「全員、逃げろ」 決断した男

「全員、逃げろ」 決断した男
その日、村から住民全員の姿が消えたーー
1人の男の指示で、2167人が村を捨てたのだ。何が起きていたのか。
今回、門外不出の「ノート」を取材、村民とリーダーとの間にどのようなやりとりがあったのか。決断と葛藤に迫った。
(山田剛史)

非公開の「ノート」

「非公開のノートがあるらしい。撮影できないか、許可を取ってくれ」

8月下旬、私は上司のデスクから指示を受けた。
さらっと言われたが、これは難しい取材になるかもしれないな、と感じた。

そのノートが書かれたのは、15年前、新潟県中越地震が起きた時だ。

平成6年生まれの私は、当時小学4年生。複数の車が巻き込まれた土砂崩れの現場から、2歳の皆川優太ちゃんが奇跡的に救出される映像ぐらいしか印象にない。
ことし8月に、新潟県の中越地方をカバーする長岡支局に異動したばかり。
地震の知識はほぼ皆無といっていい。さて、どうするか…。

苗を持つ男

とにかく、まずは現地に向かおう。
ノートは、旧山古志村(現在は長岡市山古志地区)にある復興交流館「おらたる」に置いてあるという。
3月にリニューアルされた施設には、地震が起きた時間に止まった時計や、土砂に押しつぶされたビデオデッキ、それに住民が避難する過程を示す写真パネルなどの展示があった。
「全村避難」か…そうだ、この村では当時、住民が1人残らず村から避難したのだった。ほかの大きな災害でも、聞いたことがない。

展示の一つに、作業着で首にタオルを巻いた恰幅のいい男のポスターを見つけた。田んぼに立ち、稲の苗を持ってこちらを見ている。
最後の山古志村長、長島忠美。全村避難を決断したのは、彼だった。

地震の翌年、山古志村が長岡市に合併されたあと、国会議員に。おととし、脳出血で亡くなった。

村長らしからぬ格好と穏やかな笑顔。
全村避難を決断した男は、さぞ「激しいリーダー」だっただろう、そう思っていた私のイメージとは違っていた。

見せてほしい

目当てのノートは、展示室のガラスケースの中に保管されていた。
ノートは6冊。閉じられていて、中に何が書いてあるかはわからない。

これが村長と村民の交換ノート、「頑張れノート」である。

災害が相次ぐ日本。対応を誤って、激しい批判を受けるトップも多い。しかし長島に関しては、少なくとも私はそういう声を聞いたことがない。
彼は、村民と、そして巨大な地震とどのように向き合ったのか。それを知りたいと思った。
市役所の広報に問い合わせたところ、村長時代の長島を支えていた当時の側近で、このノートを一時保管していた職員の許可を取ってくれとのことだった。

「う~ん、見せるのはお断りしているからなあ…」

にべもなく難色を示された。
ノートには住民が自分の名前を明らかにしたうえで、当時の気持ちなども赤裸々に書かれている。プライバシー保護の観点からすれば、確かに難しいかも知れない。

「大きな災害が続いたこともあって、中越地震の記憶が風化しているのではないか、とも言われています。当時の住民の声から、避難生活を改めてひもとくことは、いまの時代にも重要なはずです。それに向き合ったリーダーが何を考えたかも、参考になるはずです」
2時間ほどかけて取材の趣旨を説明し、職員も理解を示してくれた。ただ、やはり住民から反対の声が上がる懸念があるという。

職員は、山古志地区の住民会議で取材の趣旨を説明し、後押ししてくれた。私も、地区の有力者たちのところを毎日のように通って取材の意図を説明。取材の許可を得られたのは、結局、9月に入ってから。最初にノートを目にした日から、2週間ほどがたっていた…。

村を捨てろ

平成16年10月23日、午後5時56分。
新潟県中越地方を震源とした地震が発生。最大震度7を観測した。
68人が犠牲となり、約1万7000棟が全半壊した。
山あいにあり、こいの養殖や農業が盛んで緑豊かだった山古志村では5人が死亡、土砂崩れや集落が水没するなど壊滅的な被害を受けた。
村長だった長島は地震当日から村を回り、電気や水道などのライフラインが完全に破壊されていることを把握。発災の翌日、村民の命を守るためとして前代未聞の「全村避難」を決断した。
村民たちは約15キロ離れた長岡市の避難所に、自衛隊のヘリコプターや車が入れるところまで徒歩で移動。荷物を持たずに身一つで避難した人も多くいたという。
長島が村民たちに村での生活を捨てさせた瞬間だった。

頑張れノート

避難生活は、長く続いた。すべての住民が仮設住宅を退去するまで約3年かかった。

「頑張れノート」は長島が苦しい避難生活を送る2167人全員の声を聞こうと始めたという。
全村避難から10日ほどたった11月。長島は住民を集落ごとに8つの体育館に分けて避難をする再編を実施。地域のコミュニティーをできるだけ維持したいという判断だった。
ノートは、避難所から仮設住宅に住民のほぼすべてが入居するまでの約1ヶ月半にわたって、8つの避難所それぞれに置かれた。現存しているのは8冊のうち6冊だ。
中身を読んでみて、まず印象に残ったのは村民の記述だ。

つらい避難生活に対する不満や、暮らしへの要望などばかりだろう思いきや、違っていた。目立っていたのは、村長への激励や、全国からの支援への感謝のことばだった。正直、意外だった。
実際、今回の取材で出会った人たちも、「全国の人の支援がなかったら私みたいな地域は存続できなかった」と話す人が多かった。山古志の人々の謙虚さと温かさなのか。

もちろん、住民からの意見や要望も書かれている。ただ、それに対する長島の記述が淡々としていることに拍子抜けした。

「山古志村に早くもどりたい 道路の復旧を早くして下さい もどっても農地等がひどいので早く復旧を望む 田畑を耕す事が老後の生きがいであります 今ではこれからの生活のめどがたたず国県の支援を早期にお願いしたい」


□村長からの返信□
「できるだけ早く帰れる様 それもみんなで帰れる様頑張っています 皆さんも応援して下さい」

おおよそ、こんな調子である。
職員によれば、長島は、避難所となっている体育館の近くにテントをはってそこで生活していた。村の職員に避難所からノートを集めさせ、毎日深夜に帰って返事を書いていたという。疲労の中、2行程度の淡々とした記述が精一杯だったのか。

「梶金(=集落名)ですが五日の日に始めて車取りに行くんですが運転士だけだそうです 雨が降れば思う物も持ってこられません 雪の降前に、もう一度車で村に荷物取りに行って来たいです 宜しくお願いします」


□村長の返信□
「できる限りでなく必ず約束します 少し待っていて下さい」
「必ず約束」…読み進めていくと、ある特徴に気付いた。
淡々とした記述の中、長島は絶対にマイナスのことを返していない。「必ず約束する」「早く帰れる様頑張ります 信じて待っていて下さい」などと、前向きな返事を書いているのだ。

山古志村の被害は甚大で、水没した集落もあり、復旧がまるで見通せなかったはずだ。そんな中で、なぜこんな約束ができたのだろう。約束が守られなかった時の反発もあるだろうに、と思った。

「俺の責任」

どんな思いでノートを書いていたのか、そのときの長島の心境を知りたいと、いまも山古志地区で民宿を営む妻の久子さんを訪ねた。
久子さんは、長島が全村避難の決断について、生前に語っていた言葉を明かしてくれた。
「ある時、長島が『全村避難は誰にも相談しなかった。責任を誰にも負わせたくなかったんだ。俺の責任でやったことだから住民に安心を与えなければいけない』と言っていた。それが村長としての責任だと」
「村の人たちの生活をある意味壊したという自責の念じゃないかな。このノートには、その責任を果たす意味もあるんじゃないかな」

ノートは自らの責任を確認するため、そういうことなのだろうか。

当時の側近にも聞いてみよう。村の企画課長だった青木勝さんは、ノートが村長を支える面もあったと推測する。
会議でこのノートの内容をもとにした議論はなかったとした上で、
「村長はいつも『村民とともになければならない』と語っていた。村民が自分を頼りにしている。村長にとってこのノートで全ての住民の要望を吸い上げることで、ある種、自分の決断に自信を持ち行動にうつすことができるモチベーションになっていたのでは。約束して自分自身を奮い立たせる意味もあったと思う」

あの無理にも思える約束は、みずからを立ち上がらせるため、だったのか。

もう1人、ノートを書く長島を、直接見ていた人物がいる。実はNHKには、長島がノートを書く映像が残っているのだ。発災から3か月のタイミングで放送したNHKスペシャル「いつかまた故郷へ~山古志村・村民たちの80日~」である。

取材したのは、現在、東京の報道局でデスクを務める一由貴之。当時、村長のテントの中に入れてもらい、取材をした唯一の記者だ。台風19号の取材応援で宮城県に入っている一由に、電話で尋ねてみた。

一由によると、長島がテントに帰るのはいつも午後11時過ぎ。
大好きなたばこで一服して気持ちを落ち着かせてから、ノートに目を通していたという。
「実は、村長という存在には個々の住民がどう思っているのか、細かい情報が入らない。だからノートを設置したんだよ」
村長の返事があっさりしてますよね?これは。
「村長という立場上、なかなか具体的なことを詳しくは書けない。住民の中で疑心暗鬼が起こることを危惧していたんだと思う。だから素っ気ない返事になっていたのでは。でも記述の要望をもとに、職員に『どうなっているんだ』と確認はしていた。もちろん誰が書いたのかは言わなかったけどね。気を遣う人だった」

一由には村長としての厳しい姿を見せることもあった長島。ただ、全村避難をさせたものの、財源もない中で、どうやって山古志を復活させるか、そんな不安を漏らすこともあったという。

住民にはどう映ったのか

ノートを書いた住民に会ってみたい。
しかし、15年の歳月がたち、人口が被災時の半分以下になっている山古志地区では「書いた人」がなかなか見つからず、取材は難航した。

毎日、山古志に通い、書いたと思われる人を訪ねるも、空振りの連続。それどころか、ノートのことすら記憶にない人も多くいた。

2週間たって、ようやく書いた人に会うことができた。

小池一雄さん68歳。当時、全盲の母とともに避難所に入ったという。
「ストレスなんてもんじゃないよ。あんな狭いところに押し込められたりすると。おふくろは帰りたい、帰りたいと言っていた」
小池さんにノートを見せると懐かしがった。その記述はこうだった。

「ひなん所にいて唯いつのことは村の中のことが耳に一早く出来なかったことについては人々が一番つらかったことと思いました 村の中の道路の状態を一早く知らせることが必要でなかったかなと
山古志の人達は長岡より山の方がどれだけ良いか 一日(も)早く山古志に帰れるように村長さんを頭に国、県に呼びかけてほしい
仮設に移っても住民との対話を忘れないでほしいと思う
最後に村の人達が安心して住める山古志になりますことお願いして終りにします ガンバレ村長村長」
□村長からの返信□
「至らぬ事をおわびします でも心からのさけびを確かに受けとめました 必ずできるだけ早く帰れる様頑張ります」


小池さんは、ノートの存在が当時ありがたかったという。
「当時の区長さんとか声の大きい人は村長に直接言いにいっていた。ぼくは直接言えるような立場じゃ無かったからこのノートで自分の気持ちを書くことができた。やっぱりなかなか声が上げづらい人の受け皿にもなっていたと思う」
そして、このノートは「宝物だ」と語った。
「当時の映像とか、記事はあるけど僕らのように声を上げづらい人と村長とのやりとりってこのノートにしかないから。一つの地震の記録と言えるんじゃないかな」

「バカ村長」

ノートには厳しい意見も書かれていた。

長島はのちに、インタビューでノートの内容について答えたことがある。
「住民が何でも思ったことを書けるようノートを避難所に置いていたんです。あるときそのノートに『3週間も経ったのに、何も目標を示さないで、何を頑張れと言うんだ。このバカ村長』と書いてあったんです」
「胸を突かれる思いがしました。私は頑張れと言うだけで、具体的なことを何も言ってなかったんです。(中略)ノートに書いてあったように、人間は目標が見えてなかったら頑張れない。ただ頑張って走ろうというのと、頑張ってあの山まで走ろうというのは、全然違うことなんです。確かに私はバカ村長でした」
(長島忠美・石川拓治著「国会議員村長 私、山古志から来た長島です」より)

長島はこのあと、村民に「なるべく早くいつどんな形で村に帰れるか具体的に示します。そのために復興計画を立てます」と伝えたという。

前出の村の企画課長、青木さんもこう話す。
「途中で、いついつまでになにをするってことを言い始めたのは覚えていますね。ノートが影響していたのは驚いた」
ノートの記載を読み進めると、本格的な冬を迎えるにつれ、住民からも次第に故郷山古志に帰りたいという記述が増えるのが確認出来た。
「山古志村脱出してから一ヶ月半もすぎます ここでお世話になって居る皆さんと『必らず帰って大好きな山古志村で畑仕事等続けたいね 野菜を作ったり緑一杯の山古志村で頑張ろうね』とお茶等を飲みながら何回もうなずきながら話し合います」

□村長からの返信□
「私もみなさんの頑張りを一生忘れません そんな気持を大切に頑張りたいと思います」
「おれの住む所は山古志しかない 畑でいろんな野菜を作ったりきれいな鯉を生産したりしたい またできるようになる日が1日でも早くくるようにしたい」


□村長からの返信□
「ありがとうございます 気持が痛い程分かります 私達のすべての思いが山古志にあります すべての生きがいが山古志にあります 必ず帰って豊かな山古志に暮らしましょう 頑張って」

彼は変わった

住民に具体的な目標を示し始めた長島。

もともと、山古志村は地震の翌年の4月に、長岡市との合併が決まっていた。
自分が村長でいる間に、復興計画を住民に示したい。
長岡市との合併まであと2週間という3月中旬に、長島は復興計画を打ち出した。
「中越地震前には抜け殻みたいだった。合併が決まってもう消化試合みたいなものだったんだろう。だけど地震が起こってから全く人が変わった。一つ一つの判断、行動力、集中力、全てが研ぎ澄まされていた」
「短気な人で、職員には怒る時もあったけど、村民に何を言われても絶対に嫌な顔一つしなかった。山古志を愛し、村民を愛した人だったんだね」

山古志村を長岡市に託して国会議員となったあとも、長島は復興をライフワークとし、東日本大震災の復興にも携わった。
6冊のノートと、人々の話、私はそこに、巨大な災害に立ち向かった「リーダー」の姿を、確かに見た気がする。
千葉での大規模な停電や、台風19号での甚大な被害。そしてこれからも災害は続くだろう。
非力な人間がそれに抗するのは容易なことではない。その時、声なき声を拾い上げ、希望を与えること、そして具体的に動くこと。それこそが「被災者に寄り添う」ということであり、リーダーの責任なのだ。

そんなことを考えながら私は、美しい棚田がよみがえった山古志を後にした。
長岡支局記者
山田 剛史
2018年入局。熊本生まれ。警察や中越地震からの復興を取材。新潟に配属になってから10キロ太ったのが悩み。