がんと闘う映画監督 大林宣彦の「遺言」(後編)

がんと闘う映画監督 大林宣彦の「遺言」(後編)
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大林宣彦監督(81)は、がんの余命宣告を受けながらも、10月、最新作を完成させた。密着2年、20時間に及ぶインタビュー素材の中から、大林監督が映画に込めた「遺言」を2回にわたって読み解く特集の後編。

かつて「映画は足で作るもの」と語った監督だが、がんは確実に体をむしばみ、みずからの足で歩くこともままならなくなった。

一方、密着取材を許された私は、カメラマンであるにもかかわらず6年前から網膜の難病を抱え、視野が失われていく状況に直面している。

大林監督は、みずからの体が弱っていく中でも「今の君や僕だからこそ、撮れるものがあるはずだ」と私の病気に対して思いやりのあることばをかけ、手を差し伸べて握手してくれた。後編では、がんで身体の自由が失われていく状況の中で、大林監督が、映画作りとどう向き合うのか。長期密着取材を許され、視力が失われていくカメラマンの“私”の視点から見つめる。
(映像センターカメラマン 川崎敬也)

「インタビュアー泣かせ」の監督

大林監督の取材はとにかく難しい。

食事は撮影NG。さらに“フィロソフィー(哲学)と関係のない質問はお断り”と、過去に多くのメディア関係者が長期取材を試みるも断念してきた。

私も取材を始めた当初、いすから立ち上がろうとする監督にカメラを向けた瞬間に、「そうやって“老い”を撮るな」と叱られ、今後どうカメラを向けさせてもらえばいいのか、わからなくなったこともある。

しかし、この冬、パリに招かれた監督を取材した番組を、監督が高く評価してくれたことをきっかけに、関係に変化が生まれた。いま、監督は私の一つの質問に対して、30分以上かけて答えてくれることもある。ときにそれはこちらの意図から離れ、放送には使えない“私”個人に向けたことばであることもある。

去年、大林監督の最新作の現場をテーマにした番組を、私はディレクターとともに取材していた。監督のふるさと、広島県尾道市でのロケ最終日、監督に密着取材のお礼を伝えたところ、こう返された。
「僕はあと30年生きて、30本映画を撮る。ずっとついてくるんでしょ?先は長いよ」
当初は冗談かと思ったが、番組を放送したあとも、私はまだ本当の取材が終わっていないように感じていた。そこで後日、改めて監督に、「撮影現場だけでなく、最新作の編集作業にも密着させてほしい」と思い切って懇願した。

監督は「川崎君が小さなカメラ一つで撮りにきてくれるならいいよ」と長期取材を認めてくれた。

結果的に私が長期取材を許された理由の一つは、取材者としてだけでなく、個人としても大林監督の生き方をもっと深く知りたいという思いが伝わったからではないかと考えている。

視力を失うカメラマンの“私”

大林監督といえば、台本どおりの演出はせずに、現場でのひらめきやアイデアを最大限取り入れて作品を作り上げていくのが特徴だ。

しかし、去年の夏、新作映画の撮影現場への密着を続ける中で、大林監督はそれまでと同じような映画づくりができなくなっていることに気が付いた。みずからの足で自由に動き回ることもままならず、か細い声は現場に届かない。自分の思いが現場に伝わらず、時にいらだちをあらわにする監督を見て、私はその気持ちが痛いほどわかるような気がした。

失われていく身体能力のなかで闘っていると、時に叫び出したい気持ちになるものだ。

私は6年前、カメラマンとして不可欠な視野を失った。三大失明病の一つ「網膜色素変性症」で、網膜の視細胞が減少することで年々視野が狭くなる難病だ。iPS細胞など先端医療の進歩に頼るほかなく、60歳で失明する恐れもあると医師に告げられている。
いま、私に残された視野は10度のみ。視力も低下を続ける。渋谷のスクランブル交差点では人とぶつかり、まともに歩くことすらできない。

カメラマンとして“致命傷”を負った私。いったいこれから何を撮ることができるのか。すべてが終わったと思い、カメラマンを辞めようと決意したこともあった。自分に何が撮れるのか、模索する日々で2年前に出会ったのが、大林監督だ。

その体は病に侵され、ひとりで歩くのもままならない。それでもなお、新たな挑戦を続ける姿を見て、今の自分にもできることが、実はあるのではないかと感じ始めた。

同じことは二度としない

「映画は“足”で作るもの」と明言していた大林監督。

当時の撮影現場では、監督の定位置は、いつもカメラの真横だった。俳優が海に飛び込む演技をためらうと、みずから崖の上から冬の海に飛び込み、手本を見せるなど、最前線で体を張った映画作りをしてきた。

しかし転移を繰り返すがんが監督の足を不自由にし、それまでの大林流の映画づくりを不可能にした。そんな状況でありながら、去年、44本目となる最新作「海辺の映画館」の制作を始め、世間を驚かせた。
「病気になったおかげで、僕は目が開かれたことが多くてね。目に映るすべてが“命”なのだと。映画人としては、いまがいちばん元気なときです」
大林監督は、44本に及ぶ多作の映画を生み出しながらも、過去の成功体験に捉われずに、それまでの作品と「同じことは二度としない」ことで知られる。
「おびえないことをやったってクリエーティブじゃない。歩けないのはもどかしいし、それは現場ではいらだつことが多いですよね。今までは現場で走り回って自分で見たものしか映画にできなかったけれども、これからは、これはここじゃないかなと沈思黙考したことが作品になる。だから僕の作品は本当に深くなった。衰えるということは別の才能が宿るということだなと」
みずからを「81歳の新人監督」と呼び、最新作「海辺の映画館」では、ミュージカルにタップダンス、時代劇、アクションなど未経験の要素を取り入れ、新たな世界観を作り上げた。逆境すらチャンスと捉え、新しい手法に挑戦を続けた。
「人間がしていることはまだまだこれぐらいで、知らないことのほうがこんなに多いぞという風に思っていますのでね。映画だって、音楽だって、みんな誰でももうやるべきことはみんなやったぞと。もう俺たちがやれることは何もないぞというんだけれども。とんでもない。まだまだやってないことのほうがいっぱい残っている。僕も生き延びたからには、その残っている部分を、一生懸命、発明していこうじゃないかと」
余命宣告を受け、逃れられない運命にあらがって映画を作る大林監督。私は、大林宣彦という個人が生きる姿勢を見つめ続けることで、カメラマンとしてだけでなく、難病を抱えるひとりの人間として、みずからの努力ではどうにもならない状況を、どう生き抜くことができるか。生きるヒントを監督からつかめるような気がしていた。

がんで「想像力が豊かに」

監督はいつも、新たな表現をするには、想像力が大事だと指摘する。

車いすが移動の中心となり、かつてのように現場を駆けまわれなくなったいまも、不自由さを補うのは想像力だという。
(大林監督)「僕は動けなくなった代わりに、自分なりに想像力が豊かになったと思うよ。そしてこの想像力は、足で失ったものを補って、より余っている」
その想像力に圧倒されたのは、ことし5月の編集作業だった。編集は、試写会に向け大詰めの段階を迎えていた。
これまで一緒に映画を撮り続けてきた妻でプロデューサーの恭子さんに手を引かれ、都内の編集スタジオにやってきた大林監督。すでに収録した役者のセリフをすべて録り直すという。

通常の映画製作ではありえないと関係者は言う。主人公たちが原爆の投下直前、広島行きの汽車の中で「広島って原爆落ちるのいつだっけ?」「8月6日」と会話を交わすシーン。

大林監督は、「『それは、この8月の6日』と読んでください」と役者に伝え、「ぞっとしますね」とつぶやいた。

若い世代は、広島に原爆が落とされた日も知らないのではないかと想像し、8月6日という日を少しでも印象づけようとしていたのだ。

ひとつひとつのことばにこだわり抜き、スタジオでの作業は、いつもの3倍以上の時間に及んだ。
「映画の中のことばは、すべてよく理解できるように、気持ちが誘われていくように演出をしなきゃいけないので、やってみては直していくということで、進めているわけです」と語り、どうやったら若い世代にも伝わるのか、想像力を駆使してことばを紡いでいた。

大林監督の徹底したこだわりについて、恭子さんは次のように語った。
(プロデューサー/妻 恭子さん)「どう伝えたら伝わりやすいかとか、伝えておかなきゃいけないと思っていることとか、とにかく残さず、やりたいんじゃないかしら。この映画は、監督にとって遺作というか遺言だから」
3年に渡り、がんと闘い、製作を続けた大林監督。たどりついた境地を最後のナレーションに加えた。
「宇宙もまた同じ命の仲間。人間も一つの小さな命として仲間になれば宇宙は平和です」

映画は“風化しないジャーナリズム”

映画の完成を迎え、試写会に姿を現した大林監督は、集まった関係者に向け、映画の限りない可能性を語った。
「皆さん、いま世界は映画を本当に必要としております。映画で戦争の過去の歴史を変えることはできないが、未来の平和をたぐり寄せる力は映画にはあるんだよ」
そして、集まった報道陣に向け、こう語りかけた。
「日本はいつも付和雷同で多数に従うということでなかなか自分の意見を言わないんです。しかし私もここまで勇気を持って命懸けで本音を言いました。マスコミの方々ももう解説だけではなく、私ならこうするということを言うことこそが、これからのマスコミのなすべきことだと思いますのでね。皆さんの役割は解説をする情報処理屋じゃなくて、フィロソフィーを持って世界の平和を作るためには、マスコミが率先しなければだめであるということをね、ぜひ表現して頂ければうれしいなと。この場を借りて、もう二度と言いません。お願いしておきます」
大林監督は、「映画は記録ではなく記憶を伝える“風化しないジャーナリズム”だ」と常々語ってくれた。

「同じジャーナリズムの道に生きる者として、あなたはどう生きますか」

監督が取材を続ける私に問いかけているようにも感じた。

“足”を失った僕から“視野”を失った君へ

がんになったことで、想像力がより豊かになり、メッセージがさらに強くなったという監督。その想像力は、自分のまわりの命や、他者へのおもいやりにもつながっていると感じた。

8月、最新作を完成させたばかりの監督の自宅を訪ねた。

インタビューの終わり際、年々視野が狭くなり視力を失って行く私に向かって、ゆっくりと手を差し出し、私の手を握りながらこんなことばをかけてくれた。
「キャメラマンの視力が衰えていくというのは、未体験のことゆえ、大いなる恐怖でもあるだろう。目を失ったキャメラマンが何をやるかというのは個人にとって大変な苦労だろうね。僕にはわからない苦労です。でも、僕にはわからないから“他人事”ではなくて。僕は僕なりに、失うものはない、必ずそれを生かして、自分らしく、一生懸命、うそつかずあるんだと。そう思って日々を一生懸命、生きている。だから、あなたには一緒に生きようね、頑張ってと握手を送るしかいまはないわけだけど。僕だって生きてるんだもん、がんを宣告されても」

絶望から立ち上がる 監督が教えてくれたこと

余命の宣告を受けた後も、「できることをコツコツ」と言いながら、新たな作品に挑む監督。

2年間、密着取材を続ける中で、みずからの状況に絶望し、生きる目標を見失いかけていた私も考えが変わってきた。視力を失うことで、確かに私にできることの範囲は狭くなった。しかし、まだできることを、より深めていけばいいのではないか。

大林監督が、「いまがいちばんのピーク」とインタビューで語ったのと同じように、私も難病と向かい合って生きているいまが、人と向き合い、伝える仕事の中で、実は最もよい仕事ができるときなのかもしれない。

私がこの仕事の中で向き合うのは、自然災害や事故など、ある日突然、「自分の力ではどうにもならない」状況に巻き込まれて、その後の人生と向かい合っている人たちだ。私自身も「自分の力ではどうにもならない」 難病とともに生きることになったからこそ、他人事ではなく、さまざまな境遇に生きる人たちの気持ちが以前よりも深く理解できるようになったと感じる瞬間がある。

私は、物理的な意味での視野や視力を日々失い続けているが、それによって、大林監督のように、“心の目”を見開くチャンスを得たのかもしれない。全身全霊で映画づくりに挑む大林監督は、映画だけでなく、生き方そのものからも、力強いメッセージを発していた。

大林監督の最新作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」は、10月28日から開かれる東京国際映画祭で初上映される。11月には広島国際映画祭でも上映され、戦後75年にあたる2020年の4月、全国の劇場で公開される予定だ。
映像センターカメラマン
川崎敬也