私は見た、英国EU離脱が難しいわけ

私は見た、英国EU離脱が難しいわけ
イギリスの、EU=ヨーロッパ連合からの離脱期限が今月31日に迫っています。

しかし、イギリスがどのような形で離脱するのか、その条件をめぐる交渉で、イギリスとEUはいまだ合意に至っていません。

立ちはだかる最大の難問は、イギリスとアイルランドの国境管理の問題です。

この先どうなるのかが見通せない中、イギリス・北アイルランドの国境の町で、いらだちや不安をあらわにする人々に出会いました。(国際部記者 山田奈々)

“あってないような国境”

北アイルランドは、日本に住む私たちにはあまりなじみがないかもしれませんが、イギリスの一部です。イギリスは島国ですが、地続きの国境がアイルランド島にあります。

島の北部が北アイルランド、南部がアイルランド共和国です。現在は国境を通過する際に国境検査を受ける必要がなく、自由に行き来できます。
人々に話を聞くと、国境はあってないようなものなのです。
「国境の町に住んでいるので、毎日国境を越えます。妻はアイルランド出身なので、アイルランドによく行きます」
「家から1マイルくらいのところが国境なので、コーヒーを飲みにいったり近所の人と交流しに行ったり、1日に3、4回は国境を越えます」

国境管理が最大の難問に

しかし、この“あってないような国境”の管理の問題が、イギリスのEUからの離脱をめぐる交渉を難しくしている最大の要因になっています。

イギリスがこのまま離脱すれば、EU加盟国であり続けるアイルランドとの国境で、輸出入品に対する物理的な国境管理が必要になる可能性があるからです。これは現状の変更を意味します。
イギリスのジョンソン首相は今月2日、EUに対し新たな提案を行いました。
EUから離脱したあとも、北アイルランドにかぎっては、地元の意向を踏まえたうえで一定期間、特例として輸出入される農産品や工業製品に対するEUの規制を受け入れるとしています。

その一方で、こうしたモノにかかる関税については、イギリスが独自に適用するとしています。イギリス自身の関税・貿易政策を取り戻すことが、EU離脱の重要な目的の1つだからです。
ただ、国境は開かれた状態を保ち、国境から離れた場所で何らかの管理を行うとしています。

しかし「通関手続きを行う一方で、国境を開かれたままにする」という一見矛盾する方針をどのように実行に移すのか、その具体像までは示されていません。

紛争を思い起こさせる

国境に税関を設けて輸出入を管理すればよいのに、なぜそれをしないのかーー
疑問に思われるかもしませんが、そう簡単にできない理由があるのです。

北アイルランドでは1990年代までおよそ30年にわたり、イギリスにとどまることを求めるプロテスタント系住民と、アイルランドに帰属することを求めるカトリック系住民の間で激しい対立が起きました。
武力抗争や爆弾テロへとエスカレートし、3000人以上が犠牲になりました。当時は国境に検問所が設置されて移動がチェックされ、そこを標的にしたテロも多発しました。
転機が訪れたのは、21年前。和平合意が結ばれたことで、国境の行き来が自由かつ安全にできるようになりました。相互の往来を自由にして地域の経済を繁栄させ、住民間の対立を解消する意図がありました。

北アイルランドに住む60代のカトリックの男性は、「国境はただの境界線ではない。アイルランドの統一を願う人々にとっては、国の分断の象徴でもある」と話していました。

イギリスのEUからの離脱に伴って、税関など物理的な国境管理が復活すれば、人々に紛争当時を思い起こさせ、過去に逆戻りしかねないという不安を住民に抱かせているのです。

国境近くに住む人たちは…。
「私は紛争の時代に生まれ育ったので、国境管理で人々がどれだけ苦労してきたのか、よく覚えています」
「治安が悪化してしまうかもしれないので、物理的な国境が復活しないことを望んでいます」

地域のビジネスに打撃

仮に物理的な国境管理が復活すればビジネスにとっても大きな打撃だと、懸念の声が広がっています。
北アイルランドのエニスキレンで、アイルランド島で最大規模の木材加工会社を経営するブライアン・マーフィー社長。

会社の売り上げは日本円で年間およそ150億円です。木を切り出している森林は国境にまたがっていて、60%がアイルランド側、40%が北アイルランド側です。

仮に税関や検疫などの国境管理が復活すれば、現在の事業のやり方が成り立たなくなるおそれがあるといいます。

越境は年間2万3000回

伐採された木は大型トラックに載せられ、国境で何のチェックも受けずに北アイルランドにある加工場に運ばれます。

国境を通過する回数は1年間におよそ2万3000回、1日当たりおよそ80回に上ります。
マーフィーさんは、トラックが国境を通過するすべての地点を洗い出し、仮に物理的な国境管理が復活した場合に備えてルート変更の可能性を探りました。

それでわかったのは、仮に特定の場所で税関や検疫を通す必要が生じた場合、輸送ルートを集約しなければならなくなる可能性があることです。
これに伴って、輸送時間の短縮のために現在使っている私道などの細い道を諦めざるをえなくなるといいます。輸送に今より長い時間がかかり、コストアップにつながる懸念が出てきました。

しかし、EU離脱後の国境管理の姿が具体的に示されていない今の段階では、これ以上の検討や対策はとりようがないと、いらだちを隠せません。
「答えを知っていたら真っ先にやっています。本当に解決方法がわからないんです。イギリス政府は、EU離脱は問題ない、簡単だとあれだけ言っていたのに問題だらけだ」(マーフィーさん)

新工場を建てたいけれど…

北アイルランドの別の国境の町ロンドンデリーで、食品のパッケージに貼るラベルを作る会社の社長、ギャビン・キリーンさんも対応に苦慮しています。

従業員はおよそ50人で、売り上げは日本円で年間およそ670億円に上ります。ラベルの材料となる紙やプラスチックは、すべてドイツやフランスなどEU各国から仕入れています。一方、製品のおよそ3分の1をアイルランドの食品メーカーに売っています。
イギリスがこのままEUから離脱すれば、輸入する材料と輸出する製品の双方に関税をかけられるおそれがあり、コストの増加は避けられないと心配しています。

そこでキリーンさんは、EU加盟国であり続けるアイルランド側に新しい工場を建設する検討を始めました。アイルランドに工場を作れば、関税をかけられずに済むからです。

工場の建設に必要な資金はおよそ4億円。しかし、キリーンさんは決定に踏み切れないでいます。
「アイルランド側の新しい工場の建設予定地は、今の工場から1マイルも離れていません。互いに近ければ従業員も融通しあえます。ただ、イギリスがどのような形でEUから離脱するのかが不透明なので、本当に工場を作るべきかどうか決められません。小さい会社なので投資がむだになることは避けなければならないのです」(キリーンさん)

あの頃には戻りたくない

キリーンさんは社長に就任して以来、20年余りの間に、売り上げをおよそ6倍に増やしてきました。

今、心配しているのは、ビジネスへの影響だけではありません。地域の治安が悪化しないか、懸念しているのです。かつての北アイルランド紛争が激化するきっかけとなったのは、1972年にロンドンデリーで起きた事件だと言われています。「血の日曜日事件」です。
カトリック系の住民が参加するデモ行進にイギリス軍が発砲し、14人が犠牲になりました。
この町で生まれ育ったキリーンさんは、紛争当時のことを今もよく覚えているといいます。現在の開かれた国境に物理的な国境管理が復活することになれば、北アイルランドとアイルランドが分断され、住民間の対立が再燃しはしないか、心配だといいます。
「買い物に行くときは、店が爆破される危険と常に隣り合わせでした。店に入る時、女性はカバンの中身を見させられ、男性はボディーチェックを受けるのが当たり前でした。学校では毎年2、3人の友人が銃撃で親を亡くしていました。何があっても絶対にあのころには戻りたくありません。国境を自由に行き来できなくなると、北アイルランドの情勢は不安定化するおそれがあります。国境管理が復活すれば、町は再び経済的に困窮すると思います。そうならないことを望んでいます」(キリーンさん)

取材を終えて

現地を訪れると、先を見通せないままビジネスを続けざるをえないいらだちや不安をあちらこちらで耳にしました。
さらに過去の紛争が人々の脳裏に残したトラウマが計り知れないものであり、国境問題がいかに政治的にセンシティブであるかを実感しました。

開かれた国境をどう維持するのか。一方で、国境管理を具体的にどう行うのか。
ジョンソン首相はこの二律背反への答えを見いだし、しかもEUの同意を得て、イギリス議会の承認も得なければなりません。

今月31日に離脱期限が迫る中、針に糸を通すような作業の前途に光明はあるのか、見続けていきます。
国際部記者
山田奈々
平成21年入局
長崎局、千葉局、経済部を経て
この夏から国際部