がんと闘う映画監督 大林宣彦の「遺言」(前編)

がんと闘う映画監督 大林宣彦の「遺言」(前編)
k10012146361_201911012355_201911012355.mp4
「この映画のエンドマークをつけるまでは、決して死なない。切迫感の中で、もはや最後の映画になっても、満足して生きたぞと言われる映画にしなきゃいけない。よもやここまで来て死ねるかという覚悟の中にいました」

大林宣彦監督(81)がみずから「遺作」と呼ぶ最新作の映画が、今月28日から始まる東京国際映画祭で初上映される。「時をかける少女」(1983年公開)などの尾道三部作で知られ、日本を代表する映画監督のひとりである大林監督が、がんと診断され、余命の宣告を受けたのは、2016年8月。

去年、東京郊外の自宅を訪ねた時、監督の体重は以前より20キロ近く減っていた。朝ご飯に400グラムのステーキをペロリと平らげていた大林監督だが、長引く抗がん剤治療で免疫力が低下し、かぜをひくだけでも命にかかわると医師に告げられている。

転移を繰り返すがんと闘いながら、みずからの命を削って「戦争と命」をテーマにした映画を完成させた大林監督に、私は2年前から密着取材をしてきた。20時間に及ぶインタビュー素材の中から、大林監督が映画に込めた「遺言」を2回にわたって読み解く。
(映像センターカメラマン 川崎敬也)

がんになってわかった“命の重み”

大林監督が肺がんステージ4の末期がんと診断されてから1年がたった頃、私は取材を始めた。

比較的体調が安定した、9月の晴れた午後、監督はお気に入りの散歩コースに私を連れ出してくれた。コスモスが風に揺れる、自宅の前を流れる川の遊歩道だ。
「時間があれば、本当は走ってたんだけど走れなくなったので歩いていますよね。僕は尾道の生まれで、海と山はあるけど川がないから、川のあるところに憧れていたんですよ。ここには川と雑木林があってね」
がんになる前は、この川沿いに甲州街道まで続く7キロのコースを、毎日走っていたという。
「体力とけんかは誰にも負けない自信がありましたがね。シナリオ書いてる途中とかね、原稿書いてる途中で一区切りつくと、表に出てちょっと20分から30分歩くとまたね、頭の切り替えもできるし。だいたい映画の仕事というのはね、止まってちゃだめなんです。動きながら考える」
残暑の木漏れ日が差し込む近所の公園まで歩くと、監督は足元の雑草を見つめながら、こんな心境を聞かせてくれた。
「これは僕たちは草だと認識しているんだけど、命に見えてきたのね。みんな命なんですよね。当たり前のことだけど。横にアリがいると、こいつガンじゃないかな、元気かな、なんて思っちゃうしね」
見慣れたはずの風景が、余命宣告を受けた監督の目には、違って見えていた。

“すべてが命に見えてきた”

散歩中に聞かせてくれたことばが、いつまでも耳に残った。

みずからの命に残された時間と正面から向き合い、すべてが命に見えたという心境にたどりついた人が、この先どんな映画を撮るのか。そのことばの真意が知りたいと、私は大林監督への密着取材を始めた。

最新作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」

広島県尾道市。
最新作のロケは、監督のふるさとで去年の夏に始まった。私は特別に撮影現場にカメラを持ち込むことを許された。

戦争を知らない現代の若者3人組が、タイムスリップして約150年前の戊辰戦争から太平洋戦争まで、かつての日本の戦争を追体験するファンタジー映画だ。
主人公の若者たちは、理不尽な戦争に巻き込まれて死んでいく人たちを救おうとあがくが、過去は変えられないことに気付くというストーリーだ。過去を変えることはできないが、かつての戦争を知ることが、未来を変える力になるというメッセージをこの作品に込めたという。
「映画で歴史を変えることはできないけれども、過去の戦争をなくすことはできないけれども、未来の戦争をなくす力はある、それが映画の力なんです。これはノスタルジーでも何でもなくて、未来を生きる若者たちのためにね、君たちのために、過去を学んでくれと。過去を反省してくれと。大人たちはバカだから反省しなかったけど、君たちが代わって反省して、すばらしい未来をつくってくれということを伝えたらなと思う。これから来る未来の戦争を押しとどめるために、過去の戦争体験が役に立つぞということを思ったので、それが映画のテーマになっています」

命の重みと戦争映画

なにげない日常の景色さえ「すべてが命に見えてきた」と語った監督。映画の中でその“命”を監督がどう表現するのか、私は気にかかった。そして、最新作の現場に密着する中で、それがかいま見えた瞬間があった。

中国大陸で若い兵士が上官から民間人を殺せと命じられるシーン。撮影の終盤、監督は台本にない、若い兵士が雑草を手に取るだけの、無言のカットを加えた。わずか2、3秒のカットだ。監督は、演じる俳優の満島真之介さんにこう伝えた。

「草を慈しみましょう。米兵も日本兵も、草も空も海も、すべて命の仲間です。戦争なんてバカなことをしちゃいけない」

大林監督の前作で主役のひとりを務めた満島さん。満島さんは沖縄出身で、祖父がアメリカ兵だったことが最近になってようやくわかってきたという。

「目の前にある草、そして自分の先祖とか故郷の沖縄、自分はクォーターで祖父が沖縄の米兵だったこともわかってきて、それも全部監督には話している。そのうえで監督は、ああいうひと言を急にかけるんです」と満島さんは撮影後に明かしてくれた。

そのうえで、「あの監督が言ったひと言、“どういう人種のなかにも、どこの兵隊たちにも、草にも空にも海にも、すべてに命が宿っている”と。すべて、その先には命があるんだと。事柄とか事象じゃなくて、すごい根本のことを言われた気がするんですよ。あなたが宇宙に広がっていくようなものが、あなたの中にあるよ、ということを監督は感じてくれている気がする」と即興の追加シーンを振り返った。
監督はなぜあの時、あのひと言を投げかけたのか。私はその真意が気になって、撮影後のわずかなタイミングを見計らい、問いかけた。
「あの時しんちゃん(満島真之介)の顔みたら、そう言ってやろうと思っただけでね。彼はそういうことが表現できる。沖縄の米軍の子ですからね。歴史の痛みを彼自身がとても感じるところがあるから。痛みを感じる心を持っている人間は、優しくすることもできるので。よかったでしょ、彼が草を慈しむあの表情は。痛みを感じる心を持っている人間は、優しくすることもできる。その瞬間が映画になるということですよ。それがなきゃ映画なんか作れない。それが仲間と映画を作るということです」
穏やかな口調で教えてくれた。

「命や痛みに思いを寄せる想像力」

それこそが戦争を防ぎ、平和につながるという思いを込めたカットだった。細部までこだわりメッセージを込めていく監督。その意図をくみ取り、演技という形で昇華する役者。両者の相互作用が「大林組」の結束を強め、平和という映画のテーマを深めていた。

「売れる映画」と「つくりたい映画」のはざまで

「時をかける少女」などの大ヒット作で知られる大林監督は、アイドル映画の旗手として知られている。

1977年、39歳で売れっ子CMディレクターから商業映画に進出。大手映画会社に属さず、40本以上の映画を制作してきた。斬新な映像表現から「映像の魔術師」と呼ばれ、岩井俊二監督、犬童一心監督、手塚眞監督など“大林チルドレン”と呼ばれる若い世代の監督にも多大な影響を与えた。

しかし華やかなイメージとは裏腹に、大林監督は、デビュー当初から「売れる映画」と「つくりたい映画」のはざまで苦悩していた。

戦争をテーマにした前作「花筐/HANAGATAMI」(2017年公開)の脚本は、実は40年以上前に、大林監督が商業映画監督としてデビューする前に書かれたものだ。商業映画デビュー作は「HOUSE/ハウス」となっているが、実はそれよりも前に、「花筐」を撮るはずだった。

「花筐」は、太平洋戦争開戦前夜の日本を舞台に、戦争に青春を奪われていく怒りを描いた檀一雄原作の青春映画だ。1975年、原作者の檀さんに映画化の許可を得て脚本も書き上げていた。しかし当時の映画会社の意向や時代背景の中で、映画化の話は立ち消えになったという。
「僕は『花筐』の代わりに当時、東宝から請われて、『なんか“ジョーズ”みたいなおもしろい映画をつくってくださいよ』と言われました。僕が『花筐』を映画にしようとした40年前は、日本は高度経済成長期で浮かれきっちゃって、もう戦争のことなんかなかったことになっている時代だから、そんな時代にこれを作っても単なる放蕩無頼の青春期で終わるだろうと。僕たちはね、意識的にノンポリで生きてきたんですよ。何を言っても通じないよと。高度経済成長の中じゃあ、僕たち敗戦少年の思いなんて通じる社会じゃないねという。それで40年前に『花筐』をやめたわけです」
その後、大林監督は新人アイドルを起用した青春映画で立て続けにヒットを飛ばし、時代のちょうじとなる。

しかし、そんな大林監督の作品づくりに、大きな転機が訪れる。2011年の東日本大震災だ。
「3.11に日本が崩壊しかけて、そして日本人が本当に高度経済成長期のおごりと高ぶりを反省した。そういう目が日本人に芽生えた。3.11で、これはやっぱり皆さんが物と金で豊かになればそれでいいという生き方は間違っていたと。日本人はやっぱり、清貧の清らかな魂を持った者で、そのことを信じることから3.11を再生のきっかけにしようと。あの時、日本人みんなそれに気が付いて、そう約束したと僕たちは信じていたから。僕も間違いだらけの生き方をしてきた。だから自分の間違いを反省してよりいい方向にしようと思っている」
そして大林監督は2011年以降、戦争をテーマに映画を撮り始めた。戦争三部作の集大成として、2016年8月、40年越しの作品「花筐」の制作に取りかかる。
そのクランクインの前日、肺がんステージ4と余命宣告を受けた。

戦争体験とがん 「命」と向き合って

大林監督が戦争にこだわる理由。その手がかりが、ふるさとの尾道で過ごした少年時代に残されていた。
監督は1938年、広島県尾道市で生まれ、軍国少年として過ごした。当時、熱心に描いていた絵を私に見せてくれた。敵国アメリカとイギリスの指導者をゼロ戦が攻撃し、悲鳴を上げる絵だ。

「大人になったら戦争に行き、国のためにいのちをささげる」のが当然と信じて育ち、7歳で敗戦を迎えた。

終戦後、進駐軍が来て皆が殺されるといううわさが流れた。思い詰めた母親が幼い大林さんを殺し、そのあとみずからも命を絶つのではないかと感じた夜があったという。
「国破れればもう命はないわけですね。国もなければ自分の命もない。だから、当然、母親とふたりで自決も考えて。僕なんかは戦争の肌実感を肉体で知って、それが染み込んじゃっている。だから理由もなく『戦争は嫌だ』って素直に叫べる。でもいまは、もう戦争を知らない世代しかいなくなっちゃったんですよ。今は、理屈をつけりゃね、戦争も必要な時代になってしまったんですよ。じゃ日本経済はどうする?とかね。いま、戦争の肌実感が失われていって、そのことが世界中を動かしてきているんだと。じゃ、実感がある人間は実感を伝えなきゃいかんと」
戦争体験から74年。がんによる余命宣告から3年。一層「命」を意識するなかで、大林監督の撮る映画には「命の重み」が前景に置かれるようになっていた。

黒澤明の「遺言」

ことし2月、私はパリに飛んだ。日仏友好160年を記念したパリでの映画祭に招かれた大林監督を追うためだ。車いすに乗り、渡航のリスクを冒してパリを訪れた大林監督は、かつてCMディレクター時代によく通ったカフェ、ドュ・マゴに私を呼び出した。

そこで聞かせてくれたのは、大林監督が30年前に黒澤明監督から託された「遺言」だった。
「あの戦争のいかがわしさを直接知った僕たちがものを言わんといかんだろうと。そのことをクロさん(黒澤明監督)も期待をしていましてね。戦争はすぐにでも起こせるけど、平和なんてものは400年かかるぞと。俺(黒澤)は一生懸命、先輩たちの後を引き継いでやってきたけど、俺も80歳でそろそろ死なないといかんから、大林君、君はいくつだ?はい、50歳です。俺より30歳若いね。30歳若けりゃ、俺より20年は先に行けるぞと。俺がやったこと、体験したことは、君は10年で学んで、俺の20年後の映画を君は撮れるんだよと。そこから先は君の子どもや孫たちが、さらにその先を続けてバトンをつないでいけば、いつか俺が望んだ、俺の400年先の映画を、君の孫の孫くらいが、実現してくれるかもしれないと。表現者が願っているのは、結局『平和をたぐりよせる』ってことしかないんだから、時間がかかるけれども、俺たちはひとつになって伝統の中で結び付いていかなきゃいけない。それを君に続きをやってほしいと。頭を下げる理由は、それですと。どうか健康で長生きして、俺の続きをやってねと。それくらい映画というものは美しくて力がある」

映画で「未来の戦争」をなくしたい

余命宣告を受け、残された時間と向き合う日々。そのなかで、長年、心に温めてきた黒澤監督との約束が今、切迫感を持って問いかけてくるのだという。
「余命3か月となったのだから、あす死ぬかもわからないから。自分の残り時間が少なくなってくると、もう俺のためだけじゃない。病気になったおかげで、僕は目が開かれたことが多くてね。映画人としてはいまがいちばん元気なときです。自分の役割がわかってね。何をすべきかわかったときがいちばん元気で。そう意味じゃ僕は、僕の映画作家の人生でいちばん元気なときだけど、肉体がいちばん元気なときをすぎちゃった。そのもだえや混とんがまた、人間であることを見つけていくという、発見していくということの役には立ってるんだと思って。何でも目の前にあるものは受け入れて、その中でも負けず、どうかすると。その中でもだえながら、楽しみながら、ドュ・マゴでペリエを飲んでいるっていうのが、きょうの僕です」
がんの余命宣告を受けてからも「あと30年生きて、30本映画を撮る」と、大林監督は人前で明言してきた。

取材を始めた2年前、監督はみずからの老いを撮られることを嫌い、カメラを向けた私を叱りつけたこともあった。しかし、この日の監督は、みずからの老いを認め、残された時間についても率直に語った。心の中で、何かが変わってきたのだと感じた。
「映画で歴史を変えることはできません。かつて僕たちが犯した間違い、戦争はぬぐえませんから。でも未来を変えることはできる。やがてくるはずの次の戦争を押しとどめて戦争なんかない時代をつくることは、映画にできることなんじゃないか。政治や経済だけじゃ果たせない、人類の夢を紡ぐのが芸術というジャンルですからね。そのためにこのじいちゃんも、過去の戦争の体験者として、それを語ることで、つながることができると。未来の戦争をなくす力に僕の人生もなるんだというので、ぴっと一本つながって。ということは黒澤さんにも小津(安二郎)さんにもつながっていくと。いまこそ僕が活躍すべきときだなと、気持ちに、勇気を持たされているというね。クロさん大丈夫だよとね、うん」
ひと息に話し終えると、空を見上げるようにほほ笑んだ。

戦争体験、黒澤監督、がん。

“すべてが命に見えてきた”という散歩でのことばは、大林監督の心の中で連綿と続いた問いの末にたどりついた結論だったのではないか。

これまで断片的だった取材が、一つにつながってきたように私は感じた。カフェでのインタビューは約束の1時間余りがすぎていたが、妻でプロデューサーの恭子さんが次の予定を伝えても、監督は話を切り上げようとはしなかった。(後編に続く)
映像センターカメラマン
川崎敬也