奪われた19のいのち 障害者施設殺傷事件 初公判を前に

奪われた19のいのち 障害者施設殺傷事件 初公判を前に
それは、3年5か月余り前の夏の日のことでした。「意思疎通のできない障害者は生きている意味がない」 そう語ったのはかつて教師になりたかった26歳の若者でした。あの日、障害があるだけで奪われた19のいのち。そしてその動機に心を殺された無数の人たち。“過去に例のない差別犯罪”は、なぜ起きたのか。3年半近い時を経て、今月8日からその裁判が始まります。(障害者殺傷事件取材班記者 横浜局 山内拓磨 廣岡千宇 社会部 清水彩奈)

未明に飛び込んできた一報

「障害者施設に男が侵入、多数のけが人が出ている」

2016年7月26日未明、横浜局の泊まり担当記者が消防から聞いた、この事件の一報でした。

私たち記者は状況もわからないまま、ある者は現場へ、ある者は警察署へ、ある者は病院へと直行しました。次々と入ってくる入所者の死亡情報。いったい何が起きているのかー。
少したって、「私がやりました」と出頭した男が逮捕されたという情報が入ります。そして朝には、この男が現場となった相模原市緑区にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」の元職員 植松聖被告だということも明らかになりました。

しかし、なぜ元職員が?

夜になって伝わって来たその答えは想像を絶するものでした。

「意思疎通ができない人を刺した」
「障害者はいなくなればいいと思った」

警察の調べに対し被告はそう供述したのです。

この動機に社会は震撼(しんかん)し、障害のある人たちや家族で作る団体などがさまざまな声明を発表しました。
全国手をつなぐ育成会連合会
「どのような障害があっても一人ひとりの命を大切に懸命に生きています」「私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください」
日本知的障害者福祉協会
「障がいの有り無しで命を選別することは、絶対にあってはなりません。どんなに重い障がいのある方も同じ地域の一員です」

総理に伝えて…「殺害計画」

その後の捜査で、事件の概要が見えてきます。

午前1時43分ごろに敷地に侵入、女性が暮らす「はなホーム」の1階の部屋の窓ガラスを割って建物に入り、最初に19歳の女性を殺害。通報されないよう夜勤の職員を結束バンドで拘束し、東から西へとホームを移動、およそ1時間で40人以上を刃物で襲ったということです。
さらに事件の5か月前には、レポート用紙3枚分の手紙を衆議院議長に渡そうとしていました。
「障害者を大量に殺害する」 計画を総理大臣に伝えてほしいという内容でした。自分の名前と住所、当時働いていた津久井やまゆり園を標的にすることまで記されていました。

その後、相模原市は「他人を傷つけるおそれがある」として、医師の診断に基づき強制的に入院させる「措置入院」の対応を取りました。しかし、別の医師の診断で12日後に措置入院が解除、被告は退院しました。

それから4か月余り後に事件が起きました。

逮捕後、検察側の精神鑑定では「自己愛性パーソナリティ障害」など複数の人格障害があったと指摘されましたが、検察は刑事責任能力はあったとして被告を起訴しました。

今回の裁判ではその責任能力の有無が争点になります。

教師になりたかった青年

なぜ施設で働いていた若者がこのような事件を起こしたのか。

多くの人がその疑問を抱いたと思いますし、私たちもそうでした。捜査関係者や被告の子どもの頃を知る人、恩師、友人たち、同僚など関係者を訪ね歩きました。

植松被告は相模原市出身で小学校の教師の父親と、母親の3人家族で育ちました。幼稚園から中学校は地元で通い、その後、八王子市の私立高校に。

高校生のときには、父親と同じ小学校の教師になりたいと考え、大学は教育学部に進学。母校の小学校にも教育実習で訪れていました。

被告が受け持ったクラスの児童は、高校生になっても当時の様子を覚えていました。

「話し方はとても温かくて、生徒に親身に接していた。誠実な感じで介護には向いているような印象を受けた」

しかし、結局、教師にはならず大学卒業後は運送会社に就職、自動販売機に飲み物を補充する仕事に就きました。

この仕事は1年半ほどで辞め、平成24年12月からは事件現場となった「津久井やまゆり園」で非常勤職員として働き始め、その後、職員として正式に採用されました。

事件の前まで被告と連絡を取り合っていた中学校の時の同級生の男性は、事件に至った背景についてこう語りました。

「明るいし、誰とでも仲よくするようなタイプだった。目標だった先生になれなかったことが大きかったと思う」

『成功者』になりたかった

私たちは、本人にも話を聞こうと拘置所にいる被告と20回以上接見を重ねて来ました。
届いた手紙は40通余りになります。この中で被告は自身の差別的な主張は雄弁に繰り返しましたが、両親のこと、教師を目指していたことなど、施設で働く前のことを聞いても、話題を変えて明確に答えませんでした。
去年10月、19回目の接見で記者はこう問いました。

「私にはいろいろ理屈を取り繕っているように聞こえる。結局のところ、なぜ事件を起こしたのか、よく分からない」

すると、被告は不意に次のように語りました。
植松被告
「本当のところは『成功者』になりたかった。自分が歌がうまかったり野球が得意だったりしたら別ですけど、そうじゃないので。いちばんよいアイデアだと思った。でも結局、成功者にはなれなかった。いまお金もないですから」
ずっと差別的な主張を繰り返していましたが、結局は目の前にいた人たちに自分の弱さをぶつけただけではないのか、そう感じる、あまりに理不尽でやりきれないことばでした。

“匿名審理” 「甲A」「乙B」と呼ばれる被害者たち

被告が語り続ける一方で、命を奪われた19人は、いまも匿名のままとなっています。警察は「家族の意向」などとして、発生当時から19人の名前を発表していません。

そして公開が原則の裁判でも19人は匿名となります。「秘匿決定」と言って被害者の氏名など個人が特定される情報について裁判所が明らかにしないと決めるものです。

40人を超える被害者の中で、死者は「甲」とアルファベットの組み合わせに。負傷者は「乙」「丙」とアルファベットの組み合わせに。つまり「甲A」さん、「乙B」さんと呼ばれる予定です。

さらに、傍聴席は遺族らが座る3分の1近くが遮蔽板で区切られ、他の傍聴人から姿が見えないようになる見込みです。多くの裁判を取材してきた私たちにとっても「かつて見たことがない法廷」になります。

“19のいのち”を伝えたくて

事件から半年後、私たちは、匿名の犠牲者に決して奪われてはならない豊かな個性と大切な日常があったことを伝えたいと思い、特設サイト「19のいのち」を立ち上げました。
それぞれの生きた証を少しずつでも刻んでいきたいとご遺族や元職員など亡くなった方たちを知る人たちにお話を伺ってきました。

「どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした」
「一生懸命、生きていたことを知ってほしい」
「職員の自分に色んなことを教えてくれる人だった」

それは、被告が奪った命の重さを実感する日々でした。ご遺族が匿名を希望する背景にさまざまな理由があることもわかってきました。

「ただただ、そっとしておいてほしい」という方、「社会の偏見や差別が怖い」という方。「障害のある家族のことを隠したいと思っているわけではない」という方もいました。

家族に匿名を強いてしまっているのは、私たちマスコミも含めて社会の側の問題だと感じることも多くありました。

裁判で何が明らかになるのか

今回の裁判、法廷にはあえて行かないという遺族もいます。逆にできるだけ公判に通って、裁判を見届けようとする方もいます。そして、みずから法廷に立ち、被告に思いを伝えようという方もいます。

この3年半近く、取材を続けてきた私たちは、被告の生い立ちがどう影響しているのか、どこで被告の差別的な考えが生まれ、なぜ殺意にまで発展したのか、重度知的障害者が暮らす施設という環境が影響したのか…。

二度とこのような事件が起こらない社会にしていくためにも、1つでも法廷で事実が明らかになってほしいと思っています。そして、これまで主張を変えなかった被告に、遺族のことばが届く日がくるのか…。

「特殊な人物による特殊な事件」として終わらせることは簡単です。しかし、私たちひとりひとりも、この事件を起こした被告を生んだ社会に生きています。

裁判を、いま一度この社会のありようや自分の心のうちを直視する機会にしていけないか。そんな思いで判決が言い渡される予定の3月16日まで、傍聴席から見つめ、ここにつづっていきます。そして、特設サイト「19のいのち」ではこの間も、皆さんからのことばをお待ちしています。
横浜局記者 廣岡千宇
平成18年入局 横浜局 福島局 首都圏放送センターを経て現在、横浜局で市政・遊軍担当
横浜局記者 山内拓磨
平成19年入局 長崎局 福岡局 報道局社会部(司法担当)を経て現在、横浜局で司法担当
社会部記者 清水彩奈
平成24年入局 福岡局 横浜局を経て現在、報道局社会部で司法担当