ピザと難民 ルポ・アフリカの“強権国家”

ピザと難民 ルポ・アフリカの“強権国家”
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「アフリカの北朝鮮」
欧米のメディアなどからそう呼ばれている国があります。アフリカ東部、紅海に面したエリトリアです。
「独立以来1度も国政選挙をしたことがない」
「国民の10人に1人が国から逃げ出している」
「若い男女はほぼ全員、軍のキャンプに入れられる」
伝わってくるのはこんな話ばかり。外国のメディアをほとんど受け入れず、外部から閉ざされてきたエリトリア。そこはどのような国で、人々はどのような暮らしをしているのでしょうか。当局との交渉の結果、ようやく手に入った入国許可をもって訪ねました。
(ヨハネスブルク支局長 別府正一郎)

イタリアに来たのか?

ふだん南アフリカに駐在している私がエリトリアに向かったのは10月の初旬。アフリカのハブ空港として急成長しているエチオピアの首都アディスアベバを経由し、エリトリアの首都アスマラに到着しました。標高およそ2300メートル。高地の涼しい風が迎えてくれました。
さっそく町の中心部に入ると、不思議な感覚にとらわれます。まるで古いヨーロッパの町並みのようです。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』に出てきた第2次世界大戦直後のイタリアの街にそっくりなクリーム色の建物が建ち並んでいます。
それもそのはず、エリトリアは1940年代まで50年以上、イタリアの植民地支配を受けていたのです。支配者のイタリア人はアスマラを「リトル・ローマ」として、街路を整備し、キリスト教の教会や映画館、住宅などを建築しました。その当時の町並みが独立後もほぼ手付かずで残っているのです。

夜でも町を歩ける

そんな博物館のような町ではのんびりした時間が流れていました。喫茶店に入れば、人々はエスプレッソ・コーヒーを飲みながらおしゃべりを続け、町中ではおいしいピザやジェラートが売られています。治安がいいことはすぐに分かりました。
日が暮れても人々は町を歩き、レストランではカップルや家族連れが夜遅くまで食事を楽しんでいたからです。

私がいる南アフリカは世界でももっとも犯罪が多い国の1つで、日が暮れると町からは歩く人の姿は消え、人々は電気が流れるフェンスで囲まれた家に閉じこもります。夜遅くに町を自由に歩けたのはいつ以来だろうかと思いました。

強権的な政治体制

ただ平穏に見える暮らしの裏側にはエリトリアの“強権的”と言われる政治体制があります。

エリトリアは第2次世界大戦後、隣国エチオピアに強制的に併合されましたが、長きにわたる闘争の末、1993年に独立。以来、国政選挙は延期され続け、この30年近く、一度も実施されないままです。
独立戦争の英雄・イサイアス大統領は70歳を超えたいまも、国のトップに君臨し続けています。

エリトリアはこの間、国際社会から孤立する道をたどり、国民が外国と接触することも厳しく制限してきました。

取材では機微に触れる話になると、誰もカメラの前でのインタビューには応じてくれません。ただカメラの回っていないところでは私にそっとこう耳打ちしてきた人もいました。

「私服の情報機関のメンバーに監視されているんだ」

貧困、圧政、逃げ出す国民

経済は低迷し、産業はほとんど発達しておらず、国民1人当たりのGDPは年間700ドルにもなりません。冒頭のレストランでピザやジェラートを楽しめる人々というのは全体から見れば一部なのです。
また「ナショナルサービス」=国民奉仕という制度があり、高校を卒業すると、大学に進む一部のエリートを除いて、ほぼ全員に長期間の兵役や行政組織での労働が義務化されているのです。これは国際的な人権団体から、「強制労働だ」と批判されています。

政府を批判するようなことをすれば、いきなり拘束され拷問を受けることもあるとして、国連の調査団は一連の人権侵害を「人道に対する罪に値する」とまで非難しています。

こうした貧困や抑圧に耐えかね、法を犯してでも国外に逃げ出す若者が後を絶ちません。その総数は国連が把握しているだけでも人口500万人の1割にあたるおよそ50万人に上ります。小さなボートに乗って命懸けで地中海をわたってヨーロッパに逃れてくる人々のなかにもエリトリア人の姿が目立ちます。

政権幹部は…

このような指摘にエリトリア政府はどう反論するのか。政権の中枢にいる大統領顧問のイエマネ・ゲブラド氏を直撃しました。
Q「多くの国民が国を逃げ出しているが?」

イエマネ氏「アフリカからは多くの人が地中海を渡っていて、エリトリア人だけではない。政府は国民から圧倒的に支持されている」

Q「選挙をすれば、国民の支持があるかないか、はっきりするのではないか?」

イエマネ氏「国民は生活の向上を求めている。独立と主権を守ることが何よりも優先された結果だ」
エチオピアという地域大国との対立を理由に、いわば戦時体制にあるとして、選挙をしないことを正当化してきたエリトリア。
最後に欧米メディアから“北朝鮮のようだ”と批判されていることについて聞くと、「もちろん、ばかげている」と一蹴。根拠のない誹謗中傷がまかりとおっていると反論しました。

そのうえでイエマネ氏は「エチオピアとの和平が実現したことで、大きな変化が起きる可能性がある」と指摘しました。

歴史的な和平合意

大統領顧問も期待を寄せるエチオピアとの和平とはどのようなものなのでしょうか。

エリトリアは独立から5年後の1998年に、国境線をめぐってエチオピアと武力衝突し、双方で合わせて推定10万人が死亡しました。戦闘は2000年に終結しましたが、その後も互いに国境を閉ざし、人と物の往来が途絶えたままの対立関係が続いてきました。
こうした状況が大きく動いたのが去年7月。就任したばかりのエチオピアのアビー首相が突然、アスマラを訪問して、イサイアス大統領と和平を結んだのです。

私たちがアスマラに行くときに利用したアディスアベバからの空路も、この和平を受けてできたものでした。

アビー首相はこの功績によって、ことしのノーベル平和賞に選ばれ、12月10日、オスロの授賞式に臨むことになっています。

見え始めた変化の兆し

和平をきっかけに、少しずつ変化も生まれています。エチオピアとの間を行き来できるようになったことで、紛争によって離れ離れになった家族の再会が実現しています。

経済の活性化への期待も出ています。洋服工場を訪ねると、何十人もの職人がミシンに向かい、活気にあふれていました。
現場責任者の女性は「外国との扉が開けば、投資が増える。また、巨大なエチオピアの消費市場にも進出できる」と意気込んでいました。

ノーベル平和賞は今回、エリトリア側には贈られませんでした。ただ人々の表情には前向きな変化への期待がありました。そうした人たちの顔を思い浮かべながら、今回の取材を終えました。
ヨハネスブルク支局長
別府正一郎