせて2万人が死傷。島から生還できた日本兵はわずか34人でした。
その1人、そして最後の生存者だった永井敬司さんが去年11月、98歳で亡くなりました。
近年、永井さんは過酷な戦争体験と平和への思いを語る活動に力を入れてきました。

戦後75年。昭和から平成をへて令和へーー。
戦争を体験した人たちが年々減っていく中、残された声の一つをお伝えします。(国際放送局記者 佐伯健太郎)

永井さんとの出会い

水戸放送局の記者だった私が、初めて永井さんに会ったのは5年前、2015年の4月でした。

当時の天皇皇后両陛下、現在の上皇ご夫妻がパラオ諸島に慰霊に訪れた際に、激戦地だったペリリュー島にゆかりのある人を取材しようと探していたところ、取材先の知人に紹介されて連絡を取りました。

茨城県茨城町で妻とともに暮らしていた永井さんは、当時、よわい90歳を越えていましたが、耳はきちんと聞こえ、電話1本で快く取材のアポに応じてくれました。

以前、永井さんが経営する和菓子店だったお宅は、古い商店街の一角にありました。ペリリュー島での陛下の慰霊式典の様子をテレビの生中継で見ながら話をうかがいました。居間の座卓に前のめりになって、テレビをじっと見つめている様子が印象的でした。

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旧日本軍の兵士として永井さんが戦ったペリリュー島は、フィリピンの東約800キロに浮かぶ南北9キロ、東西3キロの小さな島です。現在はパラオ共和国となったミクロネシア諸島の1つです。

アメリカ軍は、戦争初期に日本軍に占領されたフィリピンを奪還する拠点として、ペリリュー島の攻略を企図していました。
昭和19年(1944年)9月6日、アメリカ軍は戦艦や巡洋艦20隻余りで島めがけて猛烈な艦砲射撃や空母艦載機による爆撃を始め、15日、一気に約4万人の大部隊を上陸させました。
日本軍の守備隊は、当時精鋭中の精鋭とされた茨城県の水戸歩兵第2連隊を主力とする部隊で、島中に張り巡らせた洞窟型の要塞陣地を使って激しく抵抗しました。
当時、太平洋の島しょ地域では、守備にあたっていた日本軍の部隊が圧倒的な連合国軍の攻撃に対し、いわゆる「万歳突撃」で玉砕する事例が数多くありましたが、大本営はペリリュー島の兵士たちに「玉砕」を禁じ、徹底した持久戦を命じました。
日本軍は2か月余りにわたって耐え抜きましたが、約1万人がほぼ全滅し、組織的な戦闘は11月27日に終結しました。アメリカ軍にも1万人近い死傷者が出ました。

しかし、旧日本軍の兵士たちは、終戦後も洞窟に立てこもり続け、武装解除に応じたのは、それから2年半後の昭和22年(1947年)4月でした。
ペリリュー戦で生き残った日本兵はわずかに34人。その1人が永井さんでした。
永井さんはとても話し上手な人でした。戦場での状況を説明する時、記憶が鮮明でことばの一つ一つが正確だったため、私も同じ戦場にいるように感じました。

私は、時折、永井さんのお宅を訪ねるようになりました。
永井さんは、たいてい庭にいました。
洗濯物を干したり、草木をいじったりしていました。
「洗濯と庭掃除はすべて自分でやっている」と話していました。

そういう姿を見て、「永井さんのように体が丈夫でなければ、過酷な戦闘を生き残ることはできなかったのではないか」と感じました。

忘れられない戦争の恐怖

いつも戦争の話をしていたわけではありません。

永井さんは記者を相手に世間話ににこやかに応じてくれました。しかし、ペリリュー島での戦闘について話し始めると、目がとても険しくなりました。相手の目をじっと見つめながら、ひと言ひと言はっきりと、「わかりますか?」と諭すように話すのです。思わず瞳の奥に吸い込まれそうでした。

そんな時、「これは死地をさまよった人の目だ」と強く感じました。

永井さんが繰り返し口にしたのは、「あれほど悲惨なものはないから、二度と戦争はしたくない。戦争だけはダメ」ということばでした。

アメリカ軍との戦闘について、「『太平洋の防波堤たらん』ということで、天皇陛下のご命令を受けた。本当に『太平洋の防波堤』だった。何もない」と兵士の顔で話した永井さん。

しかし、戦況は圧倒的に不利でした。
「海岸での戦闘はすごかった。こちらで一発撃つと、向こうで何十発と撃ってくる。死体累々で…」

永井さんは生還できたことについて、山奥へ入らなかったことが幸いしたと話していました。アメリカ軍の近くに潜み、夜になると食糧を奪いに行くのを繰り返していたそうです。

「毎日、食糧積んだところを確認して、夜にかっぱらう。盗みに行く。戦場ほど厳しいものはない。食べる物も水もないんだから。それで…1週間とか10日とか連続で戦う」

終戦後も小さな島の洞窟に立てこもり続けたことについて、「最後まで友軍(旧日本軍)が攻めてくると思っていた。私らは日本は負けたとは思っていない。負けるとは思わないから、私は最後まで頑張った」と話していました。

永井さんと話していて、「投降」とか「降伏」ということばを使うことは「タブー」でした。

永井さんの気持ちを聞き出したくて、一度だけ、おそるおそる尋ねたことがあります。

永井さんの返事はーー
「命を張って生還した兵士に、人生の最後になって、そんなことばを使ってはいけない!」
ぴしゃりと言われました。

棚の上のサンゴ

思い出すのは、居間の棚の上の、砂を敷いたトレーに置かれていたサンゴです。

永井さんは、戦後、一度だけペリリュー島での遺骨収集に参加したことがあります。サンゴはその時に現地から持ち帰ったものだということです。

「友が亡くなった島のサンゴだから。これは大事なものだ。私たちはみんな戦場で大変な思いをしたから」

そう言うと、永井さんはサンゴを両手で取り上げて、しばらくの間、じっと見つめていました。

戦後憲法は「世界に誇るべき憲法」

もっとも印象に残っているのは、永井さんが日本国憲法をとても大切に思っていたことです。

2017年5月、安倍総理大臣は憲法改正を目指す市民らの会合に寄せたビデオメッセージで憲法を改正し、2020年の施行を目指す意向を表明。具体的な改正項目としては、戦争の放棄などを定めた憲法9条に自衛隊に関する条文を追加することをあげました。

この際、永井さんは「今の憲法を、なんで変える必要があるんですかね。あれは世界に誇るべき憲法ですよ!」と強い口調で話していました。過酷な戦争を体験した永井さんの思いを感じました。
永井さんの居間の棚には、ペリリュー島での戦闘についての本や書類のつづりが並んでいました。

何度も繰り返し読んだようなあとのある本です。
永井さんの長男の宏さんは、朝から晩まで和菓子作りに取り組んでいる父の背中を見て育ちました。しかし、父親はペリリュー島のことがずっと頭を離れなかったのではないかと感じています。

永井さんは、ペリリュー島の戦闘に関する書籍が出たと聞くと、自分で車を運転して遠くの書店まで出かけて本を買っていました。近年、体の調子が悪くなって遠出をしなくなると、宏さんが書店を回って、本を見つけては届けていたそうです。

天皇陛下との面会

永井さんは、当時の天皇陛下と2回面会しました。

最初は、天皇陛下がペリリュー島を訪問する2週間ほど前の2015年3月。この時、ペリリュー島からの生還者は2人になっていました。陛下から「本当に長い間、ご苦労さまでした」と声をかけられたということです。皇后陛下に「戦後は砂糖がなくて大変だったのではないですか?」と声をかけられ、自分の和菓子店のことまで知っていたと、驚いていたということです。

去年2月、陛下の即位30年を記念する宮中茶会に招かれた時は、生存する最後の一人になっていました。永井さんは陛下が近くに来たときに、ペリリュー島慰霊の旅への感謝を伝えたということです。

前の年にがんの手術をしていた永井さんは、このころ体調が思わしくなく、皇居に行くかどうか迷っていたということです。

しかし、宏さんに「こんなことはめったにあるもんじゃない」と言われ、宏さんに付き添われて皇居へ向かいました。

天皇陛下との面会を終えた後、永井さんは、「陛下が自分のことを覚えていてくれた」と、とても喜んでいたそうです。「一兵卒が皇居に2回も行けるなんて」と、うれしそうだったということです。

戦争の語り部として

天皇陛下のペリリュー島訪問後、永井さんは生還者の一人として注目を浴び、戦争経験について話す機会が多くなりました。

戦争経験について話した最後の場は、東京での講演会で、アメリカ軍による攻撃の様子や何年にもわたって島に隠れながら戦い続けたこと、そして、戦争に反対する気持ちなどを話しました。

宏さんは、「父が生還したのは、まさに戦争の経験を話すことを運命づけられていたのではないかと思う」と話しています。

遺志を継ぐもの

去年11月23日。
ペリリュー島戦没者慰霊祭が水戸市で開かれました。

戦後、戦友会として始まったこの会に、永井さんは毎年必ず出席していましたが、この日はかないませんでした。

この月の4日、永井さんは「最後の生き残り」としての役割を果たし、この世を去りました。
ペリリュー島の犠牲者の慰霊活動を長年一緒に行ってきた「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」の影山幸雄事務局長は、「永井さんが戦争体験について語るとき、ほかの人とは大きく違って迫力があった。これからも永井さんの遺志を継いで、慰霊や戦争を語り継ぐ活動を続けていきたい」と話していました。

私は3年前の平成28年(2017年)の夏に東京に転勤したあと、永井さんとは、とうとう再会する機会はありませんでした。

その年の12月に永井さんからいただいたはがきには「今は筑波海軍航空隊記念館の方からの取材に応じています。夫婦仲良く一日一日を大切に。また」と添え書きがありました。

永井さんは、最期まで戦争体験を一人でも多くの若い世代に伝えようとしていたのだと思います。
国際放送局記者
佐伯健太郎
昭和62年入局
秋田局、マニラ支局長、
八戸支局、水戸局などをへて現職